見栄晴 「私、幸せなの」母親が介護施設で漏らした言葉に救われた 逝去する瞬間、手をぎゅっと

俳優、タレントの見栄晴さん(58)は子役時代の幼少期から芸能活動をしているが、活躍の舞台裏には意外なエピソードがあった。インタビューの【後編】では芸能界の師と仰ぐ萩本欽一さんから受けた意外な助言、8歳の時に父親を亡くして女手一つで育ててくれた母親に抱く特別な思いについて語ってくれた。
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――見栄晴さんは4歳の時に「劇団いろは」に所属し、子役として活動していました。幼少期から芸能界は身近な存在だったんですか?
僕は親父が50歳手前、おふくろが39歳の時に生まれた一人っ子で内弁慶だったんです。外に出ると全然しゃべらないので、おふくろがコミュニケーションを心配して児童劇団に入れたんですよ。今の子役事務所に入る感覚と違って、習い事の一環という感覚でしたね。

■「やめてもいいんだよ?」って
――当時は本名の藤本正則で、子供向けドラマ「ケンちゃんシリーズ」(TBS系)で小1から6年間レギュラーとして出演し、学園ドラマ「1年B組新八先生」(TBS系)の生徒役でも出演していました。
実際はオーディションに数えきれないほど落ちましたし、将来のイメージがわかなかったですね。当時は坂上忍、松田洋治、斉藤こず恵が天才子役と言われて、力の差を嫌というほど感じさせられました。忍くんには役があって、僕はエキストラだった時があったけど、演技を見て「敵わない」と。いきなり泣けと言われても、忍くんのように泣けない。僕にはその感性がない。コンプレックスでしたね。俳優に向いていないなと。僕が8歳の時に父親が病気で亡くなったんですけど、母親に「お父さんの看病でついていけないから、撮影現場に一緒に行けない。やめてもいいんだよ?」って言われて。でもやめなかった。今の子役さんみたいに仕事の意識が高かったわけじゃなくて。共演者の友達やキャッチボールをしてくれる大人のスタッフの方たちがいるから、収録現場に通うのが楽しかったんです。

――15歳の時に、バラエティー番組「欽ちゃんのどこまでやるの!」(テレビ朝日系)の番組リニューアルで、学生に成長した見栄晴役のオーディションに参加して合格しました。
人生は何が起きるか分からないなと……。たまたま「劇団いろは」にギャラを取りに行ったら、スタッフに「見栄晴に似てる!?」と言われ、すぐ「欽どこ」のプロデューサーだった皇達也さんに会いに行き、「確かに似てるなあ」となり、最終のオーディションに行くことになって。おふくろには「このオーディションに落ちたら劇団をやめる」と伝えました。芝居に自信があったわけではないし、不安しかなかったですけどね。最終のオーディションの会場に行ったら、僕ともう1人の子が残っていました。「2人でじゃんけんしてよ」と欽ちゃんに言われたので、僕がパーを出して勝ったんです。そうしたら、「うん、わかった、帰っていいよ」って。芝居をやるものだと思っていたので「これで終わり?」とびっくりしました。後日電話が来て「合格したので、テレビ朝日に来週来てください」と。
■一生付き合える友達
――じゃんけんは、どのような意味があったのでしょうか?
「欽どこ」が終わって何十年も経った後に欽ちゃんに聞いたら、「じゃんけんに負けてもおまえにしていた」と話していました。なぜじゃんけんだったのかというと、こういうインタビューやメディアで話す時に、じゃんけんで合格したことがネタになるから。あとはオーディションを受けたもう1人の子も高校1年生だったんですよね。思春期で、不合格になったことがその後のキャリアに影響する可能性がある。でも、じゃんけんしかやっていないから、芝居を否定されたわけではない。欽ちゃんの優しさだったんですよね。
――萩本さんはどのような存在ですか?
僕、欽ちゃんと共演した期間って「欽どこ」の2年くらいだけなんですよ。でも、すごい面倒を見てもらって。高校卒業後に何をするか決めていなかった時に、「大学に行ったほうがいいよ。おれも行きたかったけどお金がないから行けなかった。大学に行ったら一生付き合える友達ができるんだよ。友達を作りに行くのもいいんじゃない?」って言われたんです。1年浪人したんですけど、欽ちゃんから「たまえ(高橋真美)が大学受験するって言うから、家庭教師を呼んで勉強する。おまえも来る?」って言われて、欽ちゃんのご自宅に週に1度食事付きで行っていました(笑)。東海大に合格して、今も付き合いがある一生の友達が1人できました。パチンコばかりして1年間で4単位しか取れなかったので、大学を辞めたことを欽ちゃんに報告したら、「おまえ、馬鹿じゃないの?」と言われましたけどね(笑)。その後もいろいろと気にかけてくれました。僕は小さい時に親父を亡くしているので、父親代わりをしてくれたのかもしれません。節目、節目で人生の道をつくってくれて感謝の思いしかありません。

――お母さんは8年前の2017年5月に89歳で逝去されました。
こんなに悲しい思いをしたことがなかったし、今でも寂しいですね。おふくろは「私が死にそうになった時、あなたが仕事だったら仕事を優先してほしい」と話していました。日曜日の朝4時ごろに亡くなったのですが、一生忘れません。土曜日の朝に母の容体が悪くなり病院に呼ばれ「今夜が峠です」と告げられました。「競馬予想TV!」(フジテレビONE)の生放送があったので一度病院を離れ、容体が気になりながら生放送を終え、その後フジテレビから病院に戻ったところ、頑張ってくれてたんです。数時間後に亡くなったのですが、ピーッて機械の音と同時に手をぎゅっと握ってくれたんです。僕のことを待っててくれたのかな。看取ることができて、それは良かったと思います。
■「まだ来なくていいよ」
――お母さんと過ごして印象に残っている出来事はありますか?
きれいな思い出ばかりではないんです。親父を亡くして、おふくろが一人っ子の僕に目いっぱいの愛情を注いでくれていることは分かっていたので、介護している時は責任を背負いすぎて正直つらいなと思うことが多くて。きょうだいがいたら相談できることを自分一人で抱えてしまった。亡くなる2年前に老人ホームに入ったんですけど、ちょっと後ろめたい気持ちがあったんです。でも、老人ホームに毎日通っていたら、おふくろが「私、幸せなの。こんなに(子供に)会いに来てもらっているのは私だけなの」って。その言葉に救われましたし、今も心に残っています。がんになった時に死への恐怖がなかったのも、おふくろの存在が大きかった。娘が大人になるまでは生きたい気持ちがあったから一生懸命治したけど、もし死んでも、おふくろに会える。「まだ来なくていいよ」と言っていると思いますけどね。今でもおふくろの写真は財布に入れています。

見栄晴/1966年11月13日生まれ。本名は藤本正則。東京都出身。15歳の時に「欽ちゃんのどこまでやるの!」(テレビ朝日系)の新企画オーディションを受け、「萩本見栄晴(萩本欽一の息子)」役に合格。番組のレギュラーで人気を呼び、バラエティ番組やドラマに出演するなど幅広く活躍している。番組がスタートした05年からMCを務める競馬予想TV!(フジテレビONE)で、ステージ4の「下咽頭がん」を患っていることを昨年1月に公表。3か月の闘病生活を経て芸能活動に復帰した。
(聞き手・構成/平尾類)
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