なぜ広島電鉄は「40億円」の投資を拒んだのか? ついに全国交通系ICに対応、地方路線バス会社の希望となりつつあるワケ
クラウド型決済の導入背景
交通系ICカードとタッチ対応クレジットカードによる乗車システムの競争が激しくなっている背景には、地方の交通事業者が抱える厳しい経営環境がある。
【画像】「えぇぇぇぇ!」 これが36年前の「広島駅」周辺です!(計10枚)
キャッシュレス決済の仕組みは定期的な更新が欠かせず、多額の費用がかかる。そのため事業者だけで更新を進めることは難しく、国や自治体の補助金に頼らざるを得ない。この状況が、それまで交通系ICカードが大きな力を持っていた市場に、クレジットカードのタッチ決済が入り込む余地を生んだ。
この技術の変化で重要なのは、カードや決済機で処理を行う従来の「カードベースドチケッティング(CBT)」方式から、クラウド上で運賃を計算する「アカウントベースドチケッティング(ABT)」方式へ移りつつある点だ。広島電鉄がNECやレシップ(岐阜県本巣市)と共同開発し、2024年7月から導入を始めた「MOBIRY DAYS(モビリーデイズ)」は、日本で初めてABT方式を採用した鉄道・バス向けの乗車券決済システムである。
車載機器は利用者を識別する番号の読み取りに重点を置き、実際の決済処理はクラウドサーバーとの無線通信で行う。このため、特定メーカーや独自の暗号化技術への依存を減らすことができ、導入や更新にかかる費用の抑制につながる。MOBIRY DAYSは、地方の交通網を維持していくうえで有力な選択肢となる可能性を持っている。
更新費高騰とPASPYの終了

広島電鉄の路線バス(画像:写真AC)
交通系ICカードシステム「PASPY(パスピー)」の後継として導入されたのがMOBIRY DAYSである。広島県内では1993(平成5)年に磁気式の「バスカード」が導入され、その後2008年にPASPYへ移行した。全国相互利用カードの片利用にも対応してきたが、高額な機器更新費用が重荷となり、2025年に運用を終えた。
朝日新聞の2022年3月9日付報道によると、2008年にサービスを始めたPASPYは、広島電鉄やいわくにバスなど県内・近郊の32社で導入され、累計発行枚数は190万枚に達した。しかし、運賃計算を担う車載機器やサーバーは7~8年ごとの更新が必要で、その費用は40億円を超える。広島電鉄の負担だけでも約半分に及び、新型コロナ禍で経営環境が厳しくなるなか、各社が維持を続けることは難しくなった。
これを受けて広島電鉄は、NECなどと共同で新たな乗車システムの開発に着手した。スマートフォンのQRコードや新しいICカードを利用し、無線通信で接続されたクラウド側で運賃計算を行う仕組みである。当時の椋田昌夫社長は、費用負担の軽減に加え、将来は顔認証など多様な認証手段にも対応できる柔軟性を導入理由として挙げていた。
県内・近郊32社、累計190万枚という利用規模に対し、7~8年ごとに40億円超の更新費用を要する仕組みは大きな固定費負担となっていた。運営協議会全体では約50億円、広島電鉄単独でも約20億円の更新費用が見込まれていた。椋田社長は2021年6月の株主総会でこうした負担への懸念を示し、PASPYから撤退してQRコード決済へ移る方針を表明した。地域の中核事業者である広島電鉄の離脱は、地域独自の共同システムが維持しにくくなっていた現実を映し出していた。その後、広島電鉄は2022年3月にNECやレシップと新システムの開発を始めた。
一方、広島高速交通(アストラムライン)が新システムに参加しなかった背景には、都市鉄道ならではの事情があった。JR山陽本線や可部線など広域の鉄道網と接続しており、全国交通系ICカードとの相互利用を維持する必要性が高かったためである。
対応拡大と2回タッチへの統一

MOBIRY DAYSのウェブサイト(画像:MOBIRY DAYS)
新システムは、2023年10月にMOBIRY DAYSと名付けられた。2024年7月に高速バスで先行導入された後、同年9月には広島電鉄全線へ広がり、2025年から2026年にかけて広島バス、広島交通、JRバス中国など地域の主要事業者にも順次導入された。利用者はスマートフォンアプリのQRコードや専用ICカードを使って乗車でき、2025年8月からは広島電鉄などの車内での現金チャージにも対応している。
当初は未定だった全国交通系ICカードへの対応も進んだ。2025年3月のPASPY終了後は、車内に設置した簡易端末による限定的な利用にとどまっていたが、2026年7月1日からはMOBIRY DAYSリーダーで正式に利用できるようになることが決まった。
広島電鉄によると、2026年7月1日からICOCAなどの交通系ICカードはMOBIRY DAYSと同じく、乗車時と降車時にリーダーへ2回タッチする方式へ変更される。また、同日からWAONにも対応する。これにより、広島電鉄の電車では交通系ICカードやWAONの利用者もすべての扉から乗り降りできるようになり、バスでは整理券を取る必要がなくなる。
この変更によって、PASPY終了後の課題となっていた
「乗車時に整理券を受け取り、降車時に簡易端末へタッチし、運転士が運賃を確認する」
という手順はなくなる。利用方法は乗車時と降車時の2回タッチに統一される。なお、同日からWAONが利用可能になる一方で、PiTaPaの取り扱いは6月30日で終了する。また、広島バスなど一部の会社では運賃箱の仕様により車内チャージができないなどの違いもある。
2回タッチ方式への移行は、利用者の使いやすさを高めるだけではない。事業者側にとっても、利用者の移動経路を正確なデータとして把握できる利点がある。深刻化する乗務員不足への対応として、利用実態に基づく路線の見直しやダイヤ改正を進めやすくなる。また、広島電鉄の全扉乗降やバスの整理券廃止によって停留所での停車時間が短くなり、定時運行の向上や運行費用の抑制にもつながる。
国の補助金方針と中長期的影響

広島電鉄(画像:写真AC)
MOBIRY DAYSのように導入費や更新費を抑えられる仕組みは、今後の公共交通に大きな影響を与える可能性がある。
2025年3月7日の中野洋昌国土交通大臣(当時)の記者会見によると、国土交通省は2025年度から、交通系ICカードの機器更新費用を新たに補助対象に加える方針を決めた。これまでの制度では、クレジットカードのタッチ決済など新たな決済手段の導入費用が主な対象で、既存システムの更新費用には補助が出なかった。
そのため、機器更新に多額の費用がかかることを理由に、熊本県内のバス事業者や熊本電鉄は2024年11月16日に全国交通系ICカードの利用を終了し、2025年2月24日からクレジットカードなどのタッチ決済を本格導入した。今回の補助対象拡大は、こうした動きを受けた対応といえる。
もっとも、この方針転換は利用者の混乱を抑えるための当面の対応という側面が強い。費用のかかる従来型システムの更新を長期間にわたり国費で支え続けることは、財政面からみて難しいためだ。
大臣も会見で、予算の範囲内でできる限り支援すると述べている。国が求めているのは、更新費そのものを抑えられる仕組みへの移行である。機器更新への補助拡大は短期的には既存の交通系ICカードの維持を支えるが、中長期的には、維持費を抑えやすいMOBIRY DAYSのようなクラウド型システムへの移行を後押しする流れと重なっている。
独自割引の実験と全国への展開

広島電鉄(画像:写真AC)
MOBIRY DAYSが全国へ広がるためには、交通系ICカードへの対応以外の価値を示す必要がある。
例えば、2025年2月1日から広島県廿日市市の自主運行バス(さくらバス・おおのハートバス)で、広島電鉄と連携し、MOBIRY DAYSとマイナンバーカードを結び付けた高齢者運賃割引の実証実験が4月まで行われた。対象は70歳以上の市民で、通常150円の運賃を100円に割り引く取り組みである。
マイナンバーカードによって割引対象者を自動で判別する仕組みは、自治体の福祉施策と移動サービスを効率よく結び付けることにつながる。実際の利用実績に基づいて正確に予算を執行できるため、自治体は支出を抑えやすくなり、バス事業者は請求業務の負担を減らせる。この利点は、各自治体が導入費用を支援する動機にもなり得る。
県外への展開もすでに始まっている。2025年10月4日には北海道の北見バスの路線バス全線で運用が始まり、沖縄県豊見城市で2025年11月28日から2026年2月15日まで行われた自動運転電気自動車(EV)バスの実証実験でも採用された。
インターネット環境と汎用的な読み取り機があれば運用できるクラウド型の仕組みは、地域による制約を受けにくい。導入する事業者が増えるほど開発費や更新費を分け合えるため、継続しやすくなる。全国への展開は、地方の路線バス事業者の経営効率を高める有力な手段となっている。