終戦時25歳の海軍少尉、幾度となく死線を超えた「歴戦の搭乗員」が「8月15日」に感じた安堵

今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。

負けたということは、俺は助かったということ

「私は偵察第一〇二飛行隊で、木更津基地で終戦を迎えました。日本海軍きっての高速偵察機彩雲で索敵任務に就いていましたが、8月5日、彩雲4機を木更津から約1800浬(カイリ・約3334キロ)離れた中部太平洋のトラック島に運ぶことになりました。米艦隊の拠点となっていたウルシー環礁の動静をいち早く偵察するためです。第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将の見送りのもと出発し、まずは八丈島まで行ったんですが、折あしく台風の季節でそこから先に行けず、空輸を断念して8月14日、木更津に帰ってきました。 終戦を告げる陛下の玉音放送を聴いたのはその翌日のことでした」

と、吉野治男さんは言う。吉野さんは千葉県出身。甲種予科練二期を経て空母加賀雷撃隊の一員(偵察員)として真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)をはじめ機動部隊の作戦のほとんどに参加。その後、索敵のエキスパートとしての訓練を受け、ミッドウェー海戦(昭和17年6月5日)、母艦を乗り換えて翔鶴で臨んだ南太平洋海戦(同10月26日)では索敵任務についている。昭和19年10月、レイテ島への米軍上陸を迎えての比島沖海戦では、いわゆる小澤囮艦隊の空母瑞鶴から発進した。

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

吉野治男さん

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

九七式艦上攻撃機。吉野さんは真珠湾攻撃から南太平洋海戦までこれで戦った

終戦時25歳の海軍少尉だった。

「負けたということは、俺は助かったということと同義でした。矢も弾丸も尽きて、もはや勝てる見込みはない。しかし日本がこちらからギブアップすることはないだろうと思っていました。すると俺の命もあと長くて数ヵ月かな、と」

いままで、幾度となく死線を超えてきている。真珠湾攻撃のときは猛烈な米艦隊の対空砲火に被弾8発、吉野機のあとに続く5機が撃墜され間一髪だったし、ミッドウェー海戦では索敵任務から加賀に帰還し、搭乗員室で着替えようとしたところに爆弾が命中、それらが格納庫内で信管をつけたまま置かれていた爆弾の誘爆を誘い、大火災になった。

南太平洋海戦のときは、やはり索敵から帰還し、いざ着艦しようとしたところ、目の前で着艦誘導灯が消え、同時に翔鶴が大きく転舵、危うく艦尾に突っ込むところだった。吉野機がまさに着艦しようとしたとき、見張員が「敵襲」を報告したのだった。

俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない

比島沖海戦のさいも、瑞鶴が撃沈されたのちは陸上基地から敵上陸地点への夜間爆撃に出撃、敵の正確なレーダー射撃を受け、とっさに電探紙(アルミテープ)を撒くことで敵の照準を逸らし、かろうじて帰還している。

吉野さんは、同乗する若い搭乗員たちに、

「俺は不死身だ。俺と一緒にいる限りはお前たちも不死身だ。絶対に死ぬことはない」

と暗示をかけ、安心感を与えて、いざというときに実力が発揮できるよう、部下の心を掌握することを心がけていた。長い実戦経験に裏付けられているからこそ、その言葉には説得力があった。

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

空母加賀

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

空母加賀を真上から見る

そんな吉野さんでも、沖縄が陥落し、本土決戦を目前に控えようとしていたこの時期になると、目前に迫った「死」を、逃れられないものとして受け入れるしかなくなっていたのだ。それだけに、終戦を知ったときは、悔しいよりも安堵の気持ちのほうが大きかったという。

10月30日、市川妙水大尉の指揮下、日の丸を米軍の星のマークに塗り替えられた彩雲を木更津から横須賀に空輸して、吉野さんの搭乗員生活は終わりを告げた。

吉野さんは戦後、関東配電(のちの東京電力)に入社、空港反対闘争がもっとも盛んな頃の成田営業所長などを歴任、昭和52(1977)年の定年まで勤めた。

「公団からは、反対派の団結小屋の電気を止めろと圧力がありましたが、私ら東京電力ですから、電気代を払ってくれる人はみんなお客様だ、と応じませんでした。その代わり、放水が始まったら危ないから切りますよ、と。しかしいま思えば、公団側にはろくな人材がいなかった。思想信条は別として、反対派のほうに人物がいましたね」

ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態

平成11(1999)年、アメリカの深海調査会社ノースティコスがミッドウェー島東方の海底で、ソナー画像から加賀の残骸を発見したさい、吉野さんは調査への協力要請を受け、同じく九七式艦上攻撃機搭乗員だった赤松勇二さんとともに探査船に同乗した。

「波が高く、船は大きく揺れました。ミッドウェー島沖とは言っても、周囲は全部海ですから、昔ここで戦ったという感慨はなかった。心のなかでは、加賀が見世物になるのはしのびない、見つからないで欲しいという気持ちもありました……。

吉野さんには生前、10回近くインタビューをしたが、いちばん声を大にして語っていたのがミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態だった。

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

南太平洋海戦から帰還後、豊橋海軍航空隊時代の吉野さん

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

比島沖海戦で吉野さんが搭乗し戦った艦上攻撃機天山

当時空母赤城飛行隊長だった淵田美津雄中佐、第二機動部隊で参謀を務めていた奥宮正武中佐が戦後、著した『ミッドウェー』(日本出版協同・1951年)では、この海戦の敗因として、

〈利根機(索敵機)の発進三十分の遅延は、はからずもここに本海戦失敗の致命的原因を潜めたのである。〉

と、予定時刻から30分遅れて発進した重巡利根搭載の水上偵察機(機長・甘利洋司一飛曹)による索敵の不手際が挙げられている。その遅れて発進した利根四号機が、予定索敵線から北に150浬(約278キロ)もはずれた方角で、10隻の「敵らしきもの」を発見した。『ミッドウェー』には、次のように書かれている。

〈「敵らしきもの一〇隻見ゆ。ミッドウェーよりの方位一〇度二四〇浬、針路一五〇度、速力二十ノット、〇四二八(注:午前四時二十八分、日本時間)」

南雲中将をはじめ司令部の人々は愕然とした。(中略)

「敵らしきもの十隻、とはなんだろう」

と、参謀たちは首をひねった〉

「敵空母らしきもの」1隻の発見

さらに約1時間後、粘り強く触接(しょくせつ)を続けた同機はついに「敵空母らしきもの」1隻の発見を報告してきた。この期におよんでなお、司令部では、

〈それでも、なお「らしき」ときているので、ほんとに空母がいるのかなあと、半信半疑の割り切れない思いを抱いている。〉

と、『ミッドウェー』には記されている。あたかも、甘利機の索敵報告に不備があり、それが司令部の判断を遅らせたと言わんばかりの書き方である。

「冗談じゃない、『らしきもの』という表現は、暗号書に正式に記載されている信号文ですよ。確認しているうちに撃墜されたら元も子もないので、敵らしきものを発見したらまずそう通報するように、偵察員は教育されている。『まず第一報を入れよ、その解釈は司令部が考える』というのが、洋上索敵の大前提なんです」

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

終戦後、米軍の星のマークに描き替えられた彩雲を空輸する搭乗員たち。座っている右から2人目市川大尉、左端が吉野さん

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

ミッドウェー海戦の際、甘利洋二一飛曹が搭乗したのと同型の零式三座水上偵察機

と、吉野さんは憤りをあらわにしていた。吉野さんと甘利一飛曹は予科練の同期生である。

「フロートのついた低速の甘利の水上偵察機が、敵戦闘機や防御砲火を避けつつ、ここまで触接を続けられたのは大変な努力の賜物です。よく戦争映画で、索敵機が高い高度から雲越しに敵艦隊を発見したように描かれていますが、そんなことはありません。高高度からだと敵に発見されやすく、逆に天候に左右されて敵艦を見つけにくい。もし自分の索敵コースに敵艦がいなくても、『そのコース上に敵はいない』ということが重要な情報になるので、一瞬たりとも気が抜けないんです。

索敵機の飛行高度は300~600メートルが通例で、私のこの日の飛行高度は600メートルでした。低空を飛んで、水平線上に敵艦を発見したらその瞬間に打電しないと、こちらが見つけたときには敵にも見つけられていますから、あっという間に墜とされてしまう。

敵に遭えば、墜とされる前に、どんな電報でもいいから打電せよ、と私たちは教えられていました。たとえば、『敵大部隊見ゆ』なら、『タ』連送。『タ』『タ』『タ』そして自己符号。それだけ報じれば、もう撃ち墜とされてもお前は『殊勲甲』だと言うんですよ。甘利機が1時間以上も触接を続けられたのは、私らはほんとうにすごいことだと思う。『らしきもの』の報告で判断が遅れたなんて、そりゃあ、命じておいて信号文も知らない司令部がボンクラなんです。航空参謀の源田実中佐はなにをしてたんですかね」

索敵機としての任務を放棄

甘利機が予定コースを大幅に外れていたことについては、吉野さんと同じく、予科練同期生の小西磐(少尉)が戦後、当時の資料をもとに精密な類推を試みている。これは甘利一飛曹の航法ミスではなく、日米の記録を照合すると、このとき、利根航海士が天測で導き出して、搭乗員に伝えた出発位置そのものに誤りがあり、実際の出発点から索敵線を引けば、甘利機のコースとピタリ一致するという。

甘利機の話題に隠れて見落とされているのが、甘利機の北隣り、五番索敵線を飛んだ筑摩一号機(機長・都間(つま)信大尉)の失態である。同機は甘利機より先に、敵機動部隊のちょうど上空を通過しながら、雲の上を飛行していて発見できず、しかも敵艦上爆撃機と遭遇しながら報告もせず、索敵機としての任務をいわば放棄していたのだ。

吉野さんは、

「雲の上を飛んで索敵機の任務が果たせるはずがない。雲が多くて面倒だからと雲の上をただ飛んで帰ってくるなんて信じられないことで、言語道断です。本人は生きて帰って、戦後自衛隊に入り、そのことをしゃあしゃあと人に語っていたのですから、開いた口がふさがりませんね」

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

ミッドウェー海戦で日本空母に致命傷を与えたダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

ミッドウェー海戦、日本側の攻撃を受け、まさに沈まんとする米空母ヨークタウン

と容赦なかった。甘利機に続いて敵艦隊との触接に成功した利根三号機(九五式水偵)、筑摩五号機(零式水偵)は、ともに未帰還となっているだけに、都間大尉のとった行動は、悪く言えば、海軍刑法で重罪に値する「敵前逃亡」ととられても仕方のないものだった。

『ミッドウェー』には、また、

〈運命の五分間――赤城、加賀、蒼龍被弾〉

と題する一節がある。兵装転換が終わった空母の飛行甲板に準備のできた飛行機が並べられ、いよいよ出撃、というときに敵急降下爆撃機の爆弾を受け、「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻の空母が瞬時に被弾した、というものである。

「ああ運命のこの五分!」の嘘

〈あと五分で攻撃隊全機の発艦は終わる、

ああ運命のこの五分!〉

と劇的な表現で記されているが、結論を言えば、これも真っ赤なウソである。

索敵任務を終えた吉野さんの九七艦攻が着艦したのは7時5分。

「着艦できたということは、このとき発進準備はできておらず、飛行甲板は空だったということです」

負けたということは、俺は助かったということ, 俺は不死身だ。絶対に死ぬことはない, ミッドウェー海戦にまつわる司令部の失態, 「敵空母らしきもの」1隻の発見, 索敵機としての任務を放棄, 「ああ運命のこの五分!」の嘘

吉野治男さん(2002年、撮影/神立尚紀)

と、吉野さん。その直後、加賀は被弾し、吉野さんは外舷通路から上甲板に出て、海に飛び込み駆逐艦に救助された。

「頭(司令部や士官搭乗員)がこれでは、手足(現場の搭乗員)がいくら優秀でも勝てるはずがありません。いわんや、戦後になってもなお、『死人に口なし』(甘利一飛曹は少尉となり、昭和20年5月13日、九州沖で戦死)とばかりに責任転嫁を図ったんですから。なかには立派な指揮官もいましたが、帝国海軍のそういうところにはガッカリさせられました。だからこそ、終戦のときにホッとしたんだと思います。あんな上官の命令で死ぬなんてまっぴらですから」

平成23(2011)年死去、享年91。吉野さんが亡くなって8年後の令和元(2019)10月、米IT大手マイクロソフト共同創業者のポール・アレン氏(2018年死去)が設立した財団の調査チームが、海底に眠る加賀、赤城の艦体を相次いで発見、映像が公開された。加賀の映像には、舷側後方に設けられた特徴的な20センチ砲がはっきりと映し出されていた。吉野さんがもし存命だったなら、海底の加賀を見て何を思っただろうか。