韓国の怪作「しあわせな選択」が世界を魅了する訳

『第98回アカデミー賞』国際長編映画賞の韓国代表作品に選出されている『しあわせな選択』(写真:『しあわせな選択』(C)2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED)
世界の映画ファンをざわつかせている韓国の怪作『しあわせな選択』が、3月6日(金)に日本で公開された。
【写真を見る】『愛の不時着』のヒロイン役であったソン・イェジンが、主人公の妻を演じる。正統派ヒロインのイメージもあるが、本作では違う顔を見せる
主人公は、仕事に誇りを持つ中間管理職の平凡な中年男性。郊外の一軒家で4人家族を養い、中流以上の何不自由ない生活を送るが、会社をリストラされて人生が一変する。
人道から外れて闇落ちする彼の姿は、恐ろしくもあり、滑稽でもある。彼の思考は、人生の大半の時間を仕事に捧げるわれわれの心の底に巣食う本性なのか。
ビジネスマンの誰もが自身の人生を振り返らずにはいられないだろう、社会派サイコスリラーだ。
世界の鬼才と2大トップスターによる“尋常ではない物語”
本作は、製作発表時から世界中の映画ファンの期待を集める注目作だった。
監督は、ハリウッドリメイクもされ世界を震撼させたカンヌ国際映画祭グランプリ受賞作『オールド・ボーイ』(日本公開2004年)で知られる気鋭の映像作家パク・チャヌク。人間のドス黒い欲望を生々しくグロい映像描写でさらけ出し、そこに生じる感情と言動を滑稽さを交えて描く独特の作風が世界で評価されている。
そんな現代の韓国映画界を牽引する巨匠のもとには、毎作においてスターが集結する。そのなかでも今作は、世界を意識しているであろう名が通った大物たちが顔をそろえる。
主人公を演じるのは、韓国のトップスターであり、『イカゲーム』の鮮烈なフロントマン役も記憶に新しいイ・ビョンホン。
大ヒットエンターテインメント大作『JSA』(日本公開01年)以来のパク・チャヌク監督とのタッグになり、彼の数多くの出演作のなかでも、本作ではとくに印象的な姿を披露する。
その妻役は、『愛の不時着』のヒロイン役であり、後に同作で共演した主人公役のヒョンビンと結婚したことでも世間をにぎわせたソン・イェジン。
ラブストーリーものへの主演が多い正統派ヒロインのイメージが強い彼女だが、今作ではおかしくなっていく妻を怪演。ファンにとって衝撃的なシーンもある。

夫婦役を演じるソン・イェジンとイ・ビョンホン。韓国の2大スターが共演する(写真:『しあわせな選択』(C)2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED)
そんな2大スターに加えて、数々の韓国ドラマの名作の顔でもあるベテラン俳優イ・ソンミンなど実力派と呼ばれる豪華俳優が集結し、“尋常ではない物語”を身の回りに起きていそうなリアルな物語に結実させている。
『第98回アカデミー賞』にも選出されている注目作
本作は、すでに世界中の映画祭やアワードイベントで映画ファンをうならせ、高い評価を得ている。
とくに北米での注目度は高く、『第98回アカデミー賞』国際長編映画賞の韓国代表作品に選出され、『第83回ゴールデングローブ賞』では作品賞、主演男優賞を含む3部門にノミネート。
ほかにも『第82回ヴェネチア国際映画祭』コンペティション出品、『トロント国際映画祭』で国際観客賞受賞など、数々の栄誉に輝いている。

平凡なビジネスマンだった主人公が闇落ちするシーンは、残虐さのなかにユーモアがにじむ(写真:『しあわせな選択』(C)2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED)
20年の『第92回アカデミー賞』で、『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督)が外国映画で初めて作品賞を受賞し、アジア映画の歴史を変えたが、本作はそれ以来の韓国映画の注目作になっている。
常軌を逸した狂気が家族を巻き込む
今作の原作は、米作家ドナルド・E・ウェストレイクの小説『斧』。平凡なビジネスマンの心の奥に潜む狂気と、それが強烈な暴力となってあぶり出される様を描くミステリーの名作だ。
パク・チャヌク監督が強い関心を抱くのも納得の戦慄の物語であり、彼特有のストーリーテリングによって映像化された本作は、とんでもない怪作に仕上がっている。

狂気の根底にあったのは家族への愛だが、主人公の暴走は止まらなくなる(写真:『しあわせな選択』(C)2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED)
映画版の舞台は現代の韓国。主人公は外資の製紙会社で25年間、堅実に仕事をしてきたビジネスマン。郊外に大きな家を持ち、2人の子ども、2匹の犬と過ごす理想的な暮らしを実現させ、“すべてを叶えた”人生を自負している。
しかし、会社から突然解雇されたことで、すべてが変わる。それまで必死に築いてきた生活も、その先の未来も一瞬にして崩壊した彼は、再就職を目指すも不況下の現実は厳しく、次第に追い込まれていく。
ついに彼の心には「ライバルがいなくなれば仕事は手に入る。かつてのような家族の幸福な生活を再建できる」という思考が生まれ、破滅への道に足を踏み入れる。
幸せの絶頂から突き落とされた主人公は、何かに取り憑かれたかのように常軌を逸した行動に走る。現実的に生活を立て直そうとする妻と、両親に翻弄される子どもたちも、彼の狂気に巻き込まれていく。
そんな家族の行く末に待ち受けている結末は、リアルなのかファンタジーなのか。どちらにも感じられる妙に、鬼才パク・チャヌクの手腕がにじんでいる。
正視に耐えない描写がてんこ盛り
本作が描くのは、現代社会に生きるビジネスマンの誰もが直面し得る“突然の解雇”と、それによる家族の関係と生活の変化だ。
何とか仕事=人生を取り戻そうともがき苦しみ、いつしか自然に闇落ちしていく主人公の姿を、その狂気の行動をデフォルメして映すことでエンターテインメントにしている。
そこには、韓国映画らしい、生々しくグロい正視に耐えないような描写がてんこ盛り。血もゲロもエロもリアルすぎるから、その映像のインパクトが物語を鋭利な刃物にして、観客の感情を切り裂いていく。

主人公の殺害のターゲットにされる同業者たち(写真:『しあわせな選択』(C)2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED)
パク・チャヌクのファンは、彼の真骨頂として捉えるに違いない。同時にそれは、一般層向けではない観客を選ぶ映画にもなる。ただ、その強烈な描写の裏には、急激に変わっていく社会を生きる市井の人々の姿がある。
だから、客観視して楽しむだけではない、彼の家族への共感が気づかぬうちに生じている。そして、恐ろしくも滑稽な常軌を逸した主人公の姿と、彼の行動の向かう先から、一瞬たりとも目が離せなくなる。そんなストーリーの力が宿っている。
とくに主人公の妻の振る舞いに、考えさせられることがある。
職を失った夫は、再就職が叶わず、次第に行動が怪しくなっていく。彼女のような立場に置かれたときに、自分ならどうするか。
彼女の選択と行動には、建前的なものが一切ない。これがリアルなのだろう。そこには、善悪の観念よりも、家族という共同体の力学のほうが強く働くことが示されている。
監督がそれを他山の石とすることを観客に願っているのか、ただ単に楽しませようとしているのかはわからないが、そこに映る夫婦の姿に観客は複雑な感情を抱くだろう。

妻と娘は主人公の異常な行動に気づくが何もできない(写真:『しあわせな選択』(C)2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED)
向かう先には破滅しかない
この家族が向かう先には破滅しかない。そう思わせられるが、その結末は予想外でもあり、王道のエンターテインメントでもあった。
主人公の極端な行動のたどり着く末には、ある終着点がある。それはリアルにもファンタジーにも捉えることができる。しかし、そこまでの彼の心に生じたすべては、決して嘘でもファンタジーでもない。現実社会を生きるわれわれの心の底にうごめく本性に光を当て、その存在を意識させる。
そして、それが自身のこれまでの人生において現れた瞬間があったのか、これからあるのかと、自問させる。

すべてを知ってしまった妻はある判断をする。それが正しいのかはわからない(写真:『しあわせな選択』(C)2025 CJ ENM Co., Ltd., MOHO FILM ALL RIGHTS RESERVED)
本作は、社会の病巣をユーモアと風刺を交えて描く、社会派の側面があるサイコサスペンスであり、同時に良質な人間ドラマでもある。これまでのパク・チャヌク作品と比較して、コメディ要素が色濃くにじむ。
決して後味は良くない、家族の幸福への物語だ。