「生まれたときから、『工藤公康の息子』と言われる環境で育った」 工藤阿須加、重圧と注目度に苦しんだ過去

「内面的なところで言うと、父親もコンプレックスでした」。そう話すのは、俳優の工藤阿須加さん(34)。4年前から山梨県で農業を始め、俳優兼農家として活躍している。そんな工藤さんがコンプレックスだと語ったのは、名投手・名指導者として知られる父・公康さんだった。誰もが知る偉大な父親を持ったがゆえの重圧に押し潰されそうになったとき、心の支えとなったものは──。(全2回の1回目/後編へ続く)

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――これまでの人生のなかで、コンプレックスを感じた経験はありますか。

 たくさんあります。まず外見で言うと、鼻がコンプレックスです。子どものころは、「もう少しスッとしていたら……」とよく思っていました。鼻筋が少しでも細くならないかなと、手で触る癖もありましたね。

 内面的なところで言うと、「父親」もコンプレックスでした。

――父である工藤公康さんは、西武ライオンズ、福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)、読売ジャイアンツと3球団で日本シリーズを制覇したことで、「優勝請負人」とも言われたそうですね。

 生まれたときから、「工藤公康の息子」と言われる環境で育ちました。父のことを尊敬しているし、感謝もしています。ただ、どうしても注目を集めてしまうので、友達とうまく打ち解けられないこともありました。

――お話しいただける範囲で、どんなことがあったのでしょうか。

 自宅に変な電話がかかってきたり、見知らぬ人からの手紙がポストに入っていることもありました。昔は電話帳に住所が載っていたじゃないですか。僕が息子だと知らない人から、「ここに工藤が住んでるんだよ」と教えてもらったこともあります。そのときは、「そうなんですね」なんて、ごまかしました(笑)。

――大変でしたね。

 僕としては、仕方ないよねと思っていました。大人になって知ったのですが、父や母は僕たち子どもがそうした環境に影響されないよう、いろいろなケアをしてくれていたみたいです。でも、すべてから守ることはできないので、父と母も大変だったと思います。

■反抗期のない子どもだった

――そう思えるようになるまでには、つらい気持ちもあったのではないかなと思います。そのことを家族に伝えたことはありますか。

 ちゃんと伝えたのは、高校生や大学生になってからですね。ただ、どんなタイミングで伝えたかはあまり覚えていなくて、勢いで言ってしまった気がします。覚えているのは、「じゃあ出ていけ」と父に言われたことでしょうか(笑)。

 冷たいように聞こえますが、僕は正論だと思うんです。なぜなら、僕たち家族は父の仕事でご飯を食べて、そのおかげで生活ができているからです。苦しいこともありましたが、半面、楽しいこともたくさんありました。ここまで育ててくれた親の存在はコンプレックスでもあったけれど、感謝の気持ちが大きいですね。

――当時は反発心などもあったんでしょうか。

 反発心というか、反抗期のない子どもだったと思います。厳しい父に反抗できなかったというのが正解かもしれません(笑)。

 それでいうと、20歳を超えて反抗期が始まった瞬間があるんです。

――どんな反抗期だったんですか。

 かわいいもんですよ、門限を守らないとか。当然、父には「誰の金で飯を食っているんだ」と怒られます。しばらく守るものの、「友達の家に泊まるだけ」なんて言い訳をしながら、少しずつすり抜けようとしていました。

 といっても父にはお見通しだったのですが、少しずつゆるくなっていきましたね。

――工藤さんは5人きょうだいの長男ですし、先駆者として切り開いていったんですね。

 確かに、妹たちが大きくなったころは、「泊まりに行っていいよ」という感じでしたね。僕としては、「うそでしょ、いいの?」という感じで、衝撃でした(笑)。

 でも、門限が厳しかったことにも理由があったんです。親切にしてくれる人がたくさんいる一方で、お金を目的として近づいてくる人もいます。大人になってわかるようになりましたが、厳しくしていたのはすべて子どもを守るためだったんです。「どこに遊びに行くのか」「誰と一緒にいるのか」ということを細かく伝えるように言われていたのも、何かが起きたときに対処するためです。今はその気持ちがよく理解できるし、そのおかげで、こうして元気に日々を過ごせています。大切に育ててくれていたんだなと感謝しています。

 もちろん失敗したこともありますよ。仲が良いと思っていた友達が僕そのものではなく、「工藤公康の息子」として見ていたことに気づいて、落ち込んだりもしました。

――ショックですね。

 でも、つらい出来事があって、どうすればいいかわからなくなることは誰にでもあると思います。僕が困難に直面したときに耐えられたのは、やっぱり家族や友人の支えがあったからなんです。

 たくさん嫌なこともありましたが、その分、手を差し伸べてくれる人がいました。悩んでいた幼い僕にいろんな話をして、考え方や目線を変えてみようと思わせてくれた人もいました。そのおかげだと思います。

■「うまくできた」と思ったことない

――真正面から一点を見続けるとネガティブに思えることも、角度を変えれば見え方も変わりそうです。工藤さんは今34歳ですが、これまでの人生で選んできた道のなかで、最も困難だったものはどんなことがありますか。

 簡単な道はありませんでした。僕だけではなく、平らで真っすぐな道というのは、そもそも存在しないと思っています。でも、これでは質問の答えにならないですよね。

 少しずるい言い方になってしまうかもしれませんが、新しい作品に向き合う瞬間はいつも、とても困難だなと感じています。

――どの作品においても苦しさのようなものがあるということですか。

「恐怖」という感情が近いかもしれません。役者というのは、「その場に立たせてくれる人」がいなければ生きていくことができない職業です。次にまた呼んでいただける保証はないし、新しい作品に入る前は、「これをきっかけに仕事がなくなるかもしれない」という考えがいつも頭をよぎります。

――恐怖心を取り払うために、どんなことを大切にしていますか。

「全力でやっていれば誰かが見てくれる」と思うようにしています。一回一回が勝負というと大げさかもしれませんが、「今やれることを頑張ろう」と思いながら作品と向き合っています。

――そのなかで後悔したこともありますか。

 しょっちゅうですよ。僕、「うまくできた」と思ったことが一回もないんです。

――それは、まもなく公開する「てっぺんの向こうにあなたがいる」でもですか。

 そうですね。今回の映画も、「何か違う」「もっとこうできたかもしれない」と自省していました。でも、ご一緒させていただいた天海祐希さんから、「(主人公とその夫の青年時代を演じた)のんさんと僕がすてきだった」と言っていただいて、本当にうれしかったです。

 これは僕の持論ですが、演技には正解がないと思っています。だからこそ、「次はこうやろう」と想像がふくらんでいく。その積み重ねが演技の幅やおもしろさにつながっているように思うんです。

(構成/AERA編集部・福井しほ)