【小山明子、91歳】夫・大島渚監督を17年間介護、自らのうつも乗り越え「今は人生が楽しい」

■衰えや不自由を受け入れ「凜として生きる」, ■映画の資金をテレビドラマで稼ぐ, ■介護とうつ、苦しいなかで得た感謝の心, ■女優の鎧を脱いだら、新たな交流が生まれた

大ヒットドラマ「あかんたれ」シリーズなど数多くの映画・ドラマに出演しファンを魅了してきた女優の小山明子さん。91歳の今、ステージ4の肺がんと闘っています。がんやうつなど数々の病に立ち向かって得た経験、そして長年介護をした夫、大島渚監督への思いについて伺いました。「朝日脳活マガジン ハレやか 2026年4月号」(朝日新聞出版)より抜粋して紹介します。

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■衰えや不自由を受け入れ「凜として生きる」

 今、私は大きな病とともに生きています。80歳を過ぎてから乳がんをはじめ数々の病を経験しました。そして、2024年には肺がんが再発し、厳しい現実に直面しています。「ステージ4」と告げられたときは、さすがにうろたえました。それでも、「こういう体になっちゃったんだから、これからどう生きるかが大事」と気持ちを切り替えています。

 『90歳、凜として生きる』(毎日新聞出版)は、昨年90歳を迎えた節目に私の思いをまとめたものです。がんの治療に加え、90歳という年齢になり、体の様々な衰えと向き合い、不自由を受け入れる。「凜として生きる」ことは、とても素敵な言葉として大切にしています。

 

 私が生まれたのは昭和10(1935)年。10歳で母と死別し、戦時中は疎開していましたので、当時は青春を楽しむ余裕などありませんでした。高校卒業後、服飾系のデザイナーになりたくてデザイン学校に通っていたんですが、松竹にスカウトされてそのまま女優の道に進みました。

 大島渚との出会いもこの頃です。もっとも、デートする時間もなかったので、主なやり取りは手紙です。結婚するまでの5年間で300通くらいはお互いに手紙を書いて、仲を深めていきました。結婚を決めたとき、私たちの前途は希望に満ちあふれていました。私は女優として50本以上の映画に出演し、大島も監督になり、まさに「これから」という時期でした。

 ところが結婚して新居ができたとき、大島が監督した映画「日本の夜と霧」(1960年)を巡って、松竹と激しく対立したのです。安保闘争を描いた映画でしたが、大島に断りなくわずか数日で公開が打ち切り。大島は激怒して撮影所に抗議文をたたきつけて「やめる!」と言い放ちました。夫がケンカ別れした会社に妻が残るわけにもいかず、一緒にやめることになりました。

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■映画の資金をテレビドラマで稼ぐ

 大島も私も映画の仕事を失い、私は当時、映画界から格下に見られていたテレビの世界に入りました。大島が映画を撮るための資金を私がテレビドラマで稼いでいた状態でした。でも、その後の大島は、話題作を次々と世に送り出し、「戦場のメリークリスマス」(1983年)をはじめ、数々の作品がカンヌ国際映画祭に出品されるなど、世界が大島の才能を認め、私は誇らしい気持ちでした。

 監督業が忙しくなるなか、唯一私に約束してくれたのは、「どんなに飲んでも外泊はせず、必ず家へ帰る」こと。私は大島が外で女性と楽しく飲んでいても、嫌ではありませんでした。私はお酒が飲めませんし、「最後には私のところへ帰ってくる」という確信があったからです。

 仕事も家庭も順風満帆。子どもたちも独立して、「これからは私たち二人でいろいろなところへ行きましょうね。おいしいものを食べましょうね」と話し、夫婦二人の時間を楽しむ新たな生活に期待を寄せている、そんな矢先でした。

 13年ぶりの監督作品「御法度」の製作発表後、大島はロンドンを訪れ、日本に帰国するため空港に向かう途中、車中で脳出血を起こしました。突然、不自由な体になったことに絶望し、あまりの重圧のなかで私は極度の「うつ病」に陥りました。女優の仕事はすべてキャンセルし、不安と絶望から、一時は「死んだほうがましだ」と自殺願望を抱くほど追い詰められ、閉鎖病棟に入院する経験もしました。

■衰えや不自由を受け入れ「凜として生きる」, ■映画の資金をテレビドラマで稼ぐ, ■介護とうつ、苦しいなかで得た感謝の心, ■女優の鎧を脱いだら、新たな交流が生まれた

■介護とうつ、苦しいなかで得た感謝の心

 しかし、息子の「パパは待っているんだよ」という言葉に救われ、私は「夫を我が家の畳の上で看取る」と決意したのです。

 私が61歳のときでした。そこから始まった17年の介護。移動図書館で借りた本を片っ端から読み、「なせばなる」の精神を胸に、一からオムツ交換や食事の介助を覚えました。それを支えたのは、大島への深い「尊敬」の念です。素晴らしい才能の持ち主であり、私を大切にしてくれたかけがえのない人でした。

 要介護5状態の大島が、「同窓会に出席したいから京都に行きたい」と言ったとき、子どもたちは反対しましたが、私はなんとか大島の願いをかなえてあげたい、喜ばせてあげたいという一心で、新幹線チケットの手配から宿の予約に至るまで、すべての段取りを自分で行いました。それまで人任せにしてきただけに、自分にもできたという達成感があり、「裏方は意外と向いている」と、新しい自分を発見する機会となりました。

 何より、夫がいつも「ありがとう」と言ってくれたことが、私の原動力になりました。どんなに小さなことでも感謝を忘れないこと。やってもらって当たり前だと思わないこと。この「感謝の心」があれば、人間関係は必ずうまくいく。それは介護を通じて得た、人生最大の教訓です。

■女優の鎧を脱いだら、新たな交流が生まれた

 大島を看取った後、私の人生はいわば第3期に入りました。この時期までに私が手に入れたのは、普通の人として地域とつながる喜びです。

 それまでの私は、無意識に「女優の鎧」を身につけていました。周囲からも特別視されていたように思います。しかし、夫の介護を通じてご近所の方々と接するうちに、思い切って自分の鎧を脱ぐことができました。お隣の奥様からお花の手入れを教わったり、自家製のぬか漬けを届けてもらったりするなかで、女優という肩書を離れ、一人の人間としての安らぎを得ることができました。

 今では、友人たちとの交流が私の生きがいです。週に1度の水泳教室や、月1回のマージャン、そしてコーラス。水泳は、かつてうつから抜け出すために始めたものですが、今でも「やめないこと」を目標に続けています。北島康介さんのビデオを見て泳ぎ方を研究するほど凝り性な私ですが、今は同世代のお仲間と一緒に水中で体を動かすだけで楽しいのです。

 また、私は今、自ら進んで「裏方(マネージャー)」を買って出ています。お店の予約、割り勘の計算、タクシーの手配。脚光を浴びるだけでなく、誰かの喜びのために動く楽しさを、私は夫の介護のなかで実感したのです。

 私が今、このように前向きに、そして「凜として」いられるのは、大島から教わった美学があるからです。

 大島は私に対し、常に「あなたは女優なのだから奇麗にしなさい」と言っていました。パーティーに行くときは、「必ずなにか食べてから行きなさい」と。会場で女優がパクパク食べてはいけない、という彼の教えです。当時は窮屈に思うこともありましたが、その教えが、今の私の「身なりを整え、凜としてたたずむ」という基盤になりました。

 人生100年時代、困難は必ずやってきます。でも、知恵とユーモア、そして少しの感謝の気持ちがあれば、どんな状況でも日々の暮らしを少し明るく感じられるようになります。

 どうぞ皆さんも、ご自身の人生の主人公として、今この瞬間を楽しみ尽くしてください。私もこの先、なにが待ち受けているのか、ワクワクしながら生きていきたいと思っています。

(構成・文/山下 隆)

■衰えや不自由を受け入れ「凜として生きる」, ■映画の資金をテレビドラマで稼ぐ, ■介護とうつ、苦しいなかで得た感謝の心, ■女優の鎧を脱いだら、新たな交流が生まれた

こやま・あきこ / 1935(昭和10)年千葉県生まれ。服飾専門学校在学中に雑誌のカバーガールとなったことで松竹にスカウトされ、55 年に女優デビュー。60 年には映画監督の大島渚と結婚。結婚後も高視聴率ドラマ「あかんたれ」(フジテレビ系)に出演するなど映画、テレビで人気を博した。大島渚が脳出血で倒れてからは介護に専念。2021 年には映画界に多大な貢献をした人物に与えられる日本アカデミー賞会長功労賞を受賞した。2025年に上梓した、自らの人生を振り返ってつづったエッセイ『90歳、凜として生きる』には、夫、大島渚さんの介護を担い最期を看取った日々、そして自らもがんやうつなどの病に向き合い、決してくじけない姿が書き綴られている。その生き方に心打たれ、読み終わると元気が得られる一冊。

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