中谷美紀に聞く、思考の裏側「夫が24時間介護になるかもしれないと、東京の家を引き払いました」
主題歌もつとめた連続ドラマで、映画化もされた『ケイゾク』(2009)では東大法学部を首席で卒業したキャリアの警部補・柴田純を演じた中谷美紀さんは、2021年の映画『総理の夫』でも東大法学部卒で、史上最年少で女性初の総理大臣となった相馬凛子を演じた。まさに東大法学部卒のような「知的イメージ」がぴったり当てはまると思われているゆえだろう。
実際中谷さんは、20代のころにフランスに8年暮らし、フランス語や英語で流ちょうに話す姿がしばしば報じられたことがある。2026年現在は、夫のヴィオラ奏者のティロ・フェヒナーさんとオーストリアに暮らしてドイツ語を使う。着付けやお茶などの日本文化のみならず、クラシックやアートにも興味が尽きない。
そんな中谷さんの「好奇心」を改めて感じさせられるのが、エッセイだ。
中谷さんは、2005年から幻冬舎の小説誌「パピルス」で、そのあとは「小説幻冬」でエッセイ連載を20年以上続けている。連載したエッセイは文庫オリジナルとして刊行され、文庫オリジナルシリーズは、6月11日に刊行となる『大草原の小さな農家』で10冊目を数える。
そんな中谷さんにFRaUweb編集長がインタビュー。第1回ではその思考の裏側にせまっていく。
バスタブを作るまでに6年かかった話から、戦争の話も
最新刊『大草原の小さな農家』は、そのタイトルとカバーでわかるように、中谷さん夫婦が、オーストリアの農場でご自身のいうところの「ぽつんと一軒家」を購入するための奔走する様子も描かれる。ウィーンのアパートでバスタブを修理するまでの6年の攻防もあるが、家に関するエッセイ集ではなく、話題は多岐にわたる。自身が出演した作品でのこと、音楽と文化のこと、日本の医療や健康のこと、義理の娘やその友達、ヨーロッパで出会った人々との交流から考えたこと……。その「交流」には、アフガニスタンやウクライナの方々もいる。
政治や戦争、移民問題といった、時に人が避けがちな繊細なテーマでも、親子関係や仕事のこと、バスタブの修理に6年かかった話と同じように、体験を通し、「中谷さん個人の意見」を率直に綴る一冊なのだ。
そこにあるのは、「炎上しそうだから避けよう」というのではなく、「わからないならわからないなりに言葉にしたい」という姿勢だ。
たとえばウィーンで掃除をお願いしている女性はウクライナ難民で、今日行けないという電話を受けたとき「ミキ、私、今日、来ない」とカタコトのドイツ語で話したあと「私の息子、死んだ」と言ってきたという。中谷さんは自身が見聞きした中で、戦争について考え、言及しているのだ。
「分からないことは分からないと言いながら、どうも納得がいかないのでつい愚痴をこぼすかのように書いてしまいました」中谷さんは言う。
「そもそも自分自身政治のこともわかりませんし、世界で何が起きているかも……活字でちゃんとファクトチェックを受けたニュースなり雑誌で読んだとしても、それが“真実”であるかどうかもわからないですよね。例えばエプスタイン事件みたいなことを見てしまうと、世の中で何が真実かということも私ごときにはわからないので。だからただ肌感覚で、接した方々の生き様を見て、考えるしかない。正解というのは一つじゃないなとそれに尽きますかね」(中谷さん、以下「」すべて)

撮影/伊藤彰紀
誰かの正義がほかの人の正義とは限らない
エプスタイン事件とは、アメリカの投資家で大富豪のジェフリー・エプスタインが児童への性的暴行で2006年に逮捕・起訴され、有罪が確定した事件だ。発端は2005年、14歳の少女が性的暴行を受けたと通報があったことだった。彼は欧米の政財界に幅広い人脈を持ち、権力を持つ人物に未成年の少女を斡旋、その性行為の様子をビデオ録画し、恐喝をして支配していったとも言われている。なかでも「エプスタイン・ファイル」には、当時のトランプ政権の労働長官やチャールズ国王の弟のアンドルー元王子はじめ様々な実力者の名前があり、「政財界の大物たち」が未成年少女売春に関与している可能性が浮上、世界中が大騒ぎになったのだ。
中谷さんは続けて、ナチスによるユダヤ人の虐殺などの研究をつづけたハンナ・アーレントの名前を挙げた。
「ハンナ・アーレントが『ただ一つの真理はない』と複数性とか複雑性みたいなことを書いていましたよね。私はハンナ・アーレントを研究したわけではないので難しいことはよくわかりませんけれども、でも彼女の見解を大枠で捉えるならば、『一つの真理がない』と。それは私自身もインドに行った時に感じたことなんです。つまり、ある方にとっての正義が、その別の誰かにとって正義であるとは限らないと。誰もが自分の主観で物事を捉えているので、私は好き嫌いの判断ができたとしても善悪の判断というのはたかが知れた人間にはできないというふうに思っているんです。だからこそ、極力あまり強い言葉ではなくて、誰かしらを傷つけないようにしながら、思いは伝えたいと試みているんです。でも、難しい」

撮影/伊藤彰紀
告白をすると、筆者はエブスタイン事件は知っていたが、このときハンナ・アーレントと言われてもピンとこなかった。筆者の教養のなさもあるだろうけれど、多忙な中谷さんが普段から多くをインプットもし、それを自分のものにしているのかが垣間見える。
バスタブ修理まで6年かかりました
本書には、海外に暮らしているからこそわかる日本の素晴らしさも、また逆の視点もつづられる。たとえば、2025年8月、オーストリアの農村部の大草原にある家を購入するときには、日本では見られないようなものだったという。
「壁もまっすぐではなくて。おそらく,前のオーナーさんのおじいちゃまがご自分で建てられた家なので、本当に歪んでいるんですね。まっすぐな箇所がひとつもなくて、窓もなんだかとても中途半端なバランスであちこちについていて、日本人的な均整の取れた左右対称がどこにもない。ただ、それすらも愛でたいと思っていました」
2023年に出会ったというその「歪んでいるけれど愛おしい家」は本書の表紙も飾っている。自然が豊かでとても素敵な家だ。その家に出会う前のこととして本書の「バスタブ戦線」という章には、ウィーンで借りている自宅のバスタブ修繕を依頼したバトルのことが詳しく書かれている。
「バスタブは修理をしてほしいと伝えて『うん』と言っていただくまでに4年、実際修理をするまでに2年、計6年かかりました。
ヨーロッパは『どうせ来ないだろう』と思い、『来たらラッキー』くらいに考えるほうがいいんです。しょうがないか、と諦めるしかないというか、きっちりかっちり全部律儀に勤勉に正しく生きていたらもう、多分生きていけないんですよね。ヨーロッパではとりわけ仕方がない、なるようになる。ダメなものも受け入れていくという感じです。
自分自身も完璧じゃないのに、人に完璧を求めても仕方がないという感じでしょうか。お天気も自然も思う通りに行きませんし、なるようにしかならないものですよね。思う通りにならないことを受け入れていくしかないなって思っているんです」

撮影/伊藤彰紀
そして6年越しに修理をしてもらったバスタブを手に入れた数年後、中谷さんはその「歪んでいるけれど愛おしい家」に出会い、2025年に大草原の小さな農家の家主になったというわけだ。
「工事が遅れに遅れるなんて当たり前で、皆さん家を建てるのにだいたい2年以上かかるんですよ。日本で4ヵ月で家が建ったなどと聞くと『えー! すごーい!』みたいな感じで。私たちは特に、お城や豪邸ではないので職人さんはより実入りのいい豪邸やホテルお現場にに行ってしまうんですよね。電気工事を頼んだのが見積もりに来てから1年後にようやく始まったとか、始まったと思いきや、また3ヶ月放置とか、そんな感じです。それでも、まあいいかと、いちいち腹を立ててたら心臓がもたないですよね」
日本の医療は当たり前ではない
バスタブを直してほしいと伝えて6年もかかるとは、日本ではなかなか考えられないことだろう。特に日本のすごさを感じるのは何かを訪ねると、中谷さんはエッセイにも書かれている「医療」のことを挙げた。
「医療はもう素晴らしいと思いますね。まず病床数がある。患者に対してケアをする人材も、きちんといらっしゃいます。オーストリアは国民皆保険制で、基本的に医療は無料ですが、公立病院では病床が足りず、廊下にまで入院患者のベッドが溢れていたりします。ICUも維持費は高額ですから、癌の手術をしても、麻酔から覚めたらすぐに退院を迫られることもあると言います。術後床ずれ防止のマッサージをしてくださったり、食事の配膳も笑顔でしてくださったり、ナースコールにも快く応じてくださったりするのは日本ならではの優れたサービスだと思います。
日本の医療は崩壊しつつあるとは言われていても、多分普通の他の国に比べたら、十分充実しています。それでも国民はどうしてもわがまま言いたくなってしまうんですよね。どれだけ恵まれているかということに多分みんな気づいてないんじゃないかなと思います」
夫の大けがで覚悟したこと
救急車といえば、中谷さんの夫のティロさんが、2018年の結婚直後、アジアツアーのあとに日本に滞在中、下手すると命にかかわる事故に遭ってしまったことも本書にはつづられている。入院2日目にICUを出られたそうだが、急ぎ手術をする必要があった。日本語は名前と「トイレはどこですか」以外をまったく話せないティロさんが日本で手術を受けるより、ウィーンで受けるほうがよいという結論になった。なんとこのとき中谷さんは、仕事をやめる覚悟もしたのだという。
「私も仕事をやめて、24時間介護することも覚悟しました。ですから東京のマンションも引き払い、持っていた器とかも差し上げてしまって、身軽にしていたんです。万が一、自分の身に何かあった時に夫が捺印や登記簿などを要する煩雑な手続など、一人ではできないだろうなということもいろいろ思いまして」

撮影/伊藤彰紀
中谷さんが結婚したのは2018年。もしかしたら『Followers』に出演していなかったかもしれないのだ。こう話していて思うのは、中谷さんが常に思考しているということ。自分の頭で考えて、わからないことをわからないと認識している。わからないとわかっているからこそ、きちんと知ろうとすることもできるのだろう。
そんな中谷さんが覚悟をもってウィーンに暮らすことを決めてから、10年以上経っている。インタビュー第2回「中谷美紀が語る14歳の義理の娘との会話「小さい頃は早口でまくしたてられていたんですが」」では、結婚後に家族となった義理のお嬢さんのことを中心に、言葉とコミュニケーションについて聞いていく。
中谷美紀(なかたに・みき)
1976年生まれ。東京都出身。1993年俳優デビュー。2007年に日本・カナダ・フランス・イタリア・イギリス合作映画『シルク』(フランソワ・ジラール監督)に出演。2015年の日本・フランス合作映画『FUJITA』等、その活動は海外へも広がっている。2011年に初舞台『猟銃』で紀伊國屋演劇個人賞、読売演劇大賞優秀女優賞を受賞。『オーストリア滞在記』、『文はやりたし』(幻冬舎)など書籍の執筆も手掛ける。最新刊は『大草原の小さな農家』(幻冬舎文庫)。
『大草原の小さな農家』
庭仕事、お引越し、オペラ鑑賞、美術館巡りといった「オーストリアでの忙しい日々」を綴ったエッセイ。義理の娘とその友人たちとの日本の旅、語学堪能な中谷さんが「買い物すらできない」と感じたオーストリアでの生活のスタート、6年かかったバスタブ、ようやく出会った理想の「ぽつんと一軒家」。そして日々の生活の中でアフガニスタンやウクライナから来た女性たちとの出会いから考えた平和や平等。中谷さんの思考の流れも感じられる一冊。
インタビュー&文/新町真弓(FRaUweb)
撮影/伊藤彰紀 スタイリスト/田中雅美 ヘアメイク/下田英里