宗教には、心身をなげうって跳ばねば見えない領域がある…釈徹宗氏が考える「宗教の本質」とは?
「まるで宗教みたい」などという言い方をしばしば耳にする。
ネットの書き込みでも結構目にする。
揶揄・非難・悪口として使われるフレーズである。
ちょっと待て、その場合の「宗教」とは何を指しているのだ!?
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。
批評家・随筆家にして敬虔なキリスト者の若松英輔氏。
「信仰」に造詣の深い当代きっての論客2人が、
「宗教の本質」について3年半にわたって交わした珠玉の往復書簡。
その中から、今回は、釈氏が若松氏に書いた「第一の手紙」を公開する。
(本記事は、『宗教の本質』の一部を抜粋・編集したものです。)
宗教について語り合う
このたびは私の勝手な提案をご承諾いただき、ありがとうございます。心より御礼申し上げます。
とにかくどなたかと「宗教について」「宗教領域を構築している諸要素について」じっくりと語り合いたかったのです。それで「この人と語り合いたい」と思い浮かんだのが若松さんでした。これまでも何度かご一緒しておりますが、何かをテーマに掲げて深く掘り進めるといった対話はまだ行っていなかったように記憶しております。
できれば対面で時を忘れてガチで語り合いたい、とも考えておりましたが、新型コロナの感染状況やお互いの都合を鑑み、往復書簡という形態となりました。おつき合いのほど、どうぞよろしくお願い致します。
さて、若松さんから「では『動詞』でテーマを設定しませんか。たとえば、『信じる』『読む』『語る』『見る』『疑う』『修める』『いつくしむ』など」との提案をいただきました。ぜひその方針で進めたいと思います。
そこで、「信じる」から始めることにします。
考えてみれば、「信じる」という営み無しには、私たちの暮らしは成り立たないですよね。駅に行けば電車に乗れるとか、お願いすれば手伝ってくれるとか、明日はやって来るとか、いずれも漠然とした信憑を基盤にしています。それらのすべてを疑うと、生きていくのはとても困難になります。
でも、我々がここで論じようとする「信じる」は、宗教フィールドにおける信仰や信心の問題です。時には自分の生命をも賭す事態にまで突き進む信仰や信心……。これについて思いつくまま語り合いましょう。
単独者の飛躍
私たちは、この世界を言葉や理念で分節して認識しております。民族・国家・信仰なども、この世界を分節するある種のストーリーであり、ナラティブです。ここではそのようなストーリーを〝もの語り〟と表現することにします(意味の体系である「物語」と、「語る」という行為とを合わせたニュアンスを出したいからです)。その〝もの語り〟に自己投棄する営みが、私の信仰のイメージです。

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実存主義哲学の祖とされるキルケゴールは、聖なる領域の前にただ独りで立ち、ついには聖なる領域へと身をゆだねる(飛躍する)行為を「信仰」と呼んでいます。私はこの構図に影響を受けているようです(それぞれの〝もの語り〟が呼応したり、互いに懸架したりする作業が重要であることについては後述します)。
また、その自己投棄は、自分の意思では成し得ないのではないでしょうか。自分ではとても飛躍できそうにもありません。崖のフチあたりまでは、自分の意思で歩いて行けるのですが、そこから先は……まさに自分の意思や都合ではいかんともし難い領域です。自己投棄しなければ信仰の扉は開かないのに、自分じゃ投棄できないというややこしさ。
こういうお話をしていると思い出す人がいます。司馬遼太郎です。
司馬遼太郎という人は、宗教領域にも造詣の深い人でした(司馬遼太郎の作品から「宗教的感性」を学んだ人は意外と多いはずです。宗教の本質に迫る言葉の数々が息づいているからです)。その司馬が次のようなことを述べています。
ぼくは死ぬ一秒前に『南無阿弥陀仏』で救われるつもりです。なんとなくそういう安心があるから、いろんなはからいの中で生きていられるわけで…。(『宗教と日本人』)
司馬遼太郎は信仰に身をゆだねるのを拒み続けたわけです。ぎりぎりまで知的営為で人間や社会に肉迫しようとしたのでしょう。
宗教には心身をなげうって跳ばねば見えない領域があります。理性や知性ではどうしても届かない世界があるといってよいでしょう。そのことを司馬はよくわかっていました。しかし、司馬はその境界線の極限まで歩み続けようとしたのです。そして、最後の最後に、ばっと跳ぶつもりだったわけです。実に興味深い人です。
〝宗教に無関心な人の当事者意識〟と〝信仰の加害者意識〟
宗教領域における「信じる」には、前述のような「単独者の飛躍」といった面があります。しかし、「他者との共振現象」といった面もあります。

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宗教の信仰は決して個人の中にとどまりません。信じている状態は、共鳴盤が振動しているみたいなものです。振動しないとそもそもその共鳴盤は無いも同じです。振動して初めて共鳴盤があったことがわかります。そしてその振動は他者の共振現象を起こします。つまり、ある〝もの語り〟を共有することになるわけです。この「もの語りを共有する喜び」は、おそらく何千年何万年も変わらないものでしょう。人間にとっての根源的な喜びだと思います。そこに人間にとっての宗教の琴線があります。
ここで重要になってくるのが、宗教に無関心な人の当事者意識と、信仰の加害者意識です。
我々はこの往復書簡で宗教について深く掘り下げていく予定ですが、ぜひ読者のみなさんは自分も宗教の問題の当事者であることを自覚していただきたいと考えています。宗教を「信仰を持つ人だけの問題である」と捉えている限り、この往復書簡のもくろみは成功しません。宗教に無関心な人の当事者意識というのが大切です。例えば、環境問題や原発問題などはどこにも部外者はいません。電気を使っている以上、誰もが当事者です。LGBTQ+の問題だって、誰もが当事者ですよね。自分はヘテロセクシャルだから関係ない、なんてことではこの問題は良い方向へと向かいません。それと同じです。
一方、明確な信仰を持っている人も、自覚しなければいけないことがあります。それは自らの信仰は他者を傷つける可能性をもつということです。自分の信仰の加害者性に自覚的になることが大事です。信仰というのは〝もの語り〟が異なると、どうしても折り合えないところがあります。ですから、ついつい信仰を持っている人は、他の〝もの語り〟に無自覚になったりするのです。信仰というのは、そもそも他者を傷つける可能性を持っている、そこに気がつかねば、「信じる」という営みは深まっていきません。
たとえば、日本だと、イスラームの人なんかはマイノリティですごく苦労されていますよね。やはりマイノリティの人権とか信仰が尊重されねばなりません。同様に、イスラーム地域に行けば、イスラームの人がマジョリティなので、イスラームの人がマイノリティを傷つける可能性だって出てくるわけです。
信仰は、信じる者と信じない者の二分を避けられないものでしょう。その二つに分かれないような信仰は生きていく力にもならないので、必ずそこにはある種の区別は生まれざるを得ないけれども、いかにここにたくさんの橋を架けられるか、いかに風通しの良いゲートを設定できるか、そこが大事だと思うのです。
「不合理だから信じる」と「信じることはわかること」
若松さんもご存知のように、宗教研究ではしばしば「不合理ゆえに我信ず」(二世紀のキリスト教神学者・テルトゥリアヌスの言葉とされている)として、理知と信仰とを対立項でとらえます。確かに、不合理だからこそ「信じる」と表現するのであって、合理的に納得できるなら「信じる」のではなく「わかる」とか「理解する」ですよね。
かのマルティン・ブーバーは、学生に「宗教の本質はなんですか?」と尋ねられたとき、「それはイサク奉献だ(*)」と答えたそうです。

旧約聖書に登場する預言者アブラハムを描いた古版画(photo by GettyImages)
前出のキルケゴールも、このアブラハムの行為こそが宗教の本質だと考えました。彼らは、宗教の本質とは不合理だ、と語っています。不合理なものの究極は信仰です。社会や世間という体系には納まりきらない不合理、それを宗教は内蔵しています。
一方、仏教が語る「信」はもっと理知的な行為となります。漢訳仏典の「信」の原語はシュラッダー(サンスクリット語。パーリ語ではサッダー)やアディムクティですが、これは「身も心も納得している」といった意味となります。そのため「信解」や「信知」などとも訳します。「信じる」は、究極的には「悟り」と同義ともなります。こうなってくると「信じる」はかなり幅のある概念であると言えます。
*「イサク奉献」とは、ユダヤ教の聖典(キリスト教では『旧約聖書』と呼びます)に出てくるお話です。アブラハムという深い信仰に生きた男が、神から「お前の息子をいけにえにせよ」という命令を受けます。息子のイサクは、アブラハムが待ちに待ってやっと生まれた一人子なのです。アブラハムは悩んだすえ、イサクを神の命令通り殺して捧げようとします。すんでのところで、神は「お前の信仰が本物なのはわかった。もうよい」と止めるのです。
どうしても信じられないという宗教性
「信じる」を幅広くとらえるなら、「どうしても信じられないという信仰」や「信じられないという宗教心」みたいなものもあると思うんです。

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さきほど、司馬遼太郎の「ぎりぎり境界まで行く」という話を述べましたが、それはある意味司馬の宗教心でしょう。前述したように、最後の「跳ぶ・跳ばない」は、もはや自分の意思ではなく、投げ出される事態のように思うのです。
私のように宗教的感性に恵まれていない人間にとって、信じられるのは宗教的才能だと感じます。だから信じられる人に対してコンプレックスがあります。
もう少し司馬遼太郎について追加しますと、橋本峰雄(哲学者・浄土宗僧侶)との対談において、司馬は次のように語っています。
極楽があるかどうかという問題でいえば、そういう絶対的な問題にいきなり入るのが宗教でしょう。極楽があるかどうかという設問をしたときに、すでにもう宗教はなく、相対的な世界になってしまう。思考を何十年と重ねても絶対的境地には至らないわけですから、いきなり「南無阿弥陀仏」を唱えることのできる人の偉さというのをぼくはいつも思っているわけです。いつも思っていても、はからいの多い世の中に生まれてしまいまして、さらにはむしろそのはからいごとのほうに関心があるわけです。(『宗教と日本人』)
この話は、とてもよくわかります。まさに私自身のコンプレックスもここにあるからです。私などはどうしてもいろいろと理屈が必要になります。ところが、宗教的才能にあふれた人は、あっさりとそのハードルを乗り越えていきます。司馬が言う「いきなり「南無阿弥陀仏」を唱える(称える)ことのできる人」です。凡人にはなかなかできない動きが、身体能力の高い人はあっさりとできてしまうのと同じです。司馬はあっさりと聖の領域へ自己投棄することに抵抗があったので、あくまで世俗に足をつけた歩みを重視しました。
信じられるのはまぎれもなく宗教的才能でしょう。しかし、それでもなお踏みとどまる才能を持った人もいるんじゃないでしょうか。
そういえば、作家の髙村薫さんとお話しした際、彼女が「私はどこまでいっても信じられない人間で、宗教心がないんです」とおっしゃっていますが、彼女はとても篤い宗教的情熱をもっていると感じましたし、作品には深い宗教性が発揮されています。こうなってくると、跳べないことも才能なのかもしれない(笑)。
そんなわけで、どうしても信じられないという宗教性もあるんじゃないか、などというおかしな着地となりました。「信じる」から「宗教性」へと論点がスライドしてしまいました。ご寛容ください。
2021年4月16日