貴重な写真が明かすマリリン・モンローの知られざる一面
- 1927: 最初のポートレート
- 1929: ビーチ・ベイビー
- 1931: トレードマークの笑顔が誕生
- 1945: モデルとしてのキャリア
- 1946: 輝く瞳のブルネット
- 1947: 映画キャリアのスタート
- 1947: 演技指導のコーチとリハーサル
- 1948: ルックスの形成
- 1949: 甘さがしたたる
- 1950:オーディションヘ行く
- 1950: 注目を集める
- 1953: 演技コーチにアドバイスをもらう
- 1953: あらゆるファン
- 1953: ボブ・ホープの家でパーティー
- 1954: 二回目の結婚
- 1954: 二回目の離婚
- 1955: ニューヨークへ引っ越し
- 1955: フィッティング
- 1955: 物思いにふける瞬間
- 1956:いつも通り賞賛を受ける
- 1956: 三回目の結婚
- 1956: 報道陣におびえて
- 1959: ラブコメへ復帰
- 1960: 授賞式のハイライト
- 1960: 『荒馬と女』のセットにて

マリリン・モンローといえば、ブロンドのショートカール、真っ赤な唇、まばゆいばかりの笑顔、彼女の象徴的な衣装の数々、そして吸い込まれそうな瞳を思い浮かべるだろう。しかし、彼女が生まれたノーマ・ジーン・モーテンソンや、悩殺美女となった彼女の背後にある勤勉な女優像を想像できる人は多くない。母親との複雑な関係から、軍需工場での仕事、モデルとしてのスタート、ハリウッドでの爆発的な人気、何度かの有名な結婚、優しくも不安定な側面まで、このギャラリーでは、伝説のスターの今まで見たことのないような一面を見ることができる。
1926: 母と娘

生後2週間で(複数あるうちの)最初の里親に引き取られた娘ノーマを抱くグラディス・ベイカー。ベイカーは妄想型統合失調症と闘い、入退院を繰り返していた。
1927: 最初のポートレート

生後6ヶ月という若さで、ノーマは初めて正式なポートレートを撮影した。
1928: 自分の足で

こちらは、彼女が2歳でスタジオに戻ってきたときの様子。この時、最初の里親と一緒に暮らしていた。
1929: ビーチ・ベイビー

母グラディスは初期の数年間、定期的に彼女を訪ねていた。
1931: トレードマークの笑顔が誕生

彼女は5歳で、すでにその豊かな魅力を発揮している。
1933:犬好き

ノーマは生涯を通じてよく犬を飼っており、彼女の犬への愛情は早い時期から明らかだった。
1940: 10代の頃

このポートレートを見れば、彼女に「微妙な」ティーンエイジャー時代がなかったことは明らかだ。里親の元で過ごした子供時代を経て、ノーマは15歳で高校を中退した。
1941: 働く少女

ノーマは第二次世界大戦中、軍需工場で働いていたが、やがてそこで見出され、ピンナップモデルとしてのキャリアをスタートさせることになる。
1942: 家族の時間

彼女は時折、家族に会っていた。これはレストランでの写真で、ノーマは右側に挟まれている。
1942: 最初の結婚

ノーマはわずか16歳で商船のジミー・ドハティと結婚した。ドハティは彼女がキャリアを持つことに反対していたため、1946年までしか続かなかった。その戦いに勝ったのが誰なのか、私たちは皆知っている!
1945: モデルとしてのキャリア

こちらの写真は、10代の終わり、ヘア製品の広告モデルをしているところ。
1946: 輝く瞳のブルネット

ロサンゼルスで撮影されたこちらは、ブルネット(栗色)の髪の最後の写真の一つとなった。というのも、ノーマが初めて映画契約を結んだ年だったためだ。
1947: 映画キャリアのスタート

20th Century Foxと新たに契約した彼女は、ノーマという名前を捨て、当時流行していたファーストネームと母親の旧姓であるモンローを使った芸名を採用した。
1947: 演技指導のコーチとリハーサル

彼女のルックスが注目されるきっかけになったのは事実だが、モンローは自分の技術を学ぶために長い時間を費やした。
1948: ルックスの形成

彼女は自分で化粧をする方法を学び、唇に何色かの赤を混ぜ、アイラインを引き、有名なビューティーマークをつけ、やがてスクリーンで独自の人格を作り上げた。
1948: ヨガの実践

実はモンローは早くからヨガを熱心に実践しており、さまざまな写真撮影でポーズをとり、体を鍛えていた。
1949: 甘さがしたたる

彼女が映画で大役を演じるようになった重要な時期に撮影されたこのポートレートには、彼女の愛らしさがすべて表れている。
1949:賞を渡す

アメリカ初の映画ファン雑誌のひとつである『Photoplay』は、『ドリーム・ハウス』コンテストの優勝者であるヴァージニア・マカリスターに新居の鍵をプレゼントするようモンローに依頼した。
1950:オーディションヘ行く

女優としてのキャリアをスタートさせた当初から、モンローは常に真剣に演じたいと願っていた。こちらは、オーディションで書類に記入する様子。
1950: 注目を集める

1950年、ジョン・ヒューストン監督の犯罪ドラマ『アスファルト・ジャングル』やベット・デイヴィスと共演した『イヴの総て』に出演し、人々の注目を集めるようになった。
1953: 演技コーチにアドバイスをもらう

彼女は仕事に打ち込み、『ナイアガラ』(1953年)、『紳士は金髪がお好き』(1953年)、『百万長者と結婚する方法』(1953年)、『ショウほど素敵な商売はない』(1954年)などに出演し、50年代に活躍した。
1953: 大ヒット

映画『百万長者と結婚する方法』のプレミアで、ハンフリー・ボガートとローレン・バコールとともに彼女の象徴的な毛皮のショールをまとった写真。
1953: 痕跡を残す

モンローと『紳士は金髪がお好き』の共演者ジェーン・ラッセルは、ロサンゼルスのグラウマンズ・チャイニーズ・シアターのセメントに手形と足形を残した。
1953: あらゆるファン

ラッキーな少年のためにサインをするモンロー。
1953: ボブ・ホープの家でパーティー

喜劇俳優ボブ・ホープ(左)のホリデー・パーティーで、モンローは野球界のスター、ジョー・ディマジオを見つめている。
1954: 二回目の結婚

モンローは1954年1月、ジョー・ディマジオと結婚した。写真は、式が行われた裁判所を後にする二人。
1954: 軍隊を訪問

モンローは朝鮮戦争中、4日間にわたって韓国で何千人もの軍隊を前に、簡易的に組み立てたられた舞台でパフォーマンスを披露した。後に彼女は、それが自分がスターになったように感じた最初の機会のひとつだったと語っている。
1954: 軍隊を訪問

実は、モンローはディマジオとの日本での新婚旅行を早々に切り上げて韓国に行った。野球のスターは、日本で彼女を見に来たファンが自分よりも多かったことに腹を立て、彼女と一緒に韓国に行くことを拒否したと伝えられている。
1954: 二回目の離婚

その年の暮れ、モンローは弁護士とともに自宅の前に現れ、弁護士からジョー・ディマジオとの結婚が解消されたことを告げられた。
1955: ニューヨークへ引っ越し

間抜けなブロンドというイメージに嫌気がさしたモンローは、アクターズ・スタジオで学ぶためにニューヨークに渡った。写真は、彼女がマイケル・チェーホフの『俳優へ: 演技の技法について』を読む様子。
1955: フィッティング

マディソン・スクエア・ガーデンで開催されるサーカスのチャリティ・イベントに備えて、モンローはピンクの象の上で着る衣装のフィッティングをしている。
1955: オフタイム

裸足で窓際に立つ、バギーをはくモンローの姿は珍しい。
1955: 物思いにふける瞬間

こちらの珍しいショットでは、モンローはカメラに背を向け、自分自身を見つめる時間を過ごしている。
1956:いつも通り賞賛を受ける

ワーナー・ブラザーズのジャック・ワーナー社長から花束を受け取る女優。この時、彼は、彼女が新しい映画で主演を演じることを発表した。
1956: 30歳になる

車の後部座席で、モンローはケーキのろうそくを一本吹き消す。普通の人よりもずっと静かにこの節目の誕生日を迎えている。
1956: 新しい恋

この頃、モンローはピューリッツァー賞を受賞した戯曲『セールスマンの死』で有名な劇作家、アーサー・ミラーに夢中になっていた。
1956: 三回目の結婚

3回目の結婚式の日も、最初の2回と同じように恋をしているように見える。
1956: 両親に会う

国際的な美女を両親に紹介しなければならないというのは、興味深いことだろう。
1956: 報道陣におびえて

モンローは、報道陣を乗せた車が、自分の車を追いかけてきて事故に遭うのを目撃し、動揺して走り去ったと伝えられている。
1956:ロンドンへ

新婚のふたりは、モンローが『王子と踊子』の撮影を開始する予定だったロンドンへ一緒に向かった。
1959: ラブコメへ復帰

モンローが最も成功したジャンルは、大ヒットした『お熱いのがお好き』のようなラブコメであることは間違いない。ビリー・ワイルダー監督と一緒に写っているのが彼女で、この役で後にゴールデングローブ賞コメディ部門主演女優賞を受賞する。
1960: 授賞式のハイライト

こちらの写真では巨大なマッチで巨大な爆竹に火をつけているモンロー。ニューヨークのタイムライフビルのテープカットセレモニーに主賓として出席したときの様子だ。
1960: 『荒馬と女』のセットにて

写真は、脚本家アーサー・ミラー、俳優イーライ・ウォラック、ジョン・ヒューストン監督、俳優モンゴメリー・クリフト、俳優クラーク・ゲーブル、そしてもちろんモンローを含むジョン・ヒューストン監督の『The Misfits(荒馬と女)』のキャストとスタッフ。これが彼女の最後の完成作となった。この時がミラーとの結婚生活の終わりを迎えようとしていた。二人の離婚は1961年初めに成立した。
1961: 病院を出る

モンローはうつ病と処方薬中毒に苦しみ、1961年2月、"疲労"のためニューヨークの精神病院に強制入院させられた。元夫ディマジオが彼女を退院させる手助けをした。
伝説を偲んで

1962年8月4日、36歳になったばかりのモンローがロサンゼルスの自宅で亡くなった。部屋からは処方薬の空き瓶が発見され、自殺を図った可能性が高いと判断された。
様々な困難にも負けず、マリリン・モンローは軽やかに世界を駆け抜け、世界に消えない足跡を残した。美、スタイル、セクシーなアイコンとして国際的に愛され続ける彼女は、今後も忘れ去られることはないだろう。