流行語大賞候補のピン芸人「ひょうろく」が語る、ブレイクまでに味わった2度の“戦力外通告” 「もうずっとヤバいって思いながら生きていた」

スキンヘッドにスラリとした長身。一見強面だが、口を開けば独特のテンポ感で周囲を脱力させるのは、タレントのひょうろくさん(38)。今やバラエティーにドラマに引っ張りだこの売れっ子だが、会社員時代とお笑い芸人時代に2度の“戦力外通告”を受けた過去を持つ。2025年の「新語・流行語大賞」にもその名がノミネートされた男が持つ「コンプレックス」との向き合い方を聞いた。(全2回の1回目/後編へ続く)
* * *
――ひょうろくさんの子ども時代についてお聞きしてもいいですか。
ほんと、普通の子どもでした。特に何か、こうしてお話しするようなことはなかった気がするんですけどねー。
――思い出せる限りで、一番古い記憶は何歳ぐらいですか。
幼稚園生とかな気がしますねー。うんこ漏らしてるとか、そういうのだと思います。
――子どもらしい思い出ですね。他に印象的だったことはありますか。
えー、なんだろうなあ。それも幼稚園生のころの話なんですけど、足を骨折したんですよね。2段ベッドみたいなものから落っこちて、折れたなぁーって。
――お兄さん、お姉さん、そしてひょうろくさんと3人きょうだいで育ちました。きょうだいのなかでは、どんなポジションでしたか。
“三男”というか、末っ子というか。そういう感じでした。
――著名人の方に「コンプレックス」をテーマにお話しいただく企画なのですが、幼少期からこれまでを振り返って、コンプレックスはありましたか。
うーん、大人になる前くらいで言えば、顔も変だし、頭も悪かったですね。同級生と比べて、テストの点も悪かったし。あとどんなことがあるのかなあ。
学生時代はバレーボール部でしたが、運動が好きだったわけでもないんです。走ったりするのも苦手だったし、それよりは手を使う作業のほうが好きでした。得意とかはないけど、手先で何かすることが好きだったんですよねー。
練習はあまり好きじゃなかったです。でもほとんど毎日練習があった気がします。

■上司から「ちょっともう難しいんじゃないか」
――部活のメンバーやクラスメートとの関係性はいかがでしたか。子どものころは、たとえば野球部の男の子が人気とか、そういった序列のようなものがつくられがちだと思います。
あんまり考えたことはなかったです。自分がわかってなかっただけかもしれません。ただ僕はクラスを盛り上げるような人たちの輪に入れてはいなかったと思います。
――仲が良い友達はどんなタイプでしたか。
今、気が合う友達の特徴を考えてみたけど特に思い浮かばなかったです。「普通にいい友達」です。
そう思うと難しいですよね。高専生のころは、クラス自体が比較的仲が良かった記憶があります。そのなかで、僕は部活動の練習もあったので、そこで過ごすことが多かったかもしれません。でも、「このグループにずっといました」という感じではないです。それに、あんまりカーストみたいなものもなかった気がします。

――高専を卒業後は、会社員として就職されたんですよね。
建設業です。特に何も考えていなかったというか、「卒業したら就職」っていう空気があったから、そうしただけなんです。高専では土木工学科に入っていたので、いろんな会社から募集がきていて、そこから選んでって感じでした。
――会社員生活はいかがでしたか。
それもなんか、「普通」というか……。同僚や上司とめちゃくちゃ仲が良いわけでもなければ、誰ともしゃべれないわけでもないというか。構造設計という部署に2年いて、その後は営業に異動しました。
構造設計の部署は自分でもついていけてない自覚はあったのですが、上司のほうから「ちょっともう難しいんじゃないか」と言われて。
――難しい。
何をしているのかわからなかったんです。建物って、たとえば地震が起きたり雪が降ったりしたときに、壊れないように柱をどう立てるかとか、細かく計算していくんです。僕も簡単なものはできるんですけど、ちょっと難しくなるともう全然わからなくて。他にも工事現場の部署とか、いろいろあったんですけど、営業の部長さんが「営業興味あるか?」とお声かけて下さり、結果的に異動することになりました。
実際のところはわからないですけどね。上司同士の話で、「こいつあげる」と言っただけかもしれないですが。

■友人から「遊びでお笑いやってみない?」
――営業の仕事はいかがでしたか。「こっちのほうが向いているな」と感じたりはしたのでしょうか。
どっちも向いてなかったと思います。ただ、営業のほうがルールが少なかったんです。設計は数字なので、明確な答えがあって、そこが大変でした。でも営業は基本的なことを守っていれば、それ以外は自由というか。お仕事をいただければ、それまでの過程は自分がやりやすい方法を選べるところが合ってた気がします。「こうでなければだめ」ではなく、人それぞれにやり方があるというか。
営業の部署には2年いて、その後退職したので、会社員だったのは4年間です。仕事を辞めたきっかけは、友達から「遊びでお笑いやってみない?」と誘われたのが始まりです。
――もともと芸人や芸能界というものに憧れがあったんですか。
なかったですね。芸能界に限らず、ずっと夢もなかったんです。
両親には会社を辞めた後に報告したんですけども、絶望というか、「あー……」って感じでしたね。兄と姉は、「好きなことをやったらいいんじゃない?」という反応でした。
――24、25歳ごろから芸人になり、しばらく「浅井企画」で活動しました。この期間はひょうろくさんにとって、どんな時間でしたか。
どんな、どんな時間っていうと……。
――新しいことをはじめたワクワク感とか、もしくは先が見えない不安感とか。そういうものがあったのかな、と。
いやー。ほとんど仕事もなかったですし。楽しかったは楽しかったですけどね。
芸人が活躍している場所はテレビしかないと思っていたので、お笑いライブに行って初めて、他にもいろんな活躍の場所があるんだということを知りました。テレビに出ていない人たちも、こんなに面白いんだなーって。
――それまではテレビに出ている人だけが芸人のすべてだったんですね。
そうです。それ以外の人たちは面白くないんだろうなって、勝手に思い込んでいたんですけど。こんなに面白い人たちがめちゃくちゃいることに、「えぇっ」って思いました。

■数年前から「いつ解散と言われるだろう」
――その面白い世界で芸人として活動したものの、相方が芸人をやめると決断したことで、2020年にコンビは解散しました。切り出されたときはどう思ったんですか。
そうだよねーって。相方は僕の10倍くらいずっと頑張ってくれていたというか、二人のことをほぼ全部やってくれていたんです。相方は普通に社会人として仕事もできる人だし、結婚して、お子さんが生まれたタイミングでもありました。その数年前から「いつ解散と言われるだろう」と思いながら過ごしていたので、びっくりというよりは、逆にここまでありがとうという感じでした。
――最後の数年はいつ解散を切り出されるか探りながらだったとのことですが、その間に自分の進む道を考えたりはしましたか。
相方が一緒にやってくれる限りはずっとやろうということしか考えてなかったんです。ここで別れを告げられたら終わりだよなーっていうのはずっと考えていましたね。
――そのタイミングで自分も芸人をやめようと思ったりはしましたか。
というよりは、「そうなったら、人生めちゃくちゃヤバいなー」って感じでした。
――地元の鹿児島に戻る選択肢もあったのでしょうか。
いや、それよりもっと手前っていうか、なんかもう、「わーどうしよー」って。
――ひょうろくさんがブレークするきっかけになったのが、さらば青春の光のユーチューブで配信された「30分以内に事務所に来た芸人にギャラ1万円をプレゼント」する企画でした。制限時間を過ぎていたのにインターホンを鳴らして、当然1万円はもらえず、スタッフの方にも少し叱られていましたね。どうして、さらば青春の光のユーチューブだったんですか。
テレビをつけたときにさらばさんが出ていると、チャンネルを変える手を止めちゃうんです。そのさらばさんが企画をやっていると知って、どうせ解散して自分の存在自体がなくなってしまうなら、なんかもう、行っちゃえーって思って。「お笑いを教えてくれませんかー」っていう感じでした。
――考えるより行動するタイプなんですね。その後コンビを解散して一人になりましたが、どんな変化がありましたか。
特に変化はなくて、もうずっとヤバいって思いながら生きていたというか。ほとんど何もしていないんです。

■マネジャーから「芸人活動はもう諦めて…」
――そのヤバい状態から、大ブレークを果たして、ついには2025年の新語・流行語大賞にも「ひょうろく」がノミネートされました。ご自身で今の状況をどう見ていますか。
どうっていうのは、うーんと……。本当に何も考えてないんです。どうやって生きていこうかなと思いながら、この年までただ生きてきただけなんです。さらばさんや、お二人の事務所「ザ・森東」の周りの方々とか、「水曜日のダウンタウン」はじめ僕を呼んでくださった番組の方々とか……。そういう方の力で急にお仕事ができるようになったわけだから。あんまり実感が湧いていないんです。
それこそ賞レースで結果を残して、何かをつかんだわけでもないですし、何かありがたいなあって。
――賞レースにはやはり憧れたりするのでしょうか。
今はもう諦めてます。コンビとしてやっていたときは、憧れというか、出て売れたいなーっていうのはありましたけど。
――それこそM-1グランプリでの優勝を思い描いたり。
優勝はさすがに無理だろうなって思ってましたよ。本当に、実力の差みたいなものがすごいんです。そう思うと悲しいですけど、やっぱり全然違うんですよ。今のマネジャーさんからも、「芸人としての活動はもう諦めて違う道を探そう」と言われて踏ん切りがつきました。
――構造設計のお仕事に続いて、2度目の“戦力外通告”を受けたんですね……。そんなひょうろくさんが今こうして注目されて、「売れた」わけですが、芸人としてどんなことを目指していたのでしょうか。たとえば視聴者に楽しんでほしいとか、お金を稼ぎたいとか……。
最初はその両方でした。結局、お金を稼がないといけないんです。一緒に芸人を始めた友達がやめた理由は、やっぱり稼いで家族を食べさせなければいけないからです。お笑いがやりたくないからやめたわけではなく、現実というか。だからお金を稼ぐことができないとダメだなと思っています。

■「さらば青春の光」からアドバイスは…
――その思いが結実して、今は俳優としての仕事も増えています。大河ドラマにも出演しました。この世界でやっていけそうだという感覚はありますか。
まったくないです。いつも、明日には仕事がなくなるという覚悟をしています。こんなふうに取材の仕事があることも奇跡というか。だから、10年20年とこの仕事をしている人たちは、本当にすごいなーって思うんです。
いろんなことを自分で考えられるようにならないといけないんですけど、まだ変な感じなんです。10年後にこの仕事ができていることを想像できないし、来年は仕事がないんじゃないかなーとか考えたりもします。
――ブレークの立役者でもあるさらば青春の光のお二人から、アドバイスをもらったりはしますか。
いや、僕もそれで悩んでいるとかでもないし、相談したこともないというか。一個一個のお仕事を頑張って、一生懸命やることだけ考えています。失敗して、仕事がなくなったとして、「もっと頑張っとけば良かったな」なんて思わないように。この仕事をしてからは特にそう思うようになりました。
解散して、本当に何もなくなって、その2、3カ月後にさらばさんがユーチューブに呼んでくださって。「これは最後のお仕事だろうな」って思っていたら、また声をかけてくださって。毎回「これがラストかもしれない」「さらばさんと会うのも最後かもしれない」と思いながら、その延長線上で今に至る感じです。
――さらばのお二人への思いも、そのくらいシビアなんですね。
さらばさんは、もしこの先お仕事で関わることがなかったとしても、「ご飯行かせてください」とか言ったら連れて行ってくださるかもしれないです。でも、お仕事に関してはやっぱり別だと思ってやるようにしています。
――厳しい世界ですね。個性も人気もある人がたくさんいるなかで、どうして今「ひょうろく」さんが求められていると思いますか。
本当にたまたまというか、ラッキーな感じですよね。タイミングとかがたまたま合っただけだと思うんです。だから売れている理由もわからなくて。

■「ちょっとずうずうしい」から「行っちゃえ」
――ここぞというときに実力を発揮したり、突破する力みたいなのがあったり。
いやー、そんな感じじゃないです。理想としてはそう思われたいところもあるんですけど、大事なところで中途半端に終わったり。そんな人間ではあるので、不思議不思議って感じで。
――失敗して落ち込んだりもするのでしょうか。
すぐに落ち込みますよ。
――さらばさんの1万円チャレンジ企画では、間に合わないことがわかっていながらもアタックされていました。折れないというか、そんな強さがあるのかなと思っていたのですが。
ちょっとずうずうしいところがあるんだと思います。行っちゃえ、みたいな。あのときも何もできなかったですし。
――その動画が話題になって、今につながりましたね。
そうですね。そこからお付き合いさせていただいているというか、仲良くしていただいているので。
(構成/AERA編集部・福井しほ)

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