社台ファーム吉田照哉代表、馬主50周年に競走馬と歩んだ半生を語る(前編)「父はおだてて、おだてて人を動かす。だから成功した」

取材に笑顔で応じる吉田照哉氏(撮影・岩崎叶汰)

日本の競走馬生産界を牽引(けんいん)してきた北海道千歳市・社台ファームの吉田照哉代表(78)が今年、国内での馬主生活50周年を迎える。同ファームの礎を築いたノーザンテースト、日本競馬を世界レベルに押し上げたサンデーサイレンスの導入に携わるなど、若い頃から世界の競馬を肌で知る現役のレジェンドだ。半世紀を超えて第一線で活躍する希代のホースマンが、挑戦し続けた半生を振り返る。前編は初めての所有馬や自身の相馬眼、父・吉田善哉氏の思い出などを語った。(取材・構成 鈴木学)

ギャラントダンサー(1977年朝日杯3歳ステークス)

吉田照哉氏の馬主登録日は1976年12月16日、28歳のとき。馬主50周年の感想を尋ねると、「年を取ったな」と笑った。

「28歳から始めて50年…。普通だったら40か50(歳)くらいで馬主になる人が多いので50年続けるのは大変ですよね。始めるのが遅かったら無理。馬の仕事をやっている家だったから馬主になるのは必然でした。自然とそうなって、そんなに力んだわけでもなく、ここまで来ました。その時、その時は一生懸命やっていたんでしょうけどね」

慶大馬術部時代の吉田照哉代表(本人提供)

馬主登録を取得したのは、父・吉田善哉氏が米国で購入したフォンテンブローファームの牧場長を辞めて帰国した直後だった。

「米国では馬主になっていたし、年齢的にもそろそろということだったんじゃないかな」

善哉氏の墓参りをする、当時の社台ファーム代表・吉田照哉氏(左)とビッグレッドファームグループ代表・岡田繁幸氏=1994年(岡田繁幸氏提供)

初めて自分名義で走らせた馬はよく覚えている。朝日杯3歳Sを制したギャラントダンサーだ。

「それこそ米国の牧場で生産した自家生産馬ですよ。オドリコというノーザンダンサーを父に持つお母さんに、ギャラントマンを種付け。自分で配合してつくった馬です。ベルモントS、トラヴァーズSなどを制したギャラントマンという馬が好きだったんですよ」

預けたのは、4歳上の松山康久調教師。1976年に厩舎を開業したばかりだった。

「松山さんも馬主も新人で、という感じでね。松山厩舎に入ってからおやじが『あの馬、走るらしいな』と言ってくれたのを覚えています。当時は牧場で調教している時代ではないので、厩舎に入らないと馬が本当に走るかどうか分からなかったんです」

77年10月8日の新馬戦を白星で飾ったギャラントダンサーは、続くいちょう特別も勝利。関東の3歳(現2歳)王者決定戦だった朝日杯3歳Sを無傷の3連勝で制した。

「びっくりしましたよ。自分で生産して日本に持ってきた馬が大レースをいきなり勝ったから、そりゃあうれしかった。『えーっ!? 走っちゃったか!?』と、感慨深いというか…。今考えると、あの頃の日本の生産馬は米国の馬より強くなかったんですね。あの頃の方が今よりも恐れを知らないというか、『自分がいい馬だと思ったら走る』という変な自信がありましたね。他にも自分が選んで買った馬がよく走っていたから『俺は馬が分かるんだ』と思っていたのかもしれない。今は謙虚になりましたよ。年を取るとともに、世の中そう簡単なものじゃないというのがよく分かりましたから」

最初の勝負服のデザインは「黄,黒縦縞(たてじま),袖赤一本輪」。現在は父のものを受け継いで「黄,黒縦縞,赤袖」となった。

「本当は米国で使っていた『黄,黒縦縞,赤袖黄一本輪』にしたかったけど、JRAから『駄目』と…。同じか似たデザインの人がいたんじゃないかな。その後、母の和子さんがそのデザインで馬を走らせました」

千葉県生まれの東京育ち。大学3年から父と海外のせりに赴くなど帝王学を授かった。

「大学3年くらいから父について外国のせりへ行くことになりました。あの時、米国の体験がすごく効いている。米国の馬って、せりのためにたてがみをそろえたりとか運動させてシェイプアップさせたりとか、すごくつくっているんです。そもそも筋肉が日本の生産馬とは違っていましたね。『すごいな!』とショックを受けました」

大学卒業後の72年、父が購入した米国ケンタッキー州にある牧場を購入した。

「米国キーンランドのせりに行ったとき、痛風になった父が、いきなり牧場を買ったんです。おやじさんは馬を買うのが大好きで「趣味はショッピング」が口癖でした。ホテルで何もできないため買い物欲が高まったのでしょうかね。それがフォンテンブローファームです。とにかく決断と行動が早かった。常にアンテナを張っていて、感性を磨いていたんでしょうね。父の人生は攻めの一手。座右の銘は『石橋はたたいたら渡れない』。つまり『たたかず渡れ』。とにかく牧場を大きくすることしか頭になかったようです」

父から米国の場長に任命された。

「英語もろくにできない24、5歳の若いやつが米国に行って牧場経営を任されたんだから、うまくいくわけがないですよ。でもやる気満々でした。常に馬のことを考えて『いい馬がいないか?』って。おやじもまた『お前ならできる』とおだてる。なんかずるい(笑)。おだてて、おだてて人を動かす。だから成功したと思いますよ。シャレをよく言う面白い人でもあった。車に乗っていると『高速道路に住む動物は? スピードをオットセイ(落とせ)』とか。私は高速道路に乗ってまでシャレは言わない(笑)」

72年に米国サラトガで人生を左右する馬と出合った。日本で大種牡馬となり、社台ファームの礎を築くことになるノーザンテーストを10万ドル(当時のレートで3080万円)で落札したのだ。キーンランドのせりが終わると、父は「あとは任せる」と帰国。大学を出たばかりの若者が全てを託された。

「父は私のことを『馬(の良しあし)が分かる』と思っていたんでしょう。大学時代から繁殖牝馬のせりに行くと『お前が見立てた馬の値段は高いなあ』と、よく言ってましたよ。その一頭がファンシミン。買ったらその系統が(ダイナマイン、ブロードマインド、ラインクラフト、ソングオブウインド、ダイナフェアリー、ルヴァンスレーヴ、チュウワウィザードなど)すごく走ってくれた。『失敗したらどうしよう』という思いはなかったですね。おやじさんのカネだから無関係(笑)」

馬主になった頃、国内で活躍していたのはシンボリ牧場の生産馬だった。84年にシンボリルドルフが、翌85年にはシリウスシンボリが日本ダービーを制した。

「ダービー連覇に『うちも頑張りたいな』と思ったのを強く覚えています。社台ファームはノーザンテーストから全てが始まっていますね。その後、いい繁殖牝馬もたくさん買いましたよ。繁殖のレベルが上がり、ノーザンテーストがいて…という感じですね」

それだけに、最も印象的な馬は86年に社台ファーム生産馬として初めて日本ダービーを制したダイナガリバーだという。もちろん、ノーザンテーストの産駒だ。

「ダービーを勝って、善哉さんとみんなで喜んだというかホッとしたというか…。背負っていた重荷が、ようやく解かれて下りたという感じでした。おやじさんだけでなく、こっちも泣いていた。うちのおやじ、映画の『幸福の黄色いハンカチ』を見て大粒の涙を流すほど結構涙もろいんですよ」

偉大な父の人生をすでに6歳上回った。

「医学の進歩のおかげというか…。父はひどい結核で肺が半分機能しなくて、ストレプトマイシンで生きながらえた。でも、やる気はすごかった。私は威張れることなど一個もない。馬を見ることについては大体同じくらいにいっているとは思いますが…。でも、あの人のやる気というか負けん気はまねできない。戦争をかいくぐってきた人だから」

日本で種牡馬入りしたノーザンテーストは11年連続でリーディングサイヤーに輝くなど大成功。牧場の屋台骨になってくれた。

「それにしても、あそこまで成功するとは…。ノーザンテーストを買ったのが、人生で最も幸運なことのひとつ。牧場だけでなく、私の礎を築いてくれたから」(後編に続く)

※後編はサンデーサイレンス導入秘話や海外競馬への飽くなき挑戦などを深掘り!