ジュリー・沢田研二「伝説のコンサート」が36年たった今も“伝説”とされる理由 「やっぱりジュリーは派手でないと」という声への“反動”と“進化”

 ソロデビュー50周年を超え、喜寿を迎えてなお音楽シーンの生ける伝説として活躍を続ける“ジュリー”こと沢田研二(77)。10月9日、NHK BSでそんな沢田が1989年10月13日に東京ベイNKホール(千葉県)で開催したコンサートの模様をおさめた「伝説のコンサート~沢田研二」が放送された。

 当時、沢田は新たなプロデューサーに、1980年代前半の黄金期にバックを務めたEXOTICSの吉田建を迎え、バックバンドも吉田を筆頭としたJAZZ MASTER(ベース・吉田建、ギター・柴山和彦、キーボード・朝本浩文、ドラム・村上“ポンタ”秀一)に刷新。1980年代半ば以降、しばしマニアックなAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)に寄り、メディア露出も控えめだったが、ロックかつポップな新路線のアルバム「彼は眠れない」を打ち出し、大きな方向転換を図ったタイミングだった。

「ジュリーは歌謡曲じゃないの?」と思う人もいるかもしれない。しかしそれは「昭和のメインストリームだった歌謡界で天下を取った」ことによるイメージであって、1967年にザ・タイガースのボーカルとしてデビューして以来、沢田は常にロックと共にあった。萩原健一らと結成したニューロックグループ「PYG(ピッグ)」、1970年代から1980年代にかけ開催した「ジュリー・ロックン・ツアー」、そして何より最先端のロックやファッションを取り入れた楽曲の数々……。1989年は、そんなふうに沢田や同世代のロッカーたちが切り拓いた後に芽吹いたバンドブームの真っただ中だった。今回放送されたコンサートが“伝説”と言われるのは、そんな時代背景の中で40代を迎え功成り名を遂げた沢田が、二回りかそれ以上も若いロッカーたちと同じ土俵に降り立った嚆矢(こうし)だったからだ。

■「派手にいくしかない」という覚悟

 さて、この伝説のコンサートは開演から「THE VANITY FACTORY」(1980年)、「彼女はデリケート」(同)と、かつて佐野元春から提供されたロックンロールナンバーを連続するアゲアゲのセットリスト。今回の放送ではなぜかカットされてしまったが、続いて当時人気絶頂だったプリンセス プリンセスの奥居香から提供されたニューシングル「ポラロイドGIRL」(1989年)を披露し、"ロックなジュリー"が今もなお健在だと見せつける。ニューアルバムの新曲と共に「危険なふたり」(1973年)、「カサブランカ・ダンディ」(1979年)、「時の過ぎゆくままに」(1975年)、「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」(1981年)、「ダーリング」(1978年)といった往年のヒット曲も惜しみなく披し、ファンたちは席に着く暇がないほどの盛り上がりぶりだ。

 MCでは「(関係者に)新しいアルバムを聴いてもらうと『これをなんで3年前にやらなかったの?』と言われる。だけど僕は自分の身体で感じたことしかできない」「ここ10年はサイクルが早くなって若い人たちがどんどん出てくる。5年もたてば沢田研二のことなんて知らない人がいっぱい出てくるだろうから、そこで地味にさっそうと登場しようという胸算用だったが、やはりあの時期の印象が強かったのか、いつまでも『勝手にしやがれ』や『TOKIO』の頃のことを言われ苦痛だった」「前のシングル『muda』ではソロ(※それ以前のバックバンド『CO-CóLO』は沢田も含めたバンドという体裁だったため)でやる手始めに、歌謡曲の本道を行こうじゃないかと派手な曲にしたところ『やっぱりジュリーは派手でないと』と言われた。地味にやっていても忘れてもらえないのなら、やはり派手にいくしかないかと覚悟を決めた」と今回の方向転換への決意を語っていた。

■歌唱力にパフォーマンス、脂が乗った男盛り

 実際、吉田による沢田のプロデュースは1993年まで続き、以降もその時期を原型としたロック・ポップ路線は現在に至るまで継続されている。繰り返しになるが、この伝説のコンサートは昭和と平成のはざまで停滞に陥っていた沢田が現状を打ち破り、新たな伝説を築いてゆこうという決意表明の場だったのだ。1980年代前半までの事績があまりにもきらびやかなため、世間で取り沙汰されることはあまりなかったが、この時期の沢田は歌唱力と言いパフォーマンス力と言い、まさに脂が乗った男盛り。今回の放送によりあらためて評価されることを願いたい。

(中将タカノリ)