【"朝ドラ"「風、薫る」第11週】善意が招いた夕凪=セツ(村上穂乃佳)の暗雲 それでも自分の足で歩き出し、直美(上坂樹里)にも変化

 連続テレビ小説「風、薫る」(毎週月~土曜午前8時、NHK総合ほか)第11週「凪にそよぐ」は、夕凪という名で呼ばれてきた女性(村上穂乃佳)が、魚住セツという本名を取り戻すまでの物語だった。服毒心中に失敗し、女郎屋から逃げ出したセツ。りん(見上愛)や直美(上坂樹里)は彼女を助けようとするが、逃げても、廃娼運動に加わっても、簡単には自由になれない現実がある。そんななか、思わぬ形で新聞記事が世間を動かし、セツは解放される。「急に好きにしろと言われても困る」とこぼしながら、それでもセツとして東京の町を歩こうとする彼女の姿に、この週の核心があった。

*  *  *

■夕凪が魚住セツに戻る瞬間

 第11週の始まりで印象的なのは、直美が夕凪に本名を尋ねる場面である。病院の書類に記録しなければならないから、という理由は事務的だ。しかし、その事務的な問いが、セツの人生にとって大きな意味を持つことになる。

 魚住セツ。直美がその名で呼ぶと、そう呼ばれるのは久しぶりだ、とセツは言う。夕凪という名は、女郎屋で与えられた名前であり、彼女が商品として扱われてきた時間の象徴でもある。一方、魚住セツという名は、彼女がまだ誰かに所有される前の、自分自身の名前だ。

 ここでドラマは、“名前で呼ぶ”という小さな行為に救いを宿している。人は名前を呼ばれることで、ただの患者でも、女郎でも、哀れな被害者でもなく、一人の人間として扱われる。直美の看護がセツの心に届くのは、傷の手当てだけでなく、彼女を魚住セツ本人として見ようとしたからだ。

 こんなに人に優しくされたのは初めてだ、と言っていたセツの言葉も重い。優しさを知らなかった人が、優しくされることで初めて自分の痛みに気づく。その痛みは、すぐに希望へ変わるわけではない。むしろ、優しさに触れたからこそ、自分がどれほど粗末に扱われてきたかを思い知らされる。第11週は、その残酷な気づきから始まっている。

■助けたい人たちの「思い」が……

 セツを助けたいという思いは、りんにも直美にも、小説家志望の青年・シマケン(佐野晶哉)にもある。しかしこの週では、そういった善意は単純に美しいものとしては描かれない。

 りんは、廃娼運動について知るため新聞社を訪ねる。しかし、女郎が自ら廃業する自由廃業は簡単ではない。当事者が名を挙げれば、目立つことで元の場所に連れ戻される危険が高まる。逃げることも難しい。運動に加わることも危うい。ここでセツは、助けられる側であるにもかかわらず、助けの方法によってさらに追い詰められてしまう。

 そこで、シマケンが書いた新聞記事が事態を大きく動かす。名前は夕顔に変えられているが、服毒心中の経緯まで書かれており、事情を知る者には夕凪のことだと分かってしまう内容だった。シマケンは文章の力でセツを助けようとしたのだろう。けれど、本人に会わず、本人の許可もなく、境遇に創作を交えて世間へ差し出した。その行為は、救いであると同時に、見方によっては暴力とも捉えられる。

 セツが直美の看護を拒むのも当然かもしれない。放っておいてくれたら、楽になれるかもしれないのだから。そこには、生きたいという気持ちよりも、生き延びさせられることへの疲労がにじむ。助けたい人々が周囲に集まれば集まるほど、セツ自身の意思が見えにくくなる。第11週は、助けるという言葉の危うさを、セツの沈黙と拒絶を通して描いている。

■自由はゴールではない

 そして、セツはついに女郎屋から解放される。女郎屋の主人・権田(梅垣義明)は病院へやってきて、もう店には戻ってくるなと言う。新聞記事の影響で、夕凪をこき使う女郎屋の悪評が広まり、店にとって不都合になったからだ。皮肉にも、セツの自由は、正義感だけでなく世間体によってもたらされた。

 自由になったセツは、ただ喜ぶわけではない。長く行き先を奪われてきた人にとって、自由はすぐに幸福には結びつかない。どこへ行ってもいいと言われても、どこへ行けばいいのか分からない。何をしてもいいと言われても、何をしたいのかを考える力が削られている。

 それでもセツは、まずは東京の町をセツとして、ふらふら歩いてみる、と言って病院を出ていく。この一言が、今週のもっとも美しい着地点だと思う。彼女は大きな夢を語らない。立派な再出発を宣言しない。ただ、セツとして町を歩いてみる。最初はそれだけで十分なのだ。

 夕凪という名前は、誰かに与えられた役割だった。魚住セツという名前は、彼女自身の人生へ戻るための入口である。これから先も困難はあるだろうし、社会は簡単に彼女を受け入れないかもしれない。それでも、彼女は初めて自分の足で歩いていくのだ。

 そして、セツの存在は直美にも変化をもたらす。直美は、自分を捨てた母について、産んでくれただけでも十分だ、と思えるようになる。これは母を完全に許したというより、母もまた何かを選べなかった女性だったのかもしれない、と想像する余地を、直美が持てたということだろう。

 セツは、助けられるだけの存在ではなかった。彼女は直美に、母を憎む以外の感情を教えた。りんに、善意だけでは人を救えない現実を突きつけた。シマケンに、書くことの責任を考えさせた。

 誰かに救われる物語でありながら、彼女自身も周囲の人間を変えていく。その意味で、夕凪=魚住セツは第11週の“患者”ではなく、物語を動かした中心人物だった。

(北村有)

・【“朝ドラ”「風、薫る」第10週】ゆき(中井友望)の決断に涙 りん(見上愛)と直美(上坂樹里)が見た命の格差と“夕凪”の謎

・【“朝ドラ”「風、薫る」第9週】飴は甘く、現場は冷たい りん(見上愛)たちに突きつけられた“看護の現実”

・【“朝ドラ”「風、薫る」第8週】孤独な侯爵夫人・千佳子(仲間由紀恵)が吐露した“胸を失う恐怖” りん(見上愛)が夫を呼んだ理由