軍神として特攻で散った兄…遺された妹がこぼした「どう表現したらいいか分からん」本音

写真はイメージです Photo:PIXTA
「お国のために…」と散った特攻隊員。しかし、故郷の村人から「誇らしい」「立派だ」と死後に讃えられた若者たちが、どれほどの葛藤を抱えて飛び立っていったのか計り知れない。同じ過ちを繰り返さないためにも、我々は遺族の思いを語り継いでいかなくてはならない。筆者は、残された家族に話を聞いていった。※本稿は、大島隆之『“一億特攻”への道 特攻隊員4000人 生と死の記録』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。
海軍に負けるまいと
陸軍も特攻隊を編成
今回の番組を作るにあたり(編集部注/2024年8月17日放送のNHKスペシャル『“一億特攻”への道~隊員4000人 生と死の記録~』)、可能な限り多くの遺族を回ろうと考えていたが、いくつか的をしぼったうちのひとつが、陸軍の「靖国隊」だった。
特攻が始まった直後の昭和19年11月初旬に朝鮮半島の群山を拠点とする航空隊で編成され、フィリピンに送り込まれ、11月24日の初出撃以降、10名が戦死している。

同書より転載

同書より転載
靖国隊は、前月に特攻に踏み切った海軍が大きな戦果を挙げ、新聞やラジオ、ニュース映画がこぞって取り上げて国民が熱狂する様子を目の当たりにした陸軍が、「海軍の後塵を拝してはならない」と急きょ編成した8つの隊のひとつで、群山から東京立川の基地に移動して編成式を行い、鹿児島の知覧を経て、台湾、フィリピンへと進出していくのだが、立川などで撮影された映像が3分30秒ほどに編集され、「第235号日本ニュース」(編集部注/戦前より映画館で上映されていた短編のニュース映像)の項目のひとつ「比島戦線 陸軍特別攻撃隊『靖国』飛行隊」として全国の映画館で封切られている。
公開は、靖国隊の初出撃の直後、11月30日のことだった。
隊長の出丸(でまる)一男中尉の故郷・熊本市では、同じ時期に3名の陸軍士官学校出身者が特攻隊員として戦死していて、昭和20年1月8日に市内の青少年団員およそ800人が出席し、各少年団員が彼らを讃える自作の「綴り」の朗読を行って遺族に手渡したことが知られている。
おそらく出丸家にもそうした綴りが贈られたのだろうが、出丸中尉の出身校でもある旧制濟々黌中学(現・県立濟々黌高校)のすぐそばにあったという自宅は、戦時中の空襲で焼失しており、そのためか残されていない。
出丸中尉は2男3女の一番上で、甥(妹の息子)にあたる徹さんによれば、祖父母は出丸中尉のことについて、生前、多くを語ることはなかったという。
戦死した特攻隊員の
遺族に贈られた慰霊の品
遺族の元に届けられた慰霊の品は、さまざまだった。
谷川昌弘少尉(大阪出身)の遺族には、地元の洋画家・小磯良平の手による飛行服姿の肖像画が贈られており、村岡義人軍曹(山口出身)の自宅にも軍服姿の肖像画が飾られていた。
誰がこれらの画家に依頼したのか、制作の経緯を表す証拠はまだ見つかっていないが、隊員の慰霊顕彰は軍と行政が中心になって行っており、そのいずれかだろうと考えられる。
谷川少尉は、男ばかり5人兄弟の三男で、実家は寺だった。寺を継いだ長男の娘である青木明子さんが、谷川さんの遺品を受け継いでいた。
《新聞で特攻のニュースを見て、親兄弟、親戚じゅうびっくりだったらしいです。それからあれよあれよという間に大変やったみたいですね。大阪で初めてのほう(注)ということで、新聞にも載って、家の前には大きな標柱まで立って。
穏やかで、剣道が得意で、いいふうに言いましたら文武両道というか。優しい方だったそうです。やっぱり、家族としては残念やったんやと思います。
でも、なんでそんなことをしたんやとか、父(昌弘さんの長兄)は愚痴ることはなかったですね。お国のために命を捧げたんや、これはもう昌弘の運命やという感じで思っていたんじゃないでしょうか。昌弘さんが特攻隊で戦死したことを肯定もしませんし、否定もしませんし、受け入れたという感じでした。
戦後もその肖像画を、常に自分のそばに置いて大事にしていましたね。勉強机の横に置いたりして。やっぱり、軍服姿の写真だと、ちょっとつらいですやん。でも油絵のタッチだと、スッと受け入れやすかったみたいで、いつも近くに置いて大事にしていましたね。
(注)谷川さんは、大阪府全体で3人目の特攻隊員。11月7日、19日にそれぞれ1名戦死。》
谷川家の前に立てられた標柱と言うのは、「軍神の家」などと書かれた木製の柱だと思われる。
同様の例は特攻隊員の遺族宅でしばしば耳にするが、香川県長炭村(現・まんのう町)出身の寺島忠正伍長の自宅前には、石作りの標柱が立てられ、今もそのまま残っている。
そこには「軍神 寺島忠正勇士の生家 陸軍特別攻撃隊靖国隊 昭和十九年十一月廿九日戦死」とあり、「長炭村銃後奉公会」が立てた、と刻まれている。
戦死した兄を弔いに
町中の人が家に押し寄せた
香川県から瀬戸内海を渡った対岸、岡山県琴浦町(現・倉敷市)出身の石井一十四(ひとし)伍長の故郷でも、遺族が熱狂のなかに放り込まれていた。
琴浦は、北にある「由加山(ゆがさん)」から流れる川で水車を回して糸を撚る「撚糸業」が古来盛んで、染織物の町として栄えてきた。石井家も代々、撚り上げた糸を染物屋に納めるのを生業とし、機屋とも縁戚関係を結ぶなど、町の一員として篤実に生きてきた。
一十四さんは、男3人女2人の5人兄妹の一番上。8歳離れた昭和4(1929)年生まれの妹に、話を聞くことができた。
石井津保美(つぼみ)さん。94歳とは思えないしっかりとした口調で、兄にまつわる思い出を語ってくれた。
運動神経抜群、頭もよく、背も高く、朗らか。町の縫製の女工さんたちにたいそうもてたそうで、出征の日、最寄りの駅のホームが見送りの女性たちで埋まるほどだったという。
そんな兄の死を、津保美さんは2軒隣の家のラジオで知った。女学校3年、15歳の時のこと。挺身隊として織物工場に動員され、地味なカーキ色の兵隊の水筒紐を織る作業に明け暮れていたさなかだった。
すぐに町中の人が弔問客となって石井家に押しかけ、それがひと月以上にわたって続くことになる。
《今で言うタレントが、有名なタレントが来たら大勢集まる、あれと一緒ですよ。軍神でね。琴浦町には織物の小さい会社がたくさんあるわね。その人らがこぞって来てくださるんだから……。
もう落ち込む暇なんかありませんよ。まああれがのぼせるって言うんでしょうな。頭にパーッと。毎日毎日ね。こう頭が熱くなりますよ。血がのぼるって言うんですかね。心臓より上へ血液が回ってくるんじゃろうな。
何とも言えん感情でしたね。誇らしいとかいうのではない。どう表現したらいいか分からんぐらいの感情でした。》
死が迫る中みるみる
やつれていった兄
津保美さんの家には、一十四さんの飛行服姿の写真、そして戦死後にそれを模して描かれた巨大な肖像画が飾られていた。写真の一十四さんは、がっしりした顔立ちにさわやかな笑顔を浮かべている。
それを見た時、ちょっとした違和感を覚えた。日本ニュースの映像に映る靖国隊の隊員をひとりひとり特定していくなかで、この人が一十四さんではと目星をつけていた隊員がいたのだが、その映像とはあまりに違う表情だったからだ。
予断を与えないよう、「この映像の中に、お兄さんがいるかどうか、教えていただけませんか?」と津保美さんにお願いしてニュース映像を最初から見てもらう。
真剣な表情で画面を凝視していた彼女が、「あ、今最後に出た、こっちの端にいました」と大きな声を上げる。指さした先に映っていたのは、やはりその青年。隊員たちの中にあってひときわ、うつろな表情だった。
《間違いない、これが兄です。やつれました。やつれていますよ。特攻隊に行くようになったら。グッと痩せてきましたわ。自分が何日に発たんといけんと言われると、やっぱり人間だからな。日にちが限られて、時間も限られて飛び立つというのはね。
まあこの表情はね、兄としては深刻な顔に見えますな。冗談を言ったり、いたずらしたり朗らかな兄なので、そんなのとは違いますな。》
「自分が死ねば我が家は絶える」
弟の位牌の前で兄は泣き崩れた
そのような表情をしている理由として思い当たることがある、と津保美さんは、戦死の半年ほど前の昭和19年6月に石井家を襲った不幸について教えてくれた。
一十四さんの下にふたりいた弟のうち、二男は早くに亡くなっていたのだが、三男にあたる末の弟までが家の近くの溜め池に落ちて水死してしまったのだという。
その少し後、一十四さんが自宅に帰ってきた。弟の死は知らせていなかったというのでたまたま休暇で立ち寄ったのだろう、家に上がり、位牌になってしまった弟を見た時の兄の姿を、津保美さんは目撃していた。
《その位牌を見てね、弟が亡くなったことを初めて分かったんですよ。そうしたら、そこの仏壇の前に座って、泣いた泣いた。兄がね。立てなかったですよ、位牌の前でね。
飛行兵になって自分が命を落とすにしても、弟が跡を継いでくれる、弟がおろうという気持ちがあったのが、先に死んだでしょ。泣き崩れて。肩を落としてね。その後ろ姿が今でも焼き付いております。
兄は、そのことを気にしていたんじゃないかと思います。心残りがあったと思いますよ。やっぱり長男だから、家のことを考えたらな。何とも言えん気持ちだったんじゃないかと思いますよ。これも運命よなあ……。》

『“一億特攻”への道 特攻隊員4000人 生と死の記録』 (大島隆之、文藝春秋)
隊員や家族が「国のため」と押し殺した心情を、国民が「国のため」と必死で見て見ぬふりをし、讃え、美化していく。その繰り返しが、「一億特攻」を形作っていくことになる。
私たちがするべきは、予断なく歴史に向き合い、膨大な事実の積み重ねのなかから湧き上がってくる教訓に、真摯に耳を傾け続けることだと思う。
それこそが、命を落とした4000人近い隊員たち、そして、戦争の犠牲となった国内外の無数の人びとの死を無駄にしないことにつながっていくのだと、私は思う。