出産と同時に末期がんが見つかった1児の母の闘病と葛藤の日々 「とにかく目の前のことに集中。死から逃げよう、というのが私のやり方だった」

7歳の女の子のママとして、そして車いすユーザーとして、日々奮闘する海野優子さん。出産と同時に手の施しようがないステージ4相当の末期がんが見つかったものの、奇跡的に治療法が見つかり、一命を取りとめました。死が目の前に迫ったそのときに、気持ちを支えたものは何だったのでしょうか。お話をうかがいました。※後編<末期がんから奇跡の回復 1児の母が語る、車いすでの子育て「自分にとって大事なことがはっきりして、生きることがラクになった」>へ続く
■帝王切開で見つかった、ステージ4相当の末期がん
――20代から30代にかけては、女性向けのWEBメディア「wotopi(ウートピ)」を立ち上げるなど仕事一筋だったそうですね。
当時はワーカホリック的な働き方をしていて、“社畜”と呼ばれるほどでした(笑)。特別に仕事ができるタイプではないと思っていたので、同世代の活躍を見ながら「この人たちよりがんばらないと、同じところでは戦えない」と思うことも多くて。なぜか「仕事で社会に認められる人材にならねば」という思いがとても強かったんです。仕事が自分の存在意義だったし、今から考えると、仕事に依存していたのかもしれません。
――その後メルカリに転職し、PR担当として活躍していた33歳のときに妊娠されました。
おなかが大きくなるにつれて、腰と左足の激しい痛みに悩まされました。予定日の2〜3カ月前には、激痛で歩くことも眠ることもできなくなってしまいました。つらかったのは、妊娠中だから鎮痛剤を飲むことも、X線を撮って原因を調べることもできなかったこと。一度、痛み止めのブロック注射をしてもらったのですが、そのとき久しぶりにぐっすり眠れたことを覚えています。ただ、病院では「妊娠の影響でヘルニアを発症したのかもしれない」と言われていたので、よくあることなのかな、と思っていて……。
――そのような状態で臨んだ出産で、まさかのがんが見つかった、と。
腰と左足の痛みで分娩(ぶんべん)台に上がれるような状態ではなかったので、帝王切開で産むことになったんです。出産後はICU(集中治療室)に入っていたのですが、麻酔から覚めたときに言われたのは「腫瘍(しゅよう)が見つかった」ということ。2週間ほど後には、その腫瘍が悪性、つまり、がんだということがわかりました。しかも、発生源がわからない「原発不明がん」という珍しいがんで、どんな治療が効果的かもわからない上に、もう末期なので手術で取り除くことも難しい、と……。
そのときの記憶がはっきりしていないのですが、現実とは思えず夢のなかのできごとのようでしたね。その後、あちこちの病院にセカンドオピニオンを聞きに行ったのですが、お医者さんも「打つ手はなさそう」「解決は難しい」という雰囲気で、深刻な顔すらしてくれない。お医者さんにとっては“いつものこと”なのかもしれません。助ける気がないんだ……と受け取ってしまい、ショックでした。

■「目の前のことに集中して、死から逃げよう」
――生まれたばかりの娘さんのお世話はどうされたのですか?
夫は起業していて従業員も抱えていたので、仕事をやめるわけにはいきません。困っていたら、病院から「乳児院という選択肢もありますよ」と教えてもらい、一時的に預けることにしたんです。「子どもと離れるのは寂しくなかった?」とよく聞かれるのですが、寂しさを感じる余裕もない、という感じでしたね。生きるか、死ぬかという状況になるといろいろなものがそぎ落とされるというか、「とにかく、生きなくちゃ!」ということだけ。乳児院に預けることは「仕方がない」と受け入れました。
――余命がどれだけなのかわからない、生後まもないわが子と離れざるを得ない……という状況で、どのようにして気持ちを保っていらっしゃったのでしょう?
一応、抗がん剤を試すなどもしたのですが、「希望を持てていたのか?」と聞かれれば、持てていなかったと思います。じゃあ「死を受け入れる準備をしていたのか?」というと、まったくしていなくて。「死ぬまでにやりたい20のこと」みたいなリストを作る気にもなりませんでしたね。
だって、つらすぎるでしょう? 生まれたばかりの娘にも夫にも会えなくなるなんて。だから、「脚のリハビリをがんばろう」とか「娘との面会を楽しもう」とか、目の前のことだけに集中していました。死ぬことばかり考えていると未来がそっちに向かってしまう気がして。見ないようにしよう、死から逃げよう、というのが私のやり方だったんです。振り返ってみると、それがよかったのかもしれません。
■「ToDoリストができた!」
――その後、奇跡的に治療法が見つかったのですね。
2018年9月に告知を受けた後、夫が最新の研究論文などを徹底的に調べ始めたんです。夫は医療については素人ですが、インターネットが専門なので、必要な情報にアクセスする方法は熟知していたんです。そこで調べた情報をもって専門家に話を聞きに行くうちに、12月に入って「効くかもしれない」という治療法にたどりつくことができました。その治療を試したら、6月頃にはごはんがちょっとおいしくなってきたんです。実際はいろいろな治療を試したので、どれが効いたのかはわからないんですけどね。

――治療法が見つかったときは、どんなにうれしかったことかと思います。
そうですね。そこに至るまでにつらかったのは、できることが何もない、つまり、「ToDoリストがない」ということ。何であれ問題が起きたら、解決するためにすべきことをリスト化して、一つひとつ潰していきますよね。効果的な治療法が何もないと言われたときは、「ToDoリストがない」というのはこんなにきついことなんだ、と痛感しました。だから、夫が治療法を見つけてくれたときは、「ToDoリストができた!」と気持ちがすごく明るくなったんです。

■“母親”だと認識されないつらさ
――出産直後から1年ほど治療に専念されたとのこと、乳児院にいる娘さんとは会えていたのでしょうか?
平日は毎日のように面会に行って、体調がよくなってからは、土日だけ家に連れて帰ったりしていました。つらかったのは別れ際ですね。0歳の本人は何もわからないのでしょうけれど、わかっているような気がしてしまって。思い出すと、今でも涙が出てきます……。だんだん大きくなってくると、私のことを母親だと認識していないこともわかってくるんですよ。それが一番つらかったし、「早く一緒に暮らしたい」という思いが治療のモチベーションにもなりました。

乳児院のみなさんは本当に熱心な方ばかりで、節目のお祝いをしてくださったり、日々の様子を細かく教えてくださったり。最後は「初めて○○をした」などと細かく書きこまれた分厚いアルバムをくださったんです。そういう場所があって、そこでがんばっている人たちがいる、ということは広く知られてほしいと思いました。
今の私は、特別なお出かけをしなくても、家族みんなで何げない時間を過ごすことが何よりの幸せだと感じているのですが、この時期があったからこそそう感じるのだと思っています。仕事のことでは、ここまで涙は出ないから(笑)。大切なものがはっきりしましたね。

(取材・文/棚澤明子 写真/本人提供)
○海野優子(うみの・ゆうこ)/女性向けWEBメディア「ウートピ(wotopi)」の立ち上げに関わり、その後メルカリ、へラルボニーを経て、2025年10月に独立。34歳で出産と同時にステージ4相当の末期の原発不明がんが見つかったが、奇跡的に回復した。車いすユーザーとして、現在7歳の女の子の子育てを楽しむ日々。
インスタグラム:umikokun148、X:umikokun
・【写真】出産後の海野優子さん(ほか、全5枚)
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