【被爆80年】広島電鉄のバスの車掌だった元女学生 「被爆した者にしか、あの痛みはわからない」 原爆の犠牲となった同級生を看取った記憶
80年前、広島電鉄には戦争による人手不足を補うため、乗務員養成の学校がありました。集まったのは、15歳前後の女学生です。95歳を迎えた今も、原爆の犠牲になった仲間のことを語り続ける元女学生の思いを取材しました。

豊田冨士子さん 広島テレビ放送
岡山県倉敷市に住む豊田冨士子さん(95)は、地域で語り部を続けています。
■豊田冨士子さん
「手帳見なくても、(原稿は)頭に入っているから。まだまだ、ぼけられん。」

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広島電鉄は、80年前も路面電車とバスで市民の足を支えていました。しかし、戦局が悪化し、男たちが次々と出兵。人手不足を補うため、「女性の乗務員」を養成する学校をつくりました。

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広島電鉄の本社に、その資料が残されています。「広島電鉄家政女学校」。女学生309人が在学していました。80年前、電車やバスに乗務していた15歳前後の女学生たち。ほとんどが被爆し、30人が亡くなりました。

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神石高原町で育った豊田さん。半日勉強、半日乗務し給料がもらえる学校に憧れ、1944年、14歳で入学しました。バスの車掌として、慣れない土地での仕事に励む日々でした。
■豊田冨士子さん
「バスの方に回されていたけれど、本当は私、路面電車に乗りたかったんだけど。試験を受けにいったときには、先生が決めていたらしい。田舎の子でがっちりしているから。」

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8月6日の朝。午後から勤務だった豊田さんは、爆心地から2キロほどの学校で被爆しました。生死を分けたのは、勤務の時間でした。市内中心部で乗務し、大けがをした同級生たちを、懸命に探し救護しました。
■豊田冨士子さん
「同級生をずーっと探して歩いて、9月1日まで帰らずに(救護所に)ずっといた。厳しい人生でした。」

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あの日を語り始めたのは、高齢になってからでした。地域の集いのほか、依頼があれば、学校にも足を運んできました。必ず伝えるのは、同級生を看取った記憶です。
■豊田冨士子さん
「『お母ちゃん胸がくるしいよ…お母ちゃ~ん…』それで息が切れたんです。私たちも本当にどうしようもなくてね。かわいそうで、かわいそうで。とにかくもう、核があってはいけないということね。ありがとうございました。」

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■話を聞いた被爆者は…
「今もお話聞きながら、(当時を)うわっと思いだしたら、涙がとまらないの。怖かった。」

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■話を聞いた被爆2世は…
「数少ない貴重な証言だと思います。2世として、がんばっていかなきゃいけないという気は、話を聞くたびに強くなります。」

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豊田さんが辛い記憶を伝え続けるのには、理由があります。
■豊田冨士子さん
「痛みにあった者しか、その痛みはわからないと私は思います。絶対にその目にあった人じゃないと、本当のことはわからないと思います。」