脳性麻痺の娘に「もう面倒見られないから…」 1人暮らしを切り出した両親の葛藤 娘と歩んだ38年間
始まりは1本の電話だった。
2024年3月29日の朝。脳性麻痺(まひ)の川畑涼子さん(38)=さいたま市=が、いつものように障害者団体「虹の会」の事務所で過ごしていると、電話が鳴った。
「大事な話がある」
かけてきたのは涼子さんの両親だった。

(左上から時計回りに)川畑涼子さんの幼稚園時代、小学校時代、中学校時代、現在
ずっと親元で暮らしてきた涼子さんの人生は、この日を境に一変することになった。(谷岡聖史)
◆ずっと願っていた「自立」
その日の午後、父隆一さん(70)と母まり子さん(69)が事務所を訪ねてきた。
涼子さんは、虹の会の仲間たちと一緒に両親と向き合った。「何だろう。言いたいことがあれば、家で言えばいいのに」と思いながら。
隆一さんが、いつになく真剣な顔で切り出した。
「私たちも70歳だ。もう、涼子の体が重たくて、面倒が見られない。この間もトイレ(の介助)で転んでしまっただろう? 1人暮らしをしてほしい」

虹の会が運営するリサイクルショップ「にじ屋」で働く涼子さん=2025年3月、さいたま市桜区で
涼子さんは重い脳性麻痺だ。
痙直型(けいちょくがた)という病型で、全身の筋肉が意に反してこわばってしまう。知的障害もある。発話はたどたどしい。
生まれてから38年、涼子さんの介助は隆一さん、まり子さんが夫婦で担ってきた。
毎日の食事、トイレ、入浴。会社員として働き、他の2人の子どもを育て、一時期は老親の介護も並行しながら、障害のある娘の生活すべての面倒を夫婦で見てきた。
「急すぎる」
1人暮らしするように言われた当初、涼子さんは思わずそう漏らした。
しかし、両親にとっては逆だった。
まり子さんはこう振り返る。
「自立させたい、という思いはずっと以前からあったんです」

川畑涼子さんの両親、まり子さんと隆一さん
いつからだろうか。重度障害の娘が実家を出て行く日を思い描くようになったのは。
試行錯誤しながら3人の子を育て、さまざまな人と出会う中で心に決めた目標だった。
◆「なんで私だけこんな体に」
涼子さんが生まれたのは1986年7月。
「この頃は夫の転勤で大阪に住んでいて、出産予定日の3カ月前に、新幹線で浦和市(当時)の自宅に帰ったんです。でも今思うと、新幹線の揺れが良くなかったのかな……」(まり子さん)
涼子さんには3歳上の姉と双子の弟がいる。3人きょうだいの中で、障害があるのは涼子さんだけだ。
「なんで私だけこんな体に」。涼子さんが、思うままにならないいら立ちをぶつけてきたこともある。そんな時、まり子さんはこう返した。「そうね、ちょっと運が悪かったわね」。明るい性格だからやってこれた、と自分でも思う。
幼い頃の涼子さんは、周囲の人に恵まれ、のびのびと育ったという。

幼稚園の遠足に参加する涼子さん(両親提供)
ある日、姉が通っていた幼稚園に涼子さんを連れて行くと、担任教諭が声をかけてきた。「涼子ちゃん、『私も通いたい』って目で訴えていますよ」。
そうか、この子も幼稚園に通えるのか。
涼子さんを年長から同じ幼稚園に入園させ、1年間通った。
最初はまり子さんが付き添って通ったが、2週間もすると「お母さん、もういいですよ」と言われた。遠足などの行事にも、他の子と同じように加わった。
幼稚園で仲良くなった友だちと一緒がいい。そう涼子さん自身が望み、卒園後は自宅から徒歩数分の場所にある市立小学校に入学した。
◆みんな優しかった 学校も保護者も同級生も
小学校でも出会いに恵まれた。
まず、涼子さんを受け入れる素地が学校に備わっていた。偶然にも、別の障害児が普通学級に6年間通い、無事に卒業したばかりの学校だったのだ。直接担当した教諭はすでにいなかったが、その時の記憶は他の教職員に残っており、初めての障害児が入って学校側が動揺する、という事態を避けることができた。

小学生の頃、ピアノの発表会で弟(右から2人目)と歌を披露する涼子さん(両親提供)
他の保護者たちにも助けられた。
涼子さんの休み時間になると、まり子さんはトイレ介助のために学校に行かなければならない。
そのことを知った10人ほどの保護者が、「やってみたいから」と自主的にグループを作り、交代で介助を担ってくれた。
同級生も優しかった。「車いすを押したがる子が多くて、取り合いになっちゃうぐらいでした」
放課後に友だちの家に遊びに行く、といったことも珍しくなかった。
だが中学2年の冬、涼子さんは不登校になってしまう。
◆「親同伴」の修学旅行で
「中学校も、最初は良かったんです。担任の先生が『近所だから』って毎朝一緒に登校してくれて。体育の先生で厳しい人だったんですけど、涼子は大好きでした。校長先生も校門で毎朝しゃがんで迎えてくれました」(まり子さん)

中学校の運動会に参加する涼子さん(両親提供)
2年生になると校長が替わった。ほどなくして、冬の京都への修学旅行には親の同伴が必要だ、と学校から告げられた。
違和感は行きの新幹線からあった。他の生徒は車中で楽しい時間を過ごしているのに、涼子さん親子だけは個室でじっとしていなければならない。
宿も同級生からは離れた部屋が割り振られた。グループに分かれた市街地の散策では、涼子さん親子だけが別行動だった。途中、集合写真を撮るためだけに、同じグループの生徒と何カ所かで待ち合わせたのが「グループ行動」だった。
「小学校の修学旅行でも、私は現地に行きました。でも私は宿が別で、入浴の介助をする時だけ(涼子さんの宿に)行っただけ。あとは他の子と一緒でした。中学校としては『何か事故があったら』ということなんですが、本人は不服だったんでしょうね……」
旅行から帰ると、涼子さんは中学校に行くことを拒否するようになった。その後、登校したのは卒業式の1日だけだった。
障害者が生きていくと、なぜ「家族」に責任が求められるのだろう──。
違和感を覚える場面は、その後も何度も経験することになる。
◆進路探しも自己紹介も「親」がやる
高校は埼玉県内の特別支援学校に進んだ。涼子さんは「行きたくないから」と入試を拒もうとしたが、一応は入学した。
ただ、中学までは普通学級に通ってきた。初めての特別支援学校は、まり子さんも隆一さんも驚くことが多かった。
例えば「進路指導がない」ことだ。
入学して、すぐに学校から言われた。「お子さんが卒業した後の行き先は、みなさんが探してください」

特別支援学校時代に撮った涼子さんの写真(両親提供)
特別支援学校を出た後にはこんなこともあった。
自宅から遠くない、ある作業所に通い始めた。元々、卒業後の進路をつくるために障害者の親が設立した作業所だという。
最初に驚いたのは、自己紹介を障害者本人ではなく親が、しかも母親がする、という暗黙のルールだった。
涼子さんは「自分で話したい」と言い、1人であいさつした。他の母親からはこう言われた。「涼子ちゃんは人種が違う」。
◆親亡き後は「きょうだいがいる」
こうした経験を繰り返すうちに、まり子さんはいつしか「自立」を意識するようになっていた。
「だって順番から言えば、親の方が先に亡くなるわけですよね。でもそう言うと、他のお母さんたちは『いや、きょうだいがいるから』って」
そんな会話のたび、他の2人の子ども、涼子さんの姉と弟の将来を思った。
この2人に介助を任せたことはない。「きょうだいにはきょうだいの人生がある」。涼子さんにもそう言い聞かせてきた。
ただ「親が一方的にこうしてほしい、というのは違う」との思いもあった。
娘の自立は、いつ、どうすれば実現するのだろう──。
その作業所とは何かが合わなかったのかもしれない。通い続けるうち、涼子さんは夜、眠れなくなった。
◆「親御さんは帰ってください」
不眠が2週間ほど続いた頃、ふと、虹の会がさいたま市で運営するリサイクルショップのイベントに顔を出してみた。
虹の会は「どんなに障害が重くても、地域で暮らすのがあたりまえ」を掲げる。障害者が親元や病院を離れ、介助者を使ってアパートで暮らしている。以前に知り合い、毎月の機関紙が自宅に届いていた。
その日のイベントが終わると、今は虹の会で事務局長を務める加納友恵さん(49)が涼子さんを誘った。「この後、打ち上げやるよ」
加納さんも先天性の障害がある。大学卒業後に実家を出て以来、電動車いすで1人暮らしの生活を続けていた。

涼子さん(左)と加納さん
涼子さんは「残る」と意思表示した。
まり子さんは、それを聞いた虹の会のメンバーからの一言が今も記憶に残っている。
「では、親御さんは帰ってください」
◆夢だった「自立」が現実の目標に
これまでは、涼子さんが何かに参加するたび、「親の同行」を求められてきた。
あの中学校の修学旅行以来、ずっとそうだった。
本当に大丈夫なんだろうか。半信半疑ながら、まり子さんは涼子さんを置いて先に帰宅した。
涼子さんは深夜、虹の会のライトバンで送ってもらって帰ってきた。住所も伝えていなかったが、後で聞くと、自分で「あそこを曲がって」と指示してきたのだという。
「その夜は、もうね、コロッと寝たんですよ」
その後も虹の会のイベントや旅行に参加するようになり、虹の会のリサイクルショップでも働き始めた。

虹の会が運営するリサイクルショップ「にじ屋」で笑顔を見せる涼子さん=さいたま市桜区で
時には、加納さんが1人暮らしするアパートに泊まってくることもあった。
まり子さんはこう思う。「だから涼子にも、『いつかは自分も』という思いがあったのかもしれません」
虹の会からは、参加を始めた当初から「いずれ1人暮らしですよ」と声をかけられていた。
夢だった自立は、少しずつ現実の目標になり始めた。
しかし、実際に動き出すのは、虹の会に参加するようになって10年も後だった。
【関連記事】"続き:脳性麻痺38歳、私は1人暮らしを始めた 「寂しい」と手紙に書いた日から「この部屋もいい」と思えるまで
【関連記事】"求む介助者! 筋ジストロフィーで1人暮らし、さいたまの男性「心の自由」がある生活のために
【関連記事】"<国吉好弘の埼玉NOW>クラブW杯14日開幕 浦和のプライド、世界へ