朝ドラ「あんぱん」で注目…!「やなせたかしの父」は、名門雑誌をV字回復させた敏腕編集長だった!【次々見つかった柳瀬清の新事実】

朝ドラ「あんぱん」で注目…!「やなせたかしの父」は、名門雑誌をV字回復させた敏腕編集長だった!【次々見つかった柳瀬清の新事実】
『少年倶楽部』が画面に、と社内でも話題に
アンパンマンの生みの親、やなせたかしさん(柳瀬嵩。劇中の名は柳井嵩/北村匠海が演じる)とその妻・小松暢さん(劇中は朝田のぶ/今田美桜)をモデルとしたNHKの朝ドラ『あんぱん』。放送開始からまもない4月のある日、出社すると、あちこちで「今日の朝ドラ見た? 『少年倶楽部』が写ってた!」という声が聞こえてきました。さて、どんな場面かというと……。
幼少期、父・清(二宮和也)が病死し、伯父・博(竹野内豊)の家に、母(松嶋菜々子)ともども引き取られた嵩少年(木村優来)は、伯父から『少年倶楽部』を見せられます。
「父さんがどんな仕事しよったか、嵩は詳しく知らんやろ。清が出版社におったころ作りよった雑誌や」
「父さんが!?……(誌面をめくる)……漫画だ!」
「やっぱり清の子やなあ、お前の父さんも漫画が大好きやった」
「伯父さん、これ、借りていい?」
「おお、いくらでも持ってけ」
こうして嵩少年は何冊もの『少年倶楽部』を自室に持ち帰り、目を輝かせて読みふけるのです。回が進み、中学生になっても、嵩の部屋には『少年倶楽部』で人気だった「のらくろ」などの漫画本が積み上げられていました。
これらの場面は、2003年に講談社から出版された、やなせたかしさんの自伝『痛快!第二の青春 アンパンマンとぼく』のなかで、〈ぼくの父は、そのころまだできたばかりの講談社で『少年倶楽部』の編集をしていたのです〉と記述されていることがモチーフになっているのでしょう。
実際のところ、やなせたかしさんのお父さんは、どんな人物だったのでしょう? 今回、調べてみると、やなせたかしさんも知らなかったらしい父・柳瀬清さんにまつわる資料が、講談社の地下書庫から次々と見つかりました。それをご紹介したいと思います。
入社した年にいきなり編集長に抜擢されて
やなせたかしさんは、自伝『アンパンマンの遺書』(岩波書店)の中でこう書いています。
〈ぼくの父は柳瀬清という。上海の東亜同文書院に留学して、日本郵船、講談社と転職して、東京朝日新聞の記者になった。文学と絵を愛し、テニスの選手であった〉
やなせさんが生まれたのは1919(大正8)年、一家揃って上海にいた時です。その翌年、1920(大正9)年、清さんは講談社(当時は大日本雄辯会講談社)に入社しています。劇中設定と少しばかり違うのは、清さんが勤務したのは、『少年倶楽部』ではなく、講談社が発行した第一号雑誌『雄辯(ゆうべん)』だったということ。しかも入社からほとんど間を置かずして、なんと編集長に抜擢されているのです!
清さんのお話をする前に、『雄辯』という雑誌について少し説明しましょう。
名士のスピーチを雑誌に載せて人々に届ける
講談社の創業者・野間清治は、1909(明治43)年に大日本雄辯会を立ち上げ、その翌年に『雄辯』を創刊します。創業時、東京帝国大学(現・東京大学)の法科主席書記だった野間は、法科弁論部の立ち上げに裏方として奔走し、弁論部の発足演説会で行われたゲストの名士や教授、学生の演説をすべて速記として残しました。その速記録をもとにして雑誌『雄辯』を創刊したのです。
当時の日本は明治維新で近代化の一歩を踏み出し、日清・日露の戦争で勝利して、国民の間で時勢を論ずることが流行していました。ですが社会の階層は今以上に大きく、帝国大学のようなエリートたちの演説を世間一般の人が聞く機会はありませんでした。
もちろん、テレビもラジオもありません。そこに名士たちの演説を書き起こした弁論雑誌『雄辯』が登場。創刊号には、三宅雪嶺(思想家)、梅健次郎(法学者)といった東京帝大の関係者の演説や、緑会(現在も続く東大法学部の親睦団体)弁論部の学生集合写真(その中には後の首相・芦田均もいます)も掲載されていました。
当時、3000部売れれば成功と言われた出版界で、『雄辯』創刊号6000部は即日に売り切れ、増刷を重ねて最終的に1万4000部発行という大成功を収めました。東京では4時間で店頭から消えたという記録が今に残っています。
しかし、その後、年を重ねるにつれて硬派雑誌であった『雄辯』は、ライバル誌の『中央公論』や『改造』に負けて次第に部数を落とし、大日本雄辯会講談社の看板雑誌の座も娯楽雑誌『講談倶楽部』に奪われていきました。
柳瀬清さんが入社した年、1920(大正9)年には、「『雄辯』はカネばかりかかって売れない。毎号赤字を積み上げているじゃないか」と社内で不平がたまっていたのです。新たに看板雑誌となった『講談倶楽部』の大衆読み物路線に対して、『雄辯』編集部員たちは、“社で最初に創刊した硬派雑誌の品位”を守り抜こうと自縄自縛の状態に陥ってしまっていたようでした。
ある日、ついに野間清治社長のカミナリが『雄辯』編集部員たちの上に落ちます。
「だれにもわからないような評論を喜んで載せている。編集局でこれがわかる者が一人いるか!二人いるか!」
野間は中途半端にいろいろなノンフィクション記事を取り混ぜてしまった『雄辯』を本来の姿に戻す、と裁断を下し、誌面の全面リニューアルを率いる人材として、29歳の柳瀬清さんを編集主任(編集長)の座につけたのでした。
実は入社からこの時まで、柳瀬さんは『婦人倶楽部』創刊担当者として、講談社初の女性雑誌の編集案を練っていたのです。野間社長直々のご指名に、柳瀬さんは驚いたのではないでしょうか?
超硬い記事に洒脱な挿絵を載せるセンスの持ち主
おまたせしました。やなせたかしさんのお父さん・柳瀬清さんの活躍がここから始まります。
柳瀬さんが編集長となったのは、『雄辯』1920(大正9)年10月号からです。講談社50年史の社史資料には、このような記述があります。
〈此の号より、編集発行人名義は、柳瀬清氏となる。と同時に、定価、ページ数、口絵、編集法など面目一新せり。〉
9月号までの『雄辯』は、まるで単行本のようにひたすら文章が綴られており、見出しもほとんどなければ、挿絵もありません。挿絵の登場するのは、ようやく170ページめ、しかも格調高い日本画でした。
柳瀬さんが編集長となった10月号では、11ページめでさっそく挿絵が登場します。それも、衆議院議員の「議会及政党改造論」という、超硬いテーマの記事下にあるユーモラスな絵に「国歌の選良の大演説も終了と共に国民の頭に残る何物もないとはなさけない 吹いてる時は威勢がいいが直ぐしぼんでしまう風船玉のようだ……」というキャプションがついているのです。
この雑誌が出た時は、普通選挙法がまだ成立していませんから、議員先生といえば、まさに名士中の名士。そんな記事によくまぁ、大胆な、と冷や汗が出そうです。以後、柳瀬さんが編集長をつとめている期間の『雄辯』には、洒脱なポンチ絵や、後年のやなせたかしさんの画風を彷彿とさせるスタイリッシュなイラストが多数掲載されました。
今ではおなじみの“アンケート記事”を考案した
誌面改革はまだまだあります。特に注目したいのは、それまでなかった“特集”を登場させたことです。
〈特別ものとしては、「現代青年に対する希望」と題して、当代名士の「問い合わせもの」を掲載せり。回答名士の姓名は左の如し。 内田魯庵、沖野岩三郎、永井柳太郎、山川均、与謝野晶子、鈴木梅四郎、中島徳蔵……(全員記名ありますが略します)……四十名〉(前出・社史資料より)
「問い合わせもの」とは、現代の雑誌や新聞ではおなじみのオピニオン・ワイドやアンケート記事のことです。それまでの雑誌では、単独の寄稿家による数ページの記事か、あるいは編集者たちの座談会はあったものの、多数の知識人に同じテーマを投げかけて、それをまとめて意見特集の記事を作るというアイデアはありませんでした。編集部の出題に対して、彼らはごく短い、けれども印象的な言葉で回答を寄せています。たとえばこんな感じです。
〈現代に限らず青年はイツデモ生きている。もし青年の意気をもってすればいかなる改造といえどもならざるはない。青年の最も戒心すべきは青年期を脱したと思う時、すなわち学窓を去って一本立ちとなった時、妻を娶って家庭を作った時、もはや青年でないと思う時である。青年は年齢に由らず。三十の老人があり、六十の青年がある。青年の最も心すべきは一生青年の心を失わざる覚悟である〉(作家・内田魯庵の回答)
〈一、労働に生きること。一、恋愛結婚の実行者たること。一、改革者の勇気に富むこと。 以上は男女の別なく、一般の青年達に希望いたし候〉(作家・与謝野晶子の回答)
どうでしょう? 野間清治が「誰もわからないものを喜んで載せている!」と激怒した内容からまさに一八〇度の転換です。こうした方針転換は見事に当たり、好評を得た新企画の「問い合わせもの」は、以後毎号のように掲載されました。そして柳瀬さんは『雄辯』を見事にV字回復させたのです。
部員たちに慕われていた空気の伝わる「編集後記」
また、柳瀬さんは編集長となってから、雑誌巻末に「編集室雑話」というコーナーを設け、編集部内の空気を読者に伝えるようにしました。会社の隣に湯屋(銭湯)があって、編集作業が煮詰まると部員が誘い合って湯に入ってくるエピソードや、編集部員の電話での失敗談など、打ち明け話を載せ、読者に親近感をもってもらおうとしたのです。
11月号では、この「編集室雑話」コーナーに、当の柳瀬さんを揶揄した話が載りました。
〈ありがたいことに人間だからあれでまァ通るが、これがもし徳利か何ぞであったら、きっとたちまちにローズになって(=壊れて)いたろうと思われるのは、我が柳瀬五山氏である〉
「五山」とは、柳瀬清さんのペンネームです。
〈というのは、たとえば天神様の脇差のごとく、彼五山は常に三百六十五日反っくり返ってござるからだ。その五山が近頃何を感じたか、急に音曲を習いたいと世にも不思議なことを言い出した。さァ、これを聞くと黙っていられない面々、へぇ珍しい、いつから源太(=唄の師匠)の処へ通うのかとさっそく油をかけにいく。すると先生ひときわ体をグッとそらして、イヤとにかく、歌沢(=三味線端唄)や清元(=浄瑠璃)は女性的でいかんからね。僕はひとつ琵琶をやろうと思う。それも筑前の技巧的なのよりは薩摩のほうだね、と来た。面々、これを耳にするとひとしくプッと吹き出して、さすがに君らしいお見立てだね。薩摩琵琶ならなるほど“それる”〉
柳瀬さんの反っくり返る癖と、調子が“それる(=下手くそ)”をかけたオチになっています。編集長をこんな風に茶化すことのできる、陽気な編集部の雰囲気と、その人柄から柳瀬さんが部員に愛されている様子が伝わってくるようではありませんか?
朝日新聞に引き抜かれ、わずか3年でこの世を去った
ですが、柳瀬清さんは、惜しいことにたった半年しか『雄辯』にいてくれませんでした。1921年4月号を最後に、東京朝日新聞に引き抜かれてしまったのです(やなせたかしさんの公式プロフィールなどでは、1920年に東京朝日新聞に転じたと記述されていますが、『雄辯』の編集発行人として、たしかに1921年4月号まで柳瀬清の名前は明記されており、社史資料でも1921年4月に柳瀬去る、と記述されています)。
柳瀬さんが去った後、『雄辯』はわずか1年の間に4ヵ月ごとに編集長が交代する混乱が続きました。そして、再び低迷期へと堕ちていってしまったのです。
朝日新聞に転じた柳瀬清さん自身も、たった3年しか、この世にいることができませんでした。1924年、特派員として単身赴任していたアモイで、彼は33歳の短い命を終えるのです。
もし柳瀬さんが朝日新聞に引き抜かれず、東京で講談社のために編集長を続けてくれていたら、どんな人生を送ったでしょうか。少なくとも『雄辯』の名編集長として、社史にその名を留めることになったのは間違いないと思います。彼の手腕が発揮されたのはたった6号だけでしたが、明らかに他の号とはテイストが違っており(ちなみに彼は『雄辯』のロゴもいったん変えていました)、講談社に新風を吹き込んでくれていたのが誌面を見ても伝わってくるのですから。
もし講談社で年月を重ねていたら、「あんぱん」の劇中設定のとおりに『少年倶楽部』で名編集長となっていたかもしれません。