102歳特攻生還者の証言…護衛なしの特攻で、敵機の待ち伏せを受けた結果
日本海軍の戦闘機「ゼロ戦」や陸軍戦闘機「隼(はやぶさ)」の搭乗員たち、戦艦「大和」や航空巡洋艦「最上」の乗組員たち……。私は新聞記者として、また、その後、フリーのノンフィクション・ライターとして、約35年にわたり、数多くの元日本軍人たちに会って取材してきた。間もなく第二次世界大戦の終戦の日から丸80年の節目を迎えるが、取材した彼らのほとんどは、もうこの世にいない。だが、ここに一人、爆撃機だけの“異色の特攻”から生還した操縦士(パイロット)がいる。戦後80年を迎える今、特攻を自らの口で語ることのできる、今年、102歳を迎えた“最後の証言者”が、現代日本人に語りかける。
新刊『生還特攻――4人はなぜ逃げなかったのか』(光文社新書)の著者が、本文には掲載しなかった貴重なインタビューの記録を交え、公開する。
前回記事はこちら<「特攻の訓示」を受けた102歳の生還者が語る「隊長の命令に覚えた違和感」>
最後の戦い
102歳となった中村は、前の取材時に見せてくれた縮尺模型とは違う、それよりも小さな1/144の「屠龍」の模型を持っていた。
中村が「屠龍」のパイロットだったと知る人たちが、次々と模型をプレゼントしてくれるのだという。
深緑色に塗装されたこの模型を手に、中村は、その日の特攻のために考え出した作戦について語り始めた。

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作戦内容はこうだ。
「どうせ死ぬのなら、敵艦隊のなかで一番大きな艦を見つけて攻撃しよう。低空で敵艦に迫り、まず私が跳飛弾攻撃をかけるので、前方射手の足立伍長は13ミリ弾を全弾射ち込んでくれ。爆弾攻撃を終えたら、敵艦を追い越し際、海面すれすれまで高度を下げるので、後部上方と尾部の13ミリ弾を全弾撃ち込んでもらう。それでも敵艦が沈まなかったら、反転して機体ごと突っ込む……」
特攻は怖くはなかったが、パイロットとして、自分以外の4人の命を預かっていることに責任を感じ、中村は慎重にこの作戦を考え出したという。
「自分の意思だけで体当たりして果たして許されるものだろうか。ただ、やれるだけのことはやろう」。中村の思いは固まった。
中村が手に持った、この小さな「呑龍」の模型の最前部の操縦席の左側。正操縦席に、若き中村は乗り込み、操縦桿を引いた……。
護衛の戦闘機が来ない
午前6時。出撃のときが来た。242年前のこの日、死を覚悟した侍たちへ思いを馳せながら中村は“出陣の瞬間”を待った。
南の美しい海が夜明けの太陽に染まり始めていた。滑走路の向こうに仲間の隊員たちが「呑龍」を見送るために並び、大きく手を振っていた。
「離陸直前、いつもより少し緊張しながら操縦桿を握っていました。500キロ跳飛弾を積んでいるので離陸の失敗は許されない。しかもパイロットは私一人の単操縦でしたから」
中村が操縦する「呑龍」は、己を含め5人の命と、いつもより重い爆弾を積み、最後の爆音を残し、滑走路を飛び立った。
基地の上空で旋回しながら編隊を組み、中村は機体の翼を振って基地に別れを告げた。
編隊がマニラ上空にさしかかったところで、旋回を開始した。ここで護衛の戦闘機60機と合流することになっていのだ。
だが、数回、旋回を繰り返したところで、隊長機はあきらめた。
「待ったところで、結局、護衛の戦闘機は一機も来ませんでした。もう、そんな余裕など、この国には残されていなかったのです」
いよいよ合図が出る
見切りをつけた隊長機は旋回を止め、目的地のパナイ湾へ進路を向けた。二番機の中村は隊長機を追い、すぐ右後方に機体を近づけながら飛んだ。
高度3000メートル。「呑龍」の編隊は南洋特有の巨大な積雲を縫うようにしながら飛んだ。
「フィリピンに進駐して以来、ほとんどが夜間攻撃だったので、太陽を見ながらの飛行を新鮮に感じたことを覚えています。天候は晴れ。気流も穏やかでした」
だが、そんな気分は一瞬にして吹き飛んだ。「隊長機が機体を下げ始めたんです。目的地が近いのだな、と思いました」
そして次の瞬間、隊長機の機体背部にある赤と白2本のジュラルミン製の信号旗がパタンと立ち上がった。
「戦闘隊形を組め、という合図です。いよいよ来たぞ! 私は操縦桿を握りしめ、二番機を戦闘体形へ移しました」
操縦席すぐ後ろの通信機の前に座る通信兵、足立伍長を前方の銃座に移動するよう命じたので、これからの僚機との通信は不能となった。
「後は、すべて自分の判断にゆだねられている。自分を信じて行動するしかない……」
中村は急降下を始めた隊長機の後を必死で追いかけた。すると、敵戦闘機の編隊が「呑龍」9機の編隊のすぐ後方に迫っているのが見えた。
米軍機の待ち伏せ
「米軍の戦闘機P-47サンダーボルトの群れでした」
急降下して雲の下に出て事態がのみ込めた。「海上には敵の艦隊がいなかったのです。一隻の敵艦もその付近の海上には見あたりませんでした」と中村は言う。隊長機は敵戦闘機の迎撃を振り切るために急降下を開始したのだ。
「米軍機は我々を待ち伏せしていたのです」
さらに隊長機は降下しながら左方向へ急旋回を始めた。中村の二番機、三番機もそれにならい旋回を始めたが、隊長機の様子がおかしい。
「隊長機の後方部の射手、戸田軍曹が真っ赤な顔で敵戦闘機と応戦しているのが見えました。隊長機は大量に被弾し、煙を上げていました。私の二番機も被弾しましたが、何とか機体の態勢を立て直そうと操縦していると、すぐ隣を飛んでいた三番機の主翼から真っ赤な炎と黒煙が上がっていくのが見えました」
今もそのときの光景が脳裏に焼き付いて離れないという。
「三番機操縦席の後方で、日の丸の鉢巻を締めた富田軍曹の顔が見えました。彼はこちらを向いて手を振っていました。その直後、海へ突っ込んだ三番機は大音響をあげ爆発し、海中へ沈んでいきました。彼は最後まで搭乗員としての誇りを守り、撃墜される直前、別れの手を振って海に散ったのです……」
後にこの富田好之の家族の元に遺書が届いている。そこにはこう書かれていた。
「14日に特攻します。不思議にも母の命日。うれしく思います」と。
決死の片肺飛行
敵戦闘機の執拗な追撃は続き、次々と「呑龍」は撃墜されていった。
「残りは私の二番機、一機だけになりました。旋回や急降下で敵の射撃をかわしましたが、被弾した左エンジンが止まり、右エンジンのみの片肺飛行では無理でした。左旋回ができないまま、機体は高度を下げ、何とか海面すれすれを飛んでいました。ついに私はここで死ぬのか……そう覚悟を決めました」
その瞬間、操縦席のキャノピーの後方部を撃ち破り、敵機の銃弾が飛び込んできた。キャノピーの破片が飛散し、中村の身体にも降りかかってきた。中村は思い切り操縦桿を胸に引き上げたが、右エンジンの出力は限界に達していた。
「耳元で爆音が炸裂し、目の前から計器盤が消し飛びました」

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残る一機となった二番機もついに海へ墜落したのだ。
だが、機体は爆発せず、しばらく浮いていた。中村の決死の操縦で何とか海面に不時着したのだ。生き残った隊員が数人、不時着した機体から翼の上へ滑り出て、泳いでいくのが見えた。
「機体はすぐに沈んでいきました。私は海面に浮いていた機体の破片か何かにつかまって漂流していました」
抗日ゲリラに機銃を突き付けられる
しばらくすると数隻のカヌーに分乗したフィリピン人が、墜落した機体から流れ出てきた物を拾うために近づいてきた。
中村が手を振って合図すると、「オオ。トモダチ!」と男たちが日本語を話しながらカヌーで近づいてきた。

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中村は、「サンキュー」と言って、男に手を差し出し、カヌーに引き上げてもらった。
「ああ、助かったぞ……」。そう思ったのも束の間で、カヌーの男たちは機銃を突きつけながら、中村を縄で縛り上げていった。
男たちは抗日ゲリラだったのだ。
中村たちは捕虜として、そのまま米軍に引き渡され、オーストラリアの捕虜収容所へ移送された。
「連日、尋問されましたが、本名などは教えませんでした。日本兵は皆、偽名を使っていました。捕虜同士、呼ぶときはそれぞれのあだ名で呼びあってね。そのなかに『零戦』の操縦士がいました。彼のあだ名は“ムサシ”。私ですか? “どんさん”ですよ。『呑龍』の操縦士だからね」と、中村は笑いながら教えてくれた。
重なる悲運の運命
楠木正成は、後醍醐天皇が失脚した後の幕府から敵視された。「湊川の戦い」で足利尊氏の軍勢に敗れ、自ら命を絶った正成だったが、この戦いの前、「菊水の家紋」の入った短刀を息子の正行へと託している。
中村たちが出撃した「呑龍」9機による特別攻撃隊に授けられた「菊水隊」という名を振り返るとき。
国のために命を懸け、日本へ生還した中村が故郷で投げつけられた心無い言葉、冷遇と、太平を願って命を懸けて戦った正成に突きつけられた悲運の運命とが、重なる気がしてならない。
歴史は繰り返すといわれるが、理不尽さも繰り返し突きつけられる、ということなのであろうか……。

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最後に、中村の人生を語るうえで、欠かせない昭和の“秘話”をもうひとつ、ここに明かしておきたい。
取材が終わろうとしたとき。付き添いで来てくれていた中村の長女が、「母の兄は、俳優の有島一郎さんなんですよ」と教えてくれた。
「えっ、それではお父さん、つまり中村真さんの奥さんは、あの往年の銀幕のスター俳優、有島一郎さんの妹だったのですか?」
新聞記者時代、長年、文化部で映画を担当し、今も国内外の映画俳優や監督たちを取材し、映画関係者にも知人の多い私は驚いた。誰からも聞いたことのない話だったからだ。
戦後の結婚秘話
「そうなんですよ。父は話していませんでしたか?」
そのとき、初めて聞く話だった。自分からは決して話さない。それが中村なのだ。
2年前、92歳で亡くなった中村の妻、美知子と有島は、母は違うが、父が同じ。つまり血を分けた実の兄妹だった。
美知子は母と二人で暮らしていたが、14歳のときに母が死去。まだ中学生だった美知子は、ただ一人の肉親である兄の有島を頼って、有島の家族と一緒に暮らしていたという。7つ年上、30歳の中村とは、23歳のときに結婚した。
「母は、なぜか、火鉢と健康診断書だけを持って父の元へ嫁いできたと話していました」。そう中村の長女が教えてくれた。「内心、母はずっと一人で心細かったのだと思います」

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自分の“新たな真の家族”を欲していたのだ。現役の警察官で正義感の強い中村を慕って、半ば、兄の有島のもとから家出同然で中村と暮らし始めたのだ、とも。
結婚後、中村は有島の元へ、一人で訪ねている。「妹の美知子さんは私のところにいます。どうか、ご心配なさらないでください。私が責任を持って護っていきますから」
突然、家を出ていった妹。その兄である有島を気遣って、中村はあいさつへ出向いたのだ。
戦時中は特攻隊員、そして戦後は機動隊員として、一生涯を母国と日本人のために捧げた中村らしさがにじみ出るような“結婚秘話”だと思った。
(ノンフィクション・ライター/元産経新聞文化部編集委員 戸津井康之)