なぜ『硫黄島からの手紙』は大名作となったのか? 渡辺謙が果たした、主演の枠を超えた「大きな役割」
クレジットなき「プロデューサー」
撮影現場では、ある「挑戦」が静かに、しかし揺るぎない覚悟で進行していた。
中心にいたのは、渡辺謙だ。
彼が演じるのは、硫黄島守備隊の最高指揮官、栗林忠道中将。
だが、現場での彼は、単なる主演俳優の枠を超えていた。
「事実上、謙さんはあの作品の脚本翻訳の監修のような役割も果たしていたんです」
尾崎氏の言葉から、当時の現場を支配していた、日本人俳優たちのあまりに切実な使命感が伝ってくる。
ハリウッドの大作で、一俳優が脚本の言い回しを改善していく。
それは、異例中の異例だった。
全編が日本語で撮影された同作品だが、脚本は英語で書かれた。 和訳されて出演者に配られた初期の台本は、直訳調で不自然だった。意味は通じるが、日本人が抱く心情が上手く伝わらない。 演じる者にとっては、違和感が拭えなかった。
渡辺は、それを許さなかった。
「日本の人たちが心から頷いてくれる作品にしよう」
その一心で、通訳や時代考証のスタッフと膝を突き合わせた。 撮影が始まる前の段階で、すべてのセリフを吟味し、より適したものに置き換えた。俳優たちからのアイデアも相談の上、織り込んでいく。
書き言葉を、生きた「話し言葉」へ。

本作でアカデミー賞脚本賞にノミネートされたアイリス・ヤマシタさん(尾崎さん提供)
ステレオタイプの日本兵ではなく、悩み、苦しみ、それでも家族を想う生身の人間へ。
「現場に謙さんのような方がいなければ、あのクオリティにはならなかった。謙さんは脚本の日本語翻訳および監修者としてのクレジットはありませんでしたが、実質的にはその役割も担っていたんです」
後年、真田広之がエミー賞を席巻した『SHOGUN 将軍』において、プロデューサー兼主演として徹底した時代考証を行い、日本の文化を正しく世界に伝えたことは記憶に新しい。渡辺も同様に日本人の看板を背負い、十数年も前からハリウッドの巨大なシステムの中での闘いに挑んでいたのだ。
それは、戦地で散った2万の将兵への、俳優としての、一人の日本人としての、並々ならぬ責任感の表れともいえる献身だった。
将兵たちを蘇らせた『散るぞ悲しき』
渡辺が台本の訳文を、より胸に響く生きた言葉として練り直す。
その強烈なこだわりの背景には、俳優たちが硫黄島の真実に触れる指針となった一冊のノンフィクションがあった。
作家・梯久美子が著した『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)。
硫黄島守備隊の最高指揮官、栗林忠道中将の評伝を中心とする戦記だ。
大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞したその傑作は、出版から20年以上が過ぎた今なお、硫黄島ノンフィクションの金字塔として燦然と輝き続けている。

梯久美子著『散るぞ悲しき』(新潮社)
実はこの本が出るまで、栗林中将の名は日本人の記憶からほとんど忘れ去られていた。
激戦地の名を知っていても、そこで誰が、いかに戦ったのかを知る者は少なかった。
忘れ去られたに等しいその人物に、梯氏は丹念な取材と手紙の読み解きで再び光を当てた。
一人の軍人の背後にある「人間」を浮き彫りにしたこの一冊の意義は、計り知れないほど大きい。
「僕を含めて、キャストはみんな、最初は硫黄島の戦いの詳細を全く知らなかったんです。主演の謙さんも、この映画の脚本(題材)に出会うまでは知らなかったと仰っていました。日本のほとんどの人々にとって“硫黄島”は、当時まだ耳慣れない名称だったはずです」
尾崎氏は、当時の自身の「無知」を隠すことなく語り続けた。
「僕も梯久美子さんの本で、初めて硫黄島を学んだんです。あれを読んだとき、『こんな悲しい戦いが日本であったのか』と衝撃を受けました。衝撃、という一言では足りないくらいの重みでした」
それは、単なる参考文献ではなかった。
死を覚悟した栗林中将が家族へ宛てた手紙には、軍人ではない、家の隙間風を案じる「父」や、妻を想う「夫」としての生身の心が溢れていた。
同時にそこには、島に集められた兵士たちの過酷な背景も重なっていた。
兵士たちの多くは妻子を故郷に残し、一度は兵役を終えながら再召集された年配の庶民だった。
圧倒的な軍事力を誇る米軍を前に、逃げ場のない絶望的な戦いを強いられながらも、守るべき者のために散っていった彼らの計り知れない悲しみ。
梯氏の筆致は、その声なき慟哭を鮮烈に描き出していた。
「真実」に触れた俳優たちは硫黄島という戦場へ、それぞれの魂を寄せていった。
現場を離れなかった「栗林閣下」
撮影現場は、スタジオのセットだけではなかった。
ロケはカリフォルニア州の郊外にある、銀山の廃鉱跡でも行われた。
荒涼とした、砂漠地帯。

撮影現場の尾崎氏。右側に「地下壕」の入り口が見える(本人提供)
そこは、まさに激戦地硫黄島を思わせる環境だった。
「使われていない銀山があって、そこにまだ洞窟というか、掘ってある穴が残っていたんです。そこでの撮影は、非常に殺伐とした環境でした」
撮影期間中、渡辺は、まさに「栗林中将」そのものだった。
「謙さんは、ご自分の出番がなくても、現場に駆けつけてくださいました。全シーンをモニターの横で見守り続けたんです」
自分が映らないシーンでも、渡辺は現場にいた。
他の俳優たちの演技を見守り、現場の空気を引き締めた。
史実の栗林中将は、硫黄島の全島をくまなく歩き回り、兵士たちに声をかけた。
水不足に苦しむ部下と同じく限られた水を飲み、同じ粗食を食べた。
尾崎氏の言葉を借りれば、現場での渡辺の振る舞いには、かつての指揮官の姿が重なっていた。
「ご本人がそう思われていたかは分かりませんが、指揮官がいつも現場を回ってくれていた。栗林さんがそういう方だったということが『散るぞ悲しき』に書かれている。謙さんはそれを現場で体現されていたんじゃないかと思います。僕らからすると、その姿は本当に栗林閣下のようでした」
ストイックなまでの役への没入か。それとも日本俳優陣を率いる柱としての矜持か。
島中を巡回した栗林中将の足跡をなぞるように現場を歩き、モニター越しに部下たちを凝視し続けるその姿は、言語も文化も異なるハリウッドという「戦場」において、紛れもなく、日本側指揮官そのものであった。
暗闇から突き出された「拳」の力強さ
忘れられない夜がある。
劇中、戦車部隊を指揮する西竹一中佐(伊原剛志)が負傷して自決し、尾崎が演じる大久保中尉が部下を率いて洞窟を出るシーンだ。
尾崎にとってはこれが撮影初日だった。緊張感に満ちた初陣だった。しかも、経験したことのない夜間撮影。 場所はロサンゼルス近郊の岩場。
照明は必要最小限で薄暗い。
隊列で歩き出すので、すぐ目の前は兵士たちの背中。足元も暗くて見えない。
「バミリ(合図で立ち止まる位置の目印)が見えなかったんです」
リハーサルなしのぶっつけ本番。 前進する尾崎のすぐ背後には、二宮和也と加瀬亮が続いていた。
カメラの動きに合わせて、全員がピタリとフレームに収まらなければならない。自分が一歩でも狙った枠からズレれば、後ろにいる彼らの演技も無駄になる。 凄まじいプレッシャーが、尾崎を襲った。
カメラが回る。
どこで止まればいいのか。マークが見えない。
行き過ぎればピンボケになる。手前すぎればカメラが捉えられない。
感覚だけを頼りに演じ、イーストウッド監督の合図に合わせて立ち止まる。ようやくOKが出た。
安堵と不安が入り混じる中、照明の逆光の中から「黒い影」が近づいてきた。 影は尾崎氏の目の前まで来ると、無言のまま、尾崎氏の胸を「ドン」と拳で突いた。そして人差し指をグッと強く尾崎に向けると、影は去っていった。 遠ざかる背中を見て分かった。渡辺謙だった。
「その拳の力強さを、僕は20年経った今も忘れないでいます。言葉ではない、身体で伝えてくれた『承認』でした」
暗闇の中で不安に震える部下を、指揮官は確かに見守っていた。
「謙さんたちがOKと感じてくれたなら、それを信じていいんだ」
その瞬間、尾崎の、大久保中尉としての“最初の任務”が無事に終わった。

(撮影:飯本貴子)
加瀬亮が捧げた「沈黙の祈り」
現場のリアリティを支えたのは、渡辺だけではない。 元憲兵の清水を演じた、加瀬亮。彼が見せた役者魂は、アメリカ人スタッフを震撼させた。
夜は冷え込み、息が白くなる過酷なロケ地。しかも、雨が降っていた。 加瀬の役は、射殺されて遺体となって横たわるシーンだった。
「加瀬さんは、撮影が始まって、おそらく1時間以上、死体として微動だにせず横たわり続けたんです」
カメラが回っていない時なら、動いてもいい。暖を取ってもいい。
だが、加瀬は動かなかった。
冷たい雨に打たれ、泥にまみれながら。微動だにせず。
それは単なるメソッド演技ではない。
硫黄島で無念の死を遂げた兵士たちへの、彼なりの真摯な向き合い方だったかもしれない。
アメリカのスタッフたちが、驚嘆の眼差しで囁き合うのを、尾崎氏は聞いた。
「He doesn't move at all…(おい、彼は全く動かないぞ…)」
無言の規律と、作品にすべてを捧げる献身。日本人俳優たちが示した「本気」は、イーストウッド監督ら米側スタッフの信頼を勝ち取り、強い絆を築き上げた。日米の壁を超えたこの信頼関係こそが、硫黄島の戦いを世界に刻む傑作を生む大きな力となったのだ。