宝刀「カミソリシュート」を教えて成功したのは涌井秀章、ダメだと直感したのは名門球団のあのエース…平松政次さん、プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(54)

1969年8月の阪神戦で完封した平松政次さん。シュートを投げ始めたシーズンだった=川崎
プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらった連続インタビューの蔵出し企画「名球会よもやま話」。第54回は平松政次さんが2度目のご登場です。中学時代に自身の素質を見いだしてもらった人物の存在や、伝家の宝刀「カミソリシュート」を教えた投手たちの後日談を披露してくれました。(共同通信=栗林英一郎)

1965年の選抜高校野球大会で力投する平松政次さん=甲子園
▽自分は投手というプライドがあるのに、命じられたポジションは…
子どものころはプロ野球の選手になりたいという一心で、夏休みも朝6時ぐらいから起きて野球をやっていた。昼ご飯も食べずに、よくしかられながら。(岡山県高梁市の実家から)小学校のグラウンドが近くでしたから。歩いて5分ぐらいで行けるんじゃないですかね。野球をやらない友達っていなかったです。
(戦後の第1次ベビーブームで)われわれの同級生は一番多かった。その中に飛び抜けた男が2人いてね。1人は「健康優良児」ってあったでしょう。その小学校でナンバーワン。岡山県でもナンバーワンで、健康優良児の全国大会に出た男がいたんです。体がめちゃくちゃでかくて、勉強もできました。もう1人は何をやらせても、走っても投げても優秀なのがいたんですよ。運動会で対抗リレーがあったらアンカー。私も別の組でアンカーというふうに、ずっと競ってたんです。とにかく私のライバル。この3人が中学でも互いにしのぎを削った。
やっぱり野球はピッチャーでしょ。真ん中(マウンド)に立って投げて牛耳るっていうのが一番の喜びでね。プロ野球のどの野手の人に聞いても、子どものころはピッチャーをやってる。ピッチャーからどういうふうに別れていったか、人それぞれでしょうけども。他にライバルが現れて、それに勝てなかったんで野手になったとか。当時は「団塊の世代」で子どもがうじゃうじゃいましたから。野球部にみんな集中して、だんだん自分の実力を知りながら脱落していくんだけど、でも初めはみんなピッチャーなんです。
ただ、私は中学1年で最初はショートをやらされた。だって、でかい健康優良児はいるし、センス抜群な男がいるし。一つ上の先輩は県大会で準優勝していて、ピッチャーのポジションは埋まってる。心の中では俺はピッチャーだよと思ってたんだけど、しょうがなかった。そしたら恩人に出会うわけですよ。

1975年5月、巨人打線を抑えてコーチと握手する平松政次さん=川崎
▽捕手の配球は要らない。打たれても抑えても自分のせい
妹尾求さんというコーチ。私の中学の先輩で、南海(現ソフトバンク)にテストで受かったんだけど、結核を患って故郷へ帰ってたんです。中学の野球部監督は社会科の先生で全くの素人。ノックを空振りするような監督だから、指導者を探してたんですね。実はこういう人が療養で帰ってるよと。じゃあ教えてもらおうよ先輩なんだから、って来てくれたの。これがユニホーム姿を見たらね、やっぱりプロ。着こなしなんか格好いいのよ。スタイルなんかもシュッとしてるし。その妹尾さんがグラウンドで見てて、監督に「あのショートの子、ピッチャーをやらせたら」って。指名された理由? 分からないのよ。それが分からない。おそらく球が速かったんでしょうね。でも、私は自分の球が速いと思ったことは一度もない。普通なんだろうなとは思ってたんだけど、何かあったんでしょう。それから(プロで)ユニホームを脱ぐまで、ずっとピッチャーをやらせてもらったんだ。
その後、妹尾さんが岡山東商高のコーチになり、私はスカウトされた形で越境入学しました。先ほど言った健康優良児は別にして、もう1人のライバルは私と岡山東商に一緒に入るんです。何をやらせても超一流のやつだけど、キャッチャーをやらされた。それでどうもへそを曲げたのか、1カ月もたたないうちに野球部も学校も辞めるんです。びっくりしましたけどね。岡山東商はすごいスパルタだったんですよ。とても我慢できなかったんじゃないかな。

1979年4月の広島戦で完封勝利を挙げ、声援に応える平松政次さん。このシーズンは最優秀防御率に輝いた=横浜
プロでは昭和44年(1969年)からシュートを投げ始めて14勝するわけですね。今でいうセーブだとかないんですよ、そんなもの。その時も50何試合か投げた(57試合で14勝12敗)。先発、リリーフっていうんじゃなくて、いつでも投げられる状態のリリーフっていうのが結構ありましたんで。配球といっても、武器はシュートだと。シュート(のサイン)を出しとけば私が嫌うことはないんだよね。他の球種、例えばカーブを出された時は嫌ってシュートっていうのはありますけども、シュートを嫌って他の球っていうのはない。キャッチャーが配球をするなんてのはないんです。何でここでシュートのサインを出すんだっていうこともないですし。だからキャッチャーは楽ですよ。私の場合、困った時はシュートでいいんだから。

1997年10月、沢村賞発表の記者会見に臨む選考委員の平松政次さん(左端)=都内のホテル
そういう武器を持ってる人は自分で配球ができる。キャッチャーが良いリードをしてとか、要らないんですよ。昔ね、金田正一さんが「キャッチャーはボールを受けてくれりゃいいんだよ」という話を、よくされてました。われわれの年代は、キャッチャーが配球をしなきゃ投げられないっていう思いはないです。気持ちよくボールを受けてくれれば気持ちよく投げられるというのがあるから。金田さんなんか真っすぐとカーブの2種類。お山の大将でやってる人は、もう打たれたら自分のせい。好投して勝ったら自分の力だと。
(内角のボールゾーンからストライクに変化する)フロントドアとか、そんなものはなかった。左打者にシュートは投げづらいです。やっぱり右バッターの胸元、懐に食い込ませて投げるのがシュートであって、外角から曲げるシュート(いわゆるバックドア)っていうのもないです。

インタビューに応じる平松政次さん=2024年6月、横浜市で撮影
▽「伝家の宝刀」を授けて習得できなかった投手は
シュートを伝授して、ものになった投手は涌井秀章だろうね。あちこちのグラウンドに解説者で取材に行きますよね。まだ涌井が西武の時に(高知県の)春野キャンプでインタビュー企画があったんです。涌井は自分からこうしたい、ああしたいっていうタイプじゃないんで、インタビューが終わって、周りが「平松さんのシュートを覚えたいんだろう。教えてもらえ」って。「涌井、投げたいの?」って。そこでちょっとシュートの話をした。その年、あいつは外国人のすごいバッターと勝負してシュートを投げてるんですよ。テレビで見ててね。ぐっと曲げてバットを折ったりしてるわけ。おお、シュートがものになってるって。その後、インタビューはしてませんけども、相当シュートを投げてましたよ、涌井はね。
失敗談もあるんです。ヤクルトの石川雅規。ラジオのアナウンサーを通して「石川がシュートを投げたいって言うんですけど、教えてくれますか」と。オフの時に、こうだよって教えたんですよ。そしたら2、3年後に「難しくて断念しました」って。こっちが強制的に投げろとは言ってないんだから。フォーム的に(コツが)あるんです。体をやや開いて投げる? そうそう、それは教えるんですよ。変化球といったら球の縫い目に(指先を)かけますが(平松流シュートは)かけない。そんな変化球なんかないですからね。

2018年8月、第100回全国高校野球選手権大会で始球式を務めた平松政次さん=甲子園
阪神に藪恵壹がいたじゃないですか。キャンプの時に藪がシュートを教えてくださいよっていうから、おまえは無理だなと言った。いまだに「何であの時、教えてくれなかったんですか」って言われる。いや、ちょっと無理だったんだ。感覚的にね、藪のフォームって柔軟さがないと思うんですよ。涌井は全体の柔軟さがあるのね。投げる時に球持ちが長くて、しなりみたいなものがないと。ある程度の球速も必要なんです。胸元に投げていくわけですから、危険なボールじゃなきゃバッターとしては怖くないからね。
米田哲也さんもシュートを投げてましたね。あの人、オープン戦で(打席に立った)私にシュートを投げてきた。自打球が左足の甲に当たって3日間ほどホテルで動けなかった。おそらく別所毅彦さんなんかも投げている。ああいう、ちょっとスリークオーター気味の投法はシュートを投げていると思う。
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平松 政次(ひらまつ・まさじ)岡山東商高で1965年の選抜大会優勝。日本石油(現ENEOS)で67年の都市対抗大会制覇に貢献し、ドラフト2位指名を受けて保留していた大洋に入団。シュートを武器に70年から2年連続の最多勝。79年は最優秀防御率に輝く。名球会入り条件の200勝は83年10月に達成し、84年に引退。通算201勝196敗16セーブ。47年9月19日生まれの78歳。岡山県出身。