「零戦」の空襲で大打撃を受け、隊員たちは「恥」バッジをつけさせられた…中国にとって屈辱的な日となった「1941年5月26日」の空戦
今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。
ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。
「恥」と書かれたバッジを胸につける、中国にとって屈辱的な日
数年前、私は、中国と台湾のテレビ局が共同制作する番組への出演依頼を受けた。
タイトルは「天水空戦」。昭和16(1941)年5月26日、日本海軍の鈴木實大尉が率いる第十二航空隊の零戦11機が甘粛省天水の中華民国空軍基地を急襲、所在の中国軍機を壊滅させた戦いを描くのだという。中国・台湾共同制作なのは、当時、日本が戦っていた中国正規軍は蒋介石率いる国民党の中華民国軍で、戦後、中華民国軍が中国共産党軍に追われ台湾に逃れたからだ。
聞けば、その日は中国にとって屈辱的な日として記憶され、当時、隊員たちは全員一階級降格させられた上に「恥」と書かれたバッジを胸につけさせられたという。だが、中国側の国情もあり、生存者の手記のほかは、詳しい資料がなにも残っていなかった。

鈴木實さん(撮影/神立尚紀)

昭和12年8月、初空戦から帰還した鈴木さん(当時中尉)
そこで、日本の取材者で、鈴木實さんともっとも付き合いがあり、遺品を預かっている私に白羽の矢が立ったのだ。だが、番組は完成したのに、中国側の「恥」になることだからか、いまだに放送されないままである。
鈴木さんは明治43(1910)年、東京・半蔵門前に生まれた。小さいときから飛行機に憧れ、東京府立一中(現・日比谷高校)を経て、飛行機に乗りたい一心で海軍兵学校を受験する。この時代、飛行機のパイロットになるには、陸海軍の軍人になるのがいちばんてっとり早かったのだ。
昭和7(1937)年11月、兵学校を卒業、少尉候補生となる。アメリカへの遠洋航海ののち、巡洋艦加古乗組となり、昭和9(1934)年3月、海軍少尉に任官。さらに戦艦金剛での勤務を経て、同年11月、念願かなって飛行学生を命ぜられ、霞ケ浦海軍航空隊に転勤する。
そして戦闘機搭乗員となった鈴木さんは、空母龍驤(りゅうじょう)の乗組となり、昭和12(1937)年8月23日、4機の九五式艦上戦闘機を率い、宝山上空で中華民国空軍のアメリカ製戦闘機27機と空戦、9機を撃墜、全機無事帰還して初陣を飾った。この功績で第三艦隊司令長官・長谷川清中将より感状を授与されている。
特攻部隊・第二〇五海軍航空隊飛行長として台湾で終戦を迎える
昭和16(1941)年、第十二航空隊分隊長(大尉)となっていた鈴木さんは、5月26日、敵信傍受でもたらされた情報により、零戦11機を率いて甘粛省天水の中華民国空軍飛行場を攻撃。5機を撃墜、18機を地上銃撃で炎上させ、全機無事帰還。支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎大将より、二度めとなる感状を授与された。天水基地の隊員全員が一階級降等された上に「恥」と書かれたバッジを胸につけさせられたのはこのときのことである。
太平洋戦争では、昭和18(1943)年3月、東南アジア・セレベス島(現スラウェシ島)ケンダリー基地に本拠を置く第二〇二海軍航空隊飛行隊長(少佐)となり、5月から9月にかけ数度のオーストラリア本土空襲を指揮。豪州空軍に配備されたイギリスの誇る名機・スピットファイアを相手にのべ34機を撃墜、空戦による損失1機という一方的勝利をおさめた。

昭和12年当時の空母龍驤戦闘機隊。中列左から鈴木さん(中尉)、小園安名少佐、舟木忠夫大尉

昭和15年ごろの鈴木さん(当時大尉)
特攻部隊・第二〇五海軍航空隊飛行長として台湾で終戦を迎えた鈴木さんは、ここでGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の委託を受けて進駐してきた中華民国軍を迎えた。
中国軍の占領方針は、蒋介石の「怨みに報いるに徳を以ってせん(以徳報怨・老子)」の言葉どおり、旧怨を感じさせない紳士的かつ穏やかなものだった。
宿舎が収容所と名を変えただけで、中国軍による監視もない。日本軍将兵は最後まで帯刀を許され、階級章もつけたまま、互いを呼び合うときも官職名のままだった。これまでと同じように、自由に外出することもできた。
鈴木さんは9月5日付で中佐に進級していたが、中国軍からも中佐としての待遇を受けた。中国空軍司令官・張柏壽中将の隣に私室を与えられ、運転手つきの専用車をあてがわれる。その車を使い、毎晩のように台中の日本料亭に入り浸っても、何の咎めもなかった。
そのへんでカエルでも捕まえてきて食わせてやれ
あるとき、張中将が、出かけようとする鈴木さんを、通訳を介して呼び止めた。
「貴官は夕刻になると宿舎から消えるが、いったいどこへ行っているのか」
「空が飛べなければ、私には酒を飲むしか楽しみがない。退屈でしようがないから、日本料理屋で敗戦のやけ酒を飲んでいる」

昭和16年。左から佐藤正夫大尉、鈴木さん(大尉)、蓮尾隆市中尉、向井一郎中尉
と、鈴木さんは答えた。すると、張中将が、
「俺たちも連れて行け」
と言う。仕方なく、張中将とその副官の2人を連れて店に行くことになった。
玄関に出迎えた女将に鈴木さんは、
「中国の偉いさんだ。どうせわかりっこないんだから、そのへんでカエルでも捕まえてきて食わせてやれ。なんなら、何千円でもふっかけていいぞ」
と言った。鈴木さんは語る。
鈴木さんと張中将の関係
「ところが、日本間の座敷に通され、英語で語り合いながら飲んでいると、張中将の言葉のはしばしに、正宗とか澤之鶴など、日本の酒の名前が出てくる。どうやら、かなりの日本酒通らしい。おかしいぞ、と思い、『閣下は日本酒に詳しいようですが、どこで覚えられましたか』と聞いたら、張中将は表情も変えず、流暢な日本語で『私は、かつて日本陸軍の航空士官学校に留学し、日本人の家で下宿をしていたことがある。だからよく知ってる』と。飛び上がらんばかりに驚きました。それまで、すべて英語か、通訳を介しての会話だったので、まさか日本語を解するとは思いもよらず、『いい気になりやがって、いまに見てろよ』とか、『俺たちは中国軍に敗けた覚えはないんだよ』などと、目の前で悪口や罵詈雑言を浴びせてたのが全部筒抜けだったんです。一本とられた!と思いましたね」
さらに話してみると、張中将は、昭和16(1941)年5月26日、鈴木さん率いる十二空零戦隊が中国・天水飛行場を急襲、壊滅させたときの中国軍の基地指揮官であったことがわかった。張中将は当時、少将だったが、敗戦の責任をとらされて上校(大佐)に降格されたという。

昭和16年5月26日、天水空襲に向かう十二空零戦隊。前方の胴体二本線が鈴木大尉乗機
「またお前に会うとはな」
張中将はニヤリとすると、うまそうに酒を飲み干した。
ほどなく、中国側の要請で零戦を全機、引き渡すことになり、鈴木さん以下数名が教官として高雄基地に派遣され、中国軍パイロットを指導することになった。これを中国本土に空輸して八路軍(共産党軍)との内戦に備えるのだという。日の丸が青天白日の中華民国のマークに描き替えられてはいたが、ふたたびプロペラを取り付けられた零戦で、約1ヵ月間、鈴木さんは思う存分空を飛ぶことができた。
張中将よりじきじきの「留用」(そのまま中国空軍で雇い入れる)の打診を断り、昭和20年末に帰国した鈴木さんを待っていたのは、一面の焦土となった故郷・東京と食糧不足だった。
さしあたって食うためにトラック運転手を始めたが、GHQが、昭和21(1946)年11月、日本の太平洋岸にあった製油所の操業を禁止するなどの措置をとり、22(1947)年2月には石油製品に指定配給物資として配給切符制が実施され、肝心のガソリンが思うように手に入らなくなった。仕事は、需要はあるはずなのに激減した。闇値でガソリンを買っても、赤字になるばかりである。
思いもよらない勤め先
進退窮まった鈴木さんは、昭和22年3月、藁をもつかむ思いで、キングレコードの総務部長を務めていた従兄の板垣勝三郎さんを勤務先に訪ねた。ここで大きな転機が訪れる。その日のうちにキングレコードの親会社である講談社の野間省一社主に引き合わされ、講談社が、占領軍の方針による財閥解体をチャンスととらえて設立準備中の貿易会社、キング商事に「国内貿易課長」の肩書きで入社することになったのだ。ところが翌23(1948)年、キングレコードのほうに販売課長の欠員が出たのでそちらに回されることになり、鈴木さんは、思いもよらずレコード会社に勤めることになる。
そして、九州支店長、大阪支店長を経て昭和35(1960)年、役員待遇の営業本部長として東京に呼び戻される。
鈴木さんの営業部長としての最初の仕事となったのが、イギリスの大手レコード会社、デッカ社との契約更改交渉である。

昭和16年5月26日、零戦隊の銃撃で炎上する天水基地
デッカはEMIと並ぶ大レーベルで、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団やオペラなどのクラシックを中心に、スタンリー・ブラック、フランク・チャックスフィールド、レイ・チャールズなどのアーティストを擁する世界有数のレコード会社である。
昭和28(1953)年、キングレコードが日本での販売契約を結び、「ロンドンレコード」のレーベルでレコードを販売している。だが、この頃は日本のレコード各社が洋楽に力を入れ始めた時期で、うかうかすると他社にさらわれかねない状況であった。
契約更改は2年に一度だが、デッカの極東支配人、デリック・ジョン・クープランド氏は日本人を頭から見下しており、横柄でわがままで担当者もほとほと泣かされていた。そこで鈴木さんの出馬となったのである。
「ホテルオークラの一室に現れたクープランドは、挨拶もろくにせず、ソファーにふんぞりがえって、『お前が新しい担当者か』と。年齢はぼくと同じか、少し年下ぐらいに見えた。それなら戦争に行った経験があるはずだと思い、『ところであなた、戦争中はどこにいたんだ』と英語でたずねました」
と、鈴木さんは私のインタビューに語っている。
鈴木さんの作戦とは
鈴木さんの英語は、決して上手ではないが、海軍兵学校仕込みのキングス・イングリッシュで、日常会話に不自由はない。
「カルカッタの造船所で高角砲の指揮官だった。俺は大英帝国陸軍少佐だ」
クープランド氏は胸を張る。しめた、と鈴木さんは思った。

昭和18年、第二〇二海軍航空隊飛行隊長になった鈴木少佐
「俺は戦闘機の指揮官で、大日本帝国海軍中佐だ」
クープランド氏の態度が変わった。
「なんだ、それじゃ俺より上官じゃないか」
軍人の階級の上下は国境を問わない。プロの軍人経験者なら、自分より階級が上の者にはかならず一目置く。それを見越した鈴木さんの作戦だった。
以前にも増して精力的に仕事を続ける
「カルカッタの空襲には俺も行くはずだった。俺たちの仲間が空襲に行って、大戦果を挙げている」
鈴木さんが言うと、
「あのとき、あんたの仲間が来ていたのか。でも爆弾は1発も当たらなかったぞ」
クープランド氏は、よほど打ち解けた口調で答えた。

昭和18年5月2日、豪州ダーウィン空襲から帰還。左を向いているのが鈴木少佐
「なにを言うか、そっちの高角砲だって、ちっとも当たらなかったじゃないか」
2人は顔を見合わせて大笑いした。そしてこのあと、キングレコードとデッカの契約は非常にスムーズに運ぶようになったという。
そして昭和41(1966)年、常務取締役兼営業本部長に就任した鈴木さんは、続いてデッカ・ロンドンレコード部長も兼務し、以前にも増して精力的に仕事を続けた。ロンドンレコード部長を兼ねるので、海外アーティストの契約交渉やデッカグループの国際会議などで、町尻量光社長とともに海外に出張する機会も増えた。
鈴木さんが日本に紹介して大ヒットさせたもの
この頃、鈴木さんが日本に紹介して大ヒットさせたのが、デッカ傘下のA&Mから売り出したばかりの兄妹デュオ、カーペンターズである。
昭和45(1970)年に発売された「遥かなる影」は大ヒットを記録し、キングレコードの洋楽部門は黄金期を迎えた。キングレコードのレコードジャケットの背表紙は青色だが、レコード店の洋楽コーナーの棚にズラッと並ぶ青の背表紙は、「青い山脈」と呼ばれ、競合他社からの羨望と妬みの的になった。
昭和48(1973)年には「イエスタデイ・ワンス・モア」がふたたび大ヒット、この年に発売されたアルバム「ナウ・アンド・ゼン」は初回プレスの10万枚があっという間に完売し、追加分も、観音開きのジャケットの印刷が間に合わないほどの売れ行きで、アルバムだけで50万枚を売り切った。この頃、カーペンターズの日本でのレコード売り上げは、ライバルEMIが擁するビートルズをも凌ぐほどだった。

昭和35年、英デッカ社との契約交渉。左がクープランド氏、右端が鈴木さん
鈴木さんが洋楽本部長となって手がけたアーティストは、クラシックではウラディーミル・アシュケナージ、ポピュラーでトム・ジョーンズ、ポール・アンカ、シャルル・アズナブール、レイモン・ルフェーブル、クインシー・ジョーンズ、リカルド・サントス、セルジオ・メンデス、マントバーニ、そしてローリング・ストーンズ、カーペンターズなど多岐にわたった。1970年前後における日本の洋楽ブームの「仕掛け人」の1人と言っていい。鈴木さんは語る。
「カーペンターズは、じつにいい男といい女の兄妹、という印象でしたが、妹のほうが食事をしてくれないので困った覚えがあります。その後、残念ながら拒食症で亡くなってしまいました。
セルジオ・メンデスは大酒のみで大の日本酒党、レイモン・ルフェーブルは本当の紳士、リカルド・サントスはその後、ウェルナー・ミューラーと名前を変えましたが、兄弟みたいに仲良くしていて、ドイツに行ったとき一緒にヨットに乗せてくれたり、思い出は尽きないですね。
でもぼくは、べつに音楽の趣味はないんですよ。昔もいまも音楽、洋楽のことは全然わからない。契約となると、どうしても海外に出かけていって、アーティストと会わないといけないんですが、洋楽を知らない洋楽本部長でしたね……」
亡くなる直前に妻に問われたこと
昭和50年代に入ると、キングレコードは、洋楽部門は相変わらず好調なものの、従来の歌謡曲に代わって若者の人気を呼ぶようになったニューミュージック(ポップ調のサウンドを基調とするシンガーソングライターの作品)の分野で出遅れ、邦楽部門の売上げ不振から急激に業績が悪化した。昭和53(1978)年6月、経営再建のため講談社から役員が派遣されることになり、町尻社長は退陣する。それを機に鈴木さんは常務を勇退し、顧問となった。顧問を退任し、キングレコードとの縁が切れたのは昭和55(1980)年7月20日のことだった。鈴木さんは70才になっていた。
平成13(2001)年10月28日、死去。享年91。死の数日前、私が見舞いに行ったとき、鈴木さんは、
「あなた、もしも生まれ変わったら何になりたいですか?」

カーペンターズにゴールドディスク授与。右から2人目が鈴木さん
と妻・隆子さんに問われ、
「そうだな、俺は鳥になりたいなあ。鷲のような大きな鳥になって、また空を飛んでみたい」
と、目を細めて答えた。
零戦をもう一度操縦したい
「空を飛ぶなら、飛行機はどうですか?」
隆子さんが重ねて聞くと、
「零戦は実にいい飛行機だったよ。零戦ならもう一度、操縦してみたいな」
苦しそうな息づかいながら、すぐにでも操縦したいような口ぶりだった。
「でも、いまはもう、ちょっと無理ですねえ」

トム・ジョーンズと鈴木さん

2001年、リハビリに日記を書く鈴木さん(撮影/神立尚紀)
隆子が言うと、鈴木さんは一瞬、顔色を変え、
「できるさ!」
と、ややムキになって答えた。
「零戦の操縦桿を握ったら、俺は誰にも負けん」
力のこもった声だった。これが、私の聞いた鈴木さんの最後の言葉になった。