親の呪縛で10年浪人・留年した彼の孤独な苦悩

水木さん(写真:本人提供)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は秀明高等学校から4浪して東邦大学医学部に進んだ水木泰祐さんにお話を伺いました。
“なりたくない”医師になるまで10年に及ぶ浪人・留年
今回お話を伺った水木さんは、4浪を経験して医学部に入ったあと、4度の留年を経験し、卒業した後も医師国家試験の合格までに2年の浪人を経験しました。
【写真を見る】4浪4留2国試浪人で医師免許を取得…親の呪縛に逆らえなかった彼だが今は本当の望みを叶えている
彼は決して勉強をサボっていたわけではなく、ずっとしっかりやっていたそうです。医師になりたいわけではなかった彼は、医師免許を取得するも、医師の道には進みませんでした。
なぜ、彼は真面目に勉強をしていたのに、10年に及ぶ浪人・留年を経験したのでしょうか。医師に興味がなかった彼が、勉強を頑張った理由とは何だったのでしょうか。
水木さんは、1986年1月1日、広島県の呉市に、整形外科医の父親と、看護師の母親のもと生まれました。
3歳ごろに横浜に引っ越した水木さん。幼稚園の頃には、登園の時間になっても「『おかあさんといっしょ』が見たいから」と言って2時間ほど遅刻する子どもだったそうです。
小学校に上がってすぐに千葉県千葉市に引っ越した水木さんは、小学校高学年くらいに通いはじめた塾で、「勉強についていけなくなった感じが出てきた」と振り返ります。
「集団塾に行っても授業の意味がわからず、ノートの取り方すらわからなくて、周囲からは置いていかれるし、点数も取れないから怒られるという負のループでした」
「まるでできない子どもだった」と当時の自分を語る水木さん。
中学受験では、面接だけで入ることができた埼玉県の秀明中学校になんとか入学し、寮生活を送りますが、ここでも成績は低迷したようです。
「最初のテストでは真ん中くらいでしたが、その後のテストでは学年に220〜230人いて100番台の後半か200番台でした。めちゃくちゃ勉強してこの順位だったんです。勉強の仕方がずっとわからないまま学年が進んでいきました」
医師になることは義務だった
当時、秀明中学・高等学校には、将来の夢の作文を原稿用紙2枚で書き、「秀明の塔」に収める儀式がありました。ここで水木さんは、「父親と同じ長崎大学医学部に行き、医師になりたい」と書きます。しかし、それは自分の意思に反した夢でした。
「実は教師になりたいと思っていました。ただ、親に中学生になった後、その旨を伝えたのですが、『どうやって生きていくの?』と聞かれて何も返せずに終わり、それからこの親のもとでは教員を目指すのは難しいと思いはじめました。『医学部に行かないのならお金は払わないから、自分で生きていきなさい』というスタンスの親だったので、中学生の頃には、親には何を話してもダメだと確信していました」

高校2年生時の水木さん(写真:本人提供)
小さい頃から実質的に医師になる選択しか残されていなかった水木さんは、成績が伸びないという絶望を抱えつつ、厳しい寮生活の中、21時ごろまで勉強をする日々を送ります。
文系・理系の選択では理系を選ぶも、「人生は親のものじゃないぞ」という高校の先生の助言もあり、教師になるという選択肢を捨てきれず、隠れて文系科目の勉強をしていました。
高校3年生の4〜5月に受けた河合塾や駿台のマーク模試で文系3科目の成績は偏差値50後半くらいだった水木さん。しかし、医学部志望生が多い校内模試では平均点が90点の数学で2点をとり、偏差値8を取ってしまうなど、現役時の受験では医学部には到底届かない成績に終わります。
「この年は、理系科目の勉強をしておらず、受験費用を内緒でいとこに出してもらって、文系の大学を勝手に受験していました。それで日本大学の法学部に合格したのですが、父親には合格したことも報告できず、結局進学はできませんでした」
父「医学部が嫌なら自分で生きていきなさい」
文系の大学を受験し、合格したことを両親に話せなかった水木さんは、仕方なく完全に理系志望に変える決断をし、理系専門の予備校であるスバル高等予備校に通うことを決めます。
浪人した理由は「そうしないと生きていけなかったから」と語りますが、そこには父親の一言が影響していました。
「当時から親とは些細なことでも話し合える間柄ではなかったのですが、浪人を考えるタイミングで親から、『医学部に入るのが嫌なら、自分で(働いて)生きていきなさい』というニュアンスのことを言われた記憶があります。今まで自分は寮生活で社会から断絶されているところにいましたし、お金の稼ぎ方やアルバイトの仕方も何もわかりませんでした。医師になるための勉強さえしていれば、親から最低限の生活は保障されている状態だったので、仕方なく浪人して勉強するかという感じでした。医学部に行きたいとは思っていません」
予備校から自転車で10分の場所で一人暮らしをしていた水木さんでしたが、浪人生活1年目は、勉強についていけませんでした。
「数学は解の公式しかわからない状態でした。授業は出ていましたが、寮生活の反動もあって、アルバイトをしたりゲーセンに行ったりしていました」
それでも勉強は普通に続けていたため、数学の偏差値はかつての8から大きく上がり、30程度は取れるようになったそうです。
この年は受かる気はしなかったものの、私立大学の医学部を7〜8校受験してすべて不合格となり、2浪目に突入します。
授業についていけず、勉強の仕方がわからなかった
2浪に突入した水木さんは、生活環境を変えようと、予備校がある場所と同じビルに住まいを移します。
部屋のドアを開けたらすぐ予備校があったため、前年度より予備校にいる時間が増えて勉強時間も増加しましたが、集団授業には相変わらずついていけなかったようで、「勉強の仕方がわからなかった」と振り返ります。
浪人しても模擬試験やセンター試験を受けていなかった水木さんは、客観的な指標がわからない状態でしたが、「成績が伸びている感覚はなかったし、到底受かるレベルではないとは感じていた」と語ります。結局、この年も私立大学の医学部を7〜8校受験して全落ちし、3浪が決まりました。
3浪からは予備校を変えて、新宿のGHS予備校に通い始めます。
そこで受けた化学の集団授業は面白かったそうですが、やはり授業についていけず、まったく成績が上がらなかった水木さん。そこで、10月にはまた予備校を変える決断をします。それが、個別指導予備校であった東大螢雪会でした。
「当時、集団授業の予備校は年間で100万円かからないくらいでしたが、個別指導の予備校は月50万〜60万円かかりました。こうした予備校に通うのは現実味がないと思っていたのですが、このままだと成績が下がる一方だし、自分1人の力では、いくら勉強してももう成績を伸ばせないと感じていました。医学部に受かりたいわけではないけど、医学部でなくても早慶などに受かれば親も納得するだろうと思っていました」
この年も私立の医学部を7〜8校受けて全敗だった水木さん。しかし、予備校を移ったことで、勉強のやり方がわかるようになったことが大きな収穫であったそうです。
3月31日、補欠合格の電話が…
「東大螢雪会に行ったら、勉強の方法がわかるようになるだろうという期待をして入ったのですが、本当にその通りになりました。英語・数学・小論文などの各科目で受験のプロの先生や大学院の学生についてもらって、手取り足取り教えてもらえました。勉強計画も組んでもらえて、『この模試では範囲がここまでだから、ここまでやりましょう』と丁寧に教えてもらえたことで、模試のために勉強して、成功体験を積むということができました」
4浪目でも東大螢雪会に通った水木さんは、6〜7月の化学の模擬試験で満点を取ることに成功し、初めてE以外の判定であるC判定を獲得します。
直前期にはE〜D判定くらいに落ち着くも、自分の適性と出題傾向を吟味して私大を選んだ水木さんは、自信を持って5回目の大学受験に臨みました。
「この年も7〜8校の私大を受けたのですが、東京慈恵会医科大学、東邦大学、昭和大学は適性があっているのでチャンスがあるなと思い、重要問題集を繰り返したり、十何年分の過去問を繰り返したりして対策して臨みました。
ただ、この年もどこの大学からも正規合格はもらえませんでした。僕としては『もうこれ以上頑張れない』という感覚があって、ファッションブランドにアパレル店員として就職しようと思い、3月30日の新入社員の飲み会に顔を出したくらいです。そうしていたら翌日の13時くらいに東邦大学の医学部から補欠合格繰り上がりの電話がかかってきて、『ああ、終わった』と、憑き物がとれた気分になりました」
その3〜4時間後には帝京大学医学部からも補欠合格繰り上がりの電話がかかってきて、ギリギリのタイミングで2校の合格が決まり、4浪で東邦大学医学部に進学を決めました。
長くつらい受験勉強の日々の果てに、東邦大学医学部に合格した水木さん。しかし、入学してからの生活についても「入学者数の最下位で入った人間だから、大学に入ってからも確実に最下位になると思った」と語ります。

4浪終了直後の水木さん(写真:本人提供)
真剣に勉強をしても周囲にいる医学生が自分よりも優秀な人ばかりだったこともあり、4回の留年を経験。医師国家試験でも2年連続僅差の不合格を経験して2浪し、同期の医師よりも10年遅れてようやく医師免許を取得しました。
「医師免許を取って、ようやく親の呪縛から離れた」彼は、研修医をせず、大学在学中に創業した医学生の留年・進級支援、医師国家試験対策塾MediE〈メディエ〉を運営し、経営者として医学部の学生を支援しています。
「僕はもともと学校の先生になりたかったし、自分が勉強に困っていたんで、人生のどこかのタイミングで教育に携わりたいと思っていました。そこで、医学部に入ったのに放校してしまったり、中退してしまったりする学生を見てきて、もったいないと思っていたので、その手助けをする塾を作ろうと思いました」
挫折を経て「過去を正解に」
そんな水木さんに浪人して良かったことを聞くと、「今の仕事をやれていること」、頑張った理由については、「親の呪縛でやらなければならないからやっていただけ」と答えてくれました。
「僕は受験勉強をやらなければならないからやっていただけです。でも、東大螢雪会の環境のおかげで、成功体験を積み重ねることができたから、勉強ができるようになれたのだと思います。今、自分はSNSで発信をしていますが、浪人や留年をしたおかげで周囲に『挫折をした人間』だと見ていただけて、サービスを売るためのブランディングがうまくできていると感じます。
人生の転換期で失敗してきた経験があるからこそ、そこから成り上がるのはよりやさしくなると感じています。浪人をしていない世界線を知らないので、していない人生がどうなっていたかはわかりませんが、今の日本には、浪人を正解にする手段はあるよとは思います」
両親の呪縛から離れて、10年遅れで生き生きと自分の人生を送ることができている水木さん。「過去を正解にしていくことが大事なのかなと思います」と語る彼は今後も、自分と同じような境遇の医学生を救っていくのだろうと思いました。

水木さん(写真:本人提供)