蔦重を救った「喜多川歌麿」の美人画の"斬新さ"

花魁(写真: NOWHERE / PIXTA)
蔦重の家に居候していた喜多川歌麿
今は昔ほど行われることが少なくなったが、編集者が書き手に自社の原稿に集中してもらえるようにと、ホテルや旅館の一室に閉じ込めることを「カンヅメにする」と呼ぶ。それだけいろんな出版社から依頼が舞い込んでいるということでもあり、売れっ子作家の証ともいえよう。
【画像を見る】歌麿の名前を使い始めた、黄表紙『身貌大通神略縁起』
蔦屋重三郎もそんなふうに流行作家をカンヅメ状態にすることがあった。浮世絵師の伝記・経歴を考証した『浮世絵類考』には、ある浮世絵師について、次のように書かれている。
「絵草紙問屋蔦屋重三郎に寓居」
この浮世絵師の名は、喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ)。蔦重が立ち上げた耕書堂との仕事が多いため、いっそのこと一緒に住むことになったらしい。
蔦重が重宝した歌麿は、はたしてどんな人物だったのか。
歌麿は生年も出身地もよくわかっていないが、墓所がある専光寺の過去帳によると、没年月日は、文化3(1806)年9月20日。数えで54歳のときに亡くなったとされていることから、逆算して宝暦3(1753)年生まれではないか……と言われている。この説に従えば、寛延3(1750)年生まれである蔦重からみて、歌麿は約3歳年下ということになる。
歌麿の本名の姓は北川、幼名は市太郎で、狩野派・鳥山石燕のもとで学び、画力を磨いた。明和7(1770)年頃、つまり、前述した説に従えば、数えで18歳頃に「北川豊章」の名で絵師としての活動をスタートさせる。
蔦重の黄表紙から「歌麿」と名乗る
「歌麿」へと改名したのは約10年後のこと。蔦重が天明元(1781)年に製作した黄表紙『身貌大通神略縁起』(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)の挿絵から、その名を使ったようだ。これが蔦重との最初の仕事だったことを考えると、蔦重から名前について何かアドバイスがあったのかもしれない。

大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎 喜多川歌麿

『身貌大通神略縁記』(東京都立中央図書館所蔵) 出典: 国書データベース
『身貌大通神略縁起』のクレジットに「忍岡哥麿」とあるように、当時の歌麿は上野忍岡に住んでいたが、冒頭で書いたように、やがて蔦屋の元に引っ越して、一緒に住むようになる。
歌麿は初仕事で蔦重からずいぶんと評価されたらしい。2年後の天明3(1783)年には、縦38センチ、横28センチという大判の本格的錦絵『青楼仁和嘉女芸者部』(せいろうにわかおんなげいしゃのぶ)を蔦重から任されている。
『青楼仁和嘉女芸者部』は、吉原で8月1日から晴天の30日間に行われる俄の祭りでの芸者を描いたもの。主に老舗版元・西村屋与八から出版された従来の俄の画とは異なり、芸者の舞台裏を描いたことで話題を呼んだ。それ以後、歌麿はほとんど作品を蔦重の耕書堂から出版することになる。
同年9月に蔦重は吉原を飛び出て、日本橋に進出している。歌麿は耕書堂の成長と並走しながら、ひたすら作品を書き続けたといってよいだろう。
時勢を読んで、常に新しいことに挑戦している人は魅力的だ。
もっとも仕事でかかわりがある人ならば、巻き込まれて大変な目に遭うこともあるかもしれないが、それでも同じような仕事ばかりをする相手と組むよりは、自分の成長につながり、何より刺激的な時間を過ごすことができる。
歌麿にとって蔦重はそんな存在だったのではないだろうか。狂歌ブームが巻き起こったときも、蔦重はすぐさま反応している。狂歌とは「五・七・五・七・七」という和歌の形式を用いて、日常卑近の事を題材にしながら、滑稽や風刺、機知を詠み込んだものだ。
狂歌は会の場での詠み捨てが原則とされていたが、天明3(1873)年に狂歌集が刊行されたことで、流れが変わる。狂歌ブームをいち早くかぎつけた蔦重は、初心者に向けた狂歌の手引き書を刊行。「蔦唐丸」(つたのからまる)と号して狂歌師になり、狂歌ネットワークを積極的に広げていく。
蔦重のもとで「狂歌絵本」を盛り上げる
蔦重は狂歌師と浮世絵師とを積極的に引き合わせて「狂歌絵本」というジャンルを開拓。歌麿も制作に参加している。天明6(1786)年刊の『絵本江戸爵』(えほんえどすずめ)を皮切りに、のちに「歌麿三部作」と呼ばれる『画本虫撰』(えほんむしえらみ)、『潮干(しひ)のつと』、『百千鳥狂歌合』(ももちどりきょうかあわせ)など、歌麿は実に計13種にもおよぶ狂歌絵本を、蔦重のもとで刊行している。
いち早くブームに乗じるのは蔦重の得意技だが、その一方で、逆風さえも利用するたくましさも持ち合わせていた。
老中・松平定信による「寛政の改革」が断行されると、蔦重の出版活動が問題視される。耕書堂から刊行されている出版物には、世相や政治を揶揄する風刺が多く盛り込まれていたからだ。蔦重には「身上に応じて重過料」、つまり、身分や財産に応じた罰金刑が科せられることになった。
政治風刺ができないとなると、路線変更をせざるをえない。そこで蔦重は歌麿の美人画に活路を見出す。
といっても、ただの美人画ではない。これまでの美人画は全身が描かれることが多かったことに着目し、これまでになかった上半身アップで顔に目が行く「美人大首絵」が生み出されることになった。歌麿と蔦重が話し合いを重ねながら、役者絵などに用いられていた大首絵(おおくびえ)の手法から、ヒントを得たのだろう。

『婦人相學十躰・面白キ相』 国立文化財機構所蔵品統合検索システム
歌麿による『婦人相學十躰』『婦女人相十品』などの「美人大首絵」は、たちまち江戸の町民の間で大きな話題となり、歌麿は最も人気のある絵師の一人として名を馳せることになった。
蔦重が危機的な状況から脱するきっかけに
また蔦重も「美人大首絵」のヒットによって、幕府の厳しい処分による危機的な状況から脱して、再び浮上する大きなきっかけをつかんだといえよう。
公私をともにした蔦重と歌麿。互いに刺激を与え合える名コンビとして、大きく進化を遂げていったのである。
【参考文献】
松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
洲脇朝佳「寛政期の歌麿と蔦屋重三郎」(『國學院大學大学院紀要』文学研究科 2019年 第50号)
小沢詠美子監修、小林明「蔦重が育てた「文人墨客」たち」(『歴史人』ABCアーク 2023年12月号)
山本ゆかり監修「蔦屋重三郎と35人の文化人 喜多川歌麿」(『歴史人』ABCアーク 2025年2月号)