本田美奈子.没後20年 38歳で白血病で急逝 3歳下の妹が語る「お姉ちゃんを思い出さない日はなかった」

歌手の本田美奈子.さんが芸能界デビューして今年で40周年、急性骨髄性白血病で38歳で逝去してから、11月6日で20年になる。毎年、命日の3日前には追悼コンサートが開かれ、本田さんが3歳から過ごした埼玉県朝霞市にある墓前にファンらが献花に訪れる。3歳下の妹の岡村律子さんら、家族にしか見せなかった本田さんのプライベートや、歌にかける思いなどを語ってもらった。
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■本田さんの部屋は「20年間、そのまま」
3歳下の妹・律子さんによると、本田さんが29歳になる頃まで母・美枝子さんと、家族3人で朝霞市で暮らしていたという。
「亡くなってからの20年は長いようで短かったという気持ちです。お姉ちゃんを思い出さない日はなかった」
律子さんと本田さんの部屋は2階にそれぞれ1部屋ずつあった。その部屋は今でもそのままだ。
「母は週に1回ベッドメーキングをして、お姉ちゃんのベッドのシーツやタオルなどをきれいに洗って、20年間、そのままにしてるんですよ。私はお姉ちゃんとは時々、一緒にベッドで寝ていたので、部屋に入ると、いろんなことを思い出すんです。お姉ちゃんが仕事のある朝は、ベッドの中でギューッと抱きしめて起こしてました」
男女2人の子どもがいる律子さん。朝霞市のフランス料理店に、本田さんと2人の子どもと行ったときのことを覚えている。
「うちの娘のことを、お姉ちゃんは『娘にするから、頂戴』と、いつも言ってました。独身で子どももいなくて、最後まで『歌が恋人』って言っていました。ただ、結婚願望はあったし、子どもを欲しがってはいましたね」
そんな本田さんは小学生低学年で地元の「朝霞祭り」で、のど自慢大会に出場。大ヒットしていた梓みちよさんの「二人でお酒を」を、梓さんのようにステージ上であぐらをかいて歌って優勝したという。
中学3年のときには、「スター誕生」(日本テレビ)に出場し、決勝戦まで進んだがプロダクションは1社も獲得意思を示さず落選となった。
転機は高校1年生のときだ。友人と一緒に原宿へ行ったときにスカウトされたのだ。スカウトしたのは芸能プロダクション「ボンド企画」のスタッフだった。社長だった高杉敬二氏(現・BMI社長)は当時をこう振り返る。

■「アイドルなのに、おへそを出している」
「ファッションビルの前で彼女をスカウトしました。ガールズグループの『少女隊』のメンバーの1人として美奈子をスカウトしたんです。でも、美奈子は演歌しか歌わなくてね。『ほかに歌えるものを持ってきて』と言ったら、翌日のオーディションに再びやって来て、中原めいこのヒット曲『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』と欧陽菲菲の『ラブ・イズ・オーバー』の2曲を歌ったんです。すごくうまくて、ポップスでいけるし、グループではなく、ソロでいけると思いました」
本田さんは「殺意のバカンス」でデビューする半年前に長崎市で開催された「長崎音楽祭」でグランプリに輝いた。レコード会社4社が名乗りを上げ、最終的に東芝EMIに決まったという。
「殺意のバカンス」は日本歌謡大賞優秀新人賞を受賞。デビュー8か月後には、日本武道館でコンサートを開いた。妹の律子さんは言う。
「下着っぽい衣装を着ていて、『アレッ』みたいな感じ。当時はダンスでものすごく動いていたから、『バイバイ』って言って幕が下りると、お姉ちゃんは酸欠でバタンとぶっ倒れていた。やり切って、もう立てない状態」
デビュー翌年の1986年に出したシングル「1986年のマリリン」は大ヒットした。
「おヘソを出して踊ったでしょう。それにお母さんが『アイドルなのに、おへそを出している』ってびっくりしていた。アイドルはフリフリの格好をしていた時代でしたからね。お姉ちゃんは10年ぐらい流行より早かったのかなと思います」
88年には女性だけのロックバンド「MINAKO with WILD CATS」を結成。律子さんは19歳のとき、お付きをしていた。
「主にお姉ちゃんのお付きだったんです。メンバーの衣装を準備し、すぐパッと着替えられるようにしていました。お姉ちゃんのために舞台袖で、片方の手に手鏡、もう片方の手に口紅さしやペットボトルを持って立っていました」

■海外志向も強かった本田美奈子.さん
美奈子ファンのゆかりの店が東京・板橋区にあるBar「AELL375」。お客さんが歌ったり、楽器演奏したりでき、ファンらが楽しんでいる。壁には本田さんと外国人ミュージシャンのマイケル・ジャクソン、ラトーヤ・ジャクソン、ロックグループ「クイーン」のボーカルのフレディ・マーキュリーらと写っている写真が飾られ、本田と海外アーティストの交友がうかがえる。
前出の高杉氏は本田さんと彼らの関係をこう話す。
「ラトーヤの日本サイドのマネジメントをしていて、美奈子とラトーヤが仲良くなって。美奈子の武道館でのコンサートにもラトーヤが友情出演してくれたこともありました。ラトーヤを通じて、マイケルやジャネットとも親しくなった。マイケルのロサンゼルスの自宅に遊びに行ったこともありました。マイケルらからは『美奈子、もう日本よりこっちで音楽活動をやればいいじゃない』と言われたこともありました」
マイケルの楽曲を手掛けていたジョン・ウィルソンが87年、本田さんの4枚目のアルバム「OVERSEA」をプロデュース。全曲英語詞で、ロサンゼルスでレコーディングが行われ、日米で発売された。
海外での活躍も夢見ていた本田さん。律子さんが言う。
「お姉ちゃんがきっかけで、クイーンのファンになった若い子がいるんですよ。その子が、クイーンの本やフェイスブックにお姉ちゃんが載っていると見せてくれました。お姉ちゃんが生きていたときには、ブライアン・メイが毎年、クリスマスカードを送ってきてくれたんですよ。そんな交流があって、お姉ちゃんが亡くなったとき、ブライアンがSNSで、すごくやさしく、別れを発信してくれたんです」(律子さん)
海外志向も強かった本田さんが、病に倒れたのは2005年1月のこと。そのとき何があったのか──。
(AERA編集部・上田耕司)
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