【べらぼう】強烈なキャラが登場! 葛飾北斎(くっきー!)と曲亭馬琴(津田健次郎)の生涯は?

浮世絵師・葛飾北斎, 勝川春章の門下へ, 北斎の役者絵の評価は?, 作品を続々と発表, 山東京伝のゴーストライター?, 蔦重の耕書堂で働く

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第41回より ©NHK

横浜流星さんが主人公・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/蔦重)を演じる、2025年NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめものがたり)〜」。当時の文化や時代背景、登場人物について、戦国武将や城、水軍などに詳しい作家・鷹橋 忍さんが深掘りし、ドラマを見るのがもっと楽しくなるような記事を隔週でお届けします。今回は、第40回から登場した新たな2人の人物について取り上げます。

NHK大河ドラマ『べらぼう』第40回「尽きせぬは欲の泉」、第41回「歌麿筆美人大首絵」が放送されました。第40回では、くっきー!さんが演じる勝川春朗(しゅんろう/のちの葛飾北斎)と、津田健次郎さんが演じる滝沢瑣吉(さきち/のちの曲亭馬琴)が初登場。初対面の二人がいきなり喧嘩をはじめるなど、強烈な印象を与えました。今回はこの二人を取り上げたいと思います。

浮世絵師・葛飾北斎

葛飾北斎は、『冨嶽三十六景』などの作品で知られる浮世絵師です。宝暦10年(1760)9月23日に生まれました。寛延3年(1750)生まれの蔦重より、10歳年下となります。多くの浮世絵師と同じように、北斎の出自や幼年期についてはあまり明らかではありませんが、出生地は下総国本所割下水(ほんじょわりげすい/現在の東京都墨田区亀沢1丁目から4丁目)とされます。ただし、具体的な場所は確定していません。幼名を時太郎といい、のちに鉄蔵に改めたといいます。北斎は数えで4歳くらいの時に、幕府御用の鏡師(鏡を作る、および磨く職人)・中島伊勢の養子に迎えられますが、後に実子に家督を譲り、生家に戻ったとみられています。

勝川春章の門下へ

作画に興味を抱きはじめたのは6歳頃からだといいます。10歳前後で貸本屋の小僧として働き、14、15歳頃から彫師のもとで、木版印刷の版木の文字彫りという仕事に就いたといわれます。浮世絵師への道を歩みはじめたのは、安永7年(1778)19歳の時です。北斎はこの年、前野朋哉さんが演じる浮世絵師の勝川春章(しゅんしょう)の門下に入ったのです。勝川春章は、役者絵の大家として知られていました。入門の翌年、北斎は師・勝川春章の「春」と、春章の別号である旭朗井(きょくろうせい)から「朗」の字を与えられ、「勝川春朗」と号して浮世絵師としてデビューしたとされます。北斎はこの後約15年間、勝川派の絵師として錦絵や黄表紙、洒落本などの挿絵を描いていきます。

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大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第40回より ©NHK

北斎の役者絵の評価は?

やがて北斎は頭角を現わし、蔦重が接近していきます。蔦重は北斎に、寛政2年(1790)と3年(1791)に出版した富本節正本の表紙や、寛政4年(1792)に出版された、古川雄大さんが演じる人気作家・山東京伝の黄表紙の挿絵などを描かせています。蔦重は北斎に役者絵も依頼しています。ですが、北斎の役者絵は蔦重を満足させることができなかったようで、依頼が続くことはありませんでした。現代でも北斎の役者絵の評価は高くないといいます(田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』)。北斎は寛政6年(1794)頃に勝川派を離れ、江戸琳派(りんぱ)の頭領・俵屋宗理(たわらやそうり)を襲名して狂歌の世界と結びつき、数多くの狂歌絵本や摺物(すりもの/オーダーメイドの非売品の版画)などを描いていきます。同じ頃、時太郎可候(ときたろうかこう)の名で、黄表紙も発表しています。寛政10年(1798)には宗理号を譲って、北斎辰政(ときまさ)を名乗ります。以後は流派に属さず、独立独歩で作画活動を行なっていきます。

作品を続々と発表

北斎は文化元年(1804)頃から文化8年(1811)頃(45歳頃から52歳頃)、読本(よみほん/絵を主にした草双紙類に対して、読むことを主体にした本)の挿絵に多くの優れた作品を残しています。中でも、作家の曲亭馬琴とコンビを組んだ『新編水滸(すいこ)画伝』や『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』が特に知られています。文化9年(1812)頃から文政12年(1829)頃には、『北斎漫画』に代表される多くの絵手本(絵を描く手本)を、天保元年(1830)頃から天保4年(1833)頃(71歳頃から74歳頃)には、最も著名な『冨嶽(ふがく)三十六景』(全46枚)をはじめとする風景版画シリーズなどを続々と発表しています。天保5年(1834)75歳からは肉筆画に主力を置き、おびただしい数の作品を残して、嘉永2年(1849)に数え90歳で北斎はこの世を去りました(以上、永田生慈『葛飾北斎』)。蔦重は寛政9年(1797)に47歳で亡くなっているので、北斎の活躍も、後述する馬琴の活躍も知りません。もし知ったなら、さぞかし喜んだことでしょう。

作家・曲亭馬琴

曲亭馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』などを著わした作家です。執筆から得る収入により、人並みの生活を保てた最初の作家ともいわれます。馬琴は明和4年(1767)6月9日に、旗本・松平信成(のぶなり)の用人を務める滝沢興義(おきよし)の子として、江戸・深川で生まれました。寛延3年(1750)生まれの蔦重より17歳年下となります。安永4年(1775)、馬琴が9歳の時に父・興義が急死したため、父と同じく松平家に仕えていた長兄・興旨(おきむね、のちの羅文/らぶん)が17歳で家督を継ぎました。ところが翌安永5年(1776)、興旨は松平家を去り、浪人となってしまいます。そのため、馬琴が10歳で家督を継ぎ、松平信成の孫・八十五郎(やそごろう)に仕えることになりました。しかし、愚鈍でわがままな幼君・八十五郎の相手を続けることに嫌気が差し、安永9年(1780)14歳の時に出奔(しゅっぽん)し、各地を流浪します。

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大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第42回より ©NHK

山東京伝のゴーストライター?

寛政2年(1790)24歳の時に、山東京伝を訪ねて入門を請いました。山東京伝は「戯作は教えようがない」として弟子入りを断わりますが、「気軽に話にいらっしゃい。何か書いたら、見るだけは見ましょう」と応じたといいます。この山東京伝との出会いにより、馬琴の戯作者としての道が開いていきます。翌寛政3年(1791)、山東京伝の斡旋により、黄表紙『廿日余四十両(はっかあまりしじゅうりょう)尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』が、「京伝門人 大栄山人(だいえいさんじん)」の名義で、和泉屋市兵衛から出版されました。山東京伝が和泉屋市兵衛に渡すはずの新作が書けなかったため、代わりに馬琴の原稿を斡旋したと考えられています(佐藤至子『蔦屋重三郎の時代 狂歌・戯作・浮世絵の12人』)。この年、大洪水に見舞われ、深川の馬琴の住居も住めないような状況に置かれたようです。馬琴は山東京伝の家に寄寓し、山東京伝の代作をしたといいます(麻生磯次『滝沢馬琴』)。

蔦重の耕書堂で働く

寛政4年(1792)の春、馬琴は山東京伝の勧めにより、蔦重の耕書堂に住み込みで働くことになります。ドラマでも、馬琴が店で働く姿が描かれていました。蔦重は寛政5年(1793)から、馬琴の黄表紙や読本を出版していきます。寛政5年に出版された『御茶漬十二因縁(おちゃづけじゅうにいんえん)』に、はじめて「曲亭馬琴」と署名しています(麻生磯次『滝沢馬琴』)。同年7月下旬、馬琴は耕書堂を辞め、飯田町中坂下の履物商・会田家に婿入りしました。2年後の寛政7年(1795)、義母の死を機に商売から退き、執筆に打ち込んでいきます。馬琴は、葛飾北斎とコンビを組んだ読本の名作『椿説弓張月』のヒットにより、読本作家としての地位を確かなものにしました。文化11年(1814)48歳の時から、代表作となる読本『南総里見八犬伝』の刊行を開始し、失明の不幸に見舞われながらも、長男の妻の力を借りて、天保12年(1841)に完成させます。馬琴が75歳の時のことです。その後も馬琴は、嘉永元年(1848)に82歳でこの世を去るまで、筆を振るい続けるのでした。

浮世絵師・葛飾北斎, 勝川春章の門下へ, 北斎の役者絵の評価は?, 作品を続々と発表, 山東京伝のゴーストライター?, 蔦重の耕書堂で働く

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」第41回より ©NHK

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