「完全養殖ウナギ」はなぜ難しいのか…ノーベル賞研究の陰に放置されていた「ホルモンの謎」に迫る

2026年5月29日、世界で初めて、完全養殖によるウナギのかば焼きが一般向けに試験販売された。日本橋三越本店とオンラインで販売された完全養殖ウナギの価格は1尾あたり約5000円。決して安くはないが、販売開始後すぐに完売。今回は数量制限のある限定的な販売だったが、絶滅危惧種に指定されているニホンウナギを天然資源に頼らず安定的に供給できる道が開けた意味は大きい。

稚魚1尾あたりの生産コストは、2016年度には4万円だったが、現在では1800円まで削減された。それでも天然のシラスウナギの3〜4倍の値段だが、技術開発は着実に進んでいる。 

この完全養殖に至るまでには、数多くの基礎研究での発見や、長年の応用研究のブレイクスルーがあった。なかでも、今後の効率化とコスト削減や他魚種での実現に向けて、いま注目を集める研究がある。東京大学の神田真司准教授が発見した、魚独自の生殖制御ホルモン「コレシストキニン(CCK)」だ。これまでの養殖の歩みと、半世紀にわたる「常識」を覆したこの研究について神田氏に語ってもらった。

完全養殖までの道のり

そもそも「完全養殖」とは何でしょうか。

「養殖」と聞くと、魚を飼って、ニワトリに卵を産ませて育てたり、ウシに仔牛を産ませて育てたりするのと同じことをする、ということを想像するかと思います。しかし、実は魚の養殖では、多くのものが「稚魚を海から捕まえてきて餌をあげて大きくする」という方法が行われています。たとえば、今では養殖ものがメジャーになっているカンパチなどについても、ほとんどのケースで稚魚を捕まえてきて育てています。

一方、「完全養殖」とは、人工的に育成した親魚から採卵し、その卵を孵化させ稚魚まで育て、さらにその稚魚を成魚にして次世代を産ませる、というサイクルを回すことです。つまり、天然資源に一切頼らず、人間の管理下で世代を回していく技術を指します。これが完全に実用化されて天然資源に頼っていないのは限られた魚で、たとえば「アトランティックサーモン」や「マダイ」などです。

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さて、現在、私たちが食べているウナギのほぼ100%は養殖です。しかし、その種苗となるシラスウナギ(稚魚)は、すべて天然の資源に依存している「完全ではない」養殖と言えます。つまり、春になると、河口や海岸で漁師たちがシラスウナギを捕獲し、それを養殖池に入れて餌を与えて育てるのです。これが成長したものが、「養殖ウナギ」と呼ばれています。

そして、今回「世界初の完全養殖ウナギ」となっていることからもわかるように、ウナギで完全養殖を行うことはとくに困難でした。養殖はある程度育つ環境要因を揃える必要がありますが、ウナギの不思議な生態を考えると一筋縄ではいかなかったのです。

「水槽にぶつかっただけで死ぬ」ウナギの幼生

ウナギの親は繁殖のタイミングを迎えると川を下り、西マリアナ海嶺で卵を産みます。そして、透明なレプトセファルス(葉形幼生)という透明な葉っぱのような姿で生まれ、黒潮に乗って約半年かけて日本近海までやってきて、ようやく魚の形をしたシラスウナギ(稚魚)に成長します。

レプトセファルス(提供:東洋水産株式会社)

この半年間という長い幼生期を、人工の環境で再現することが極めて困難だったのです。レプトセファルスは適切な餌を与え続けなければならず、水槽の壁にぶつかっただけで死んでしまうこともあるほど繊細な生き物です。

実際に、北海道大学が1973年に人工孵化に成功して以来、20年以上も人工環境下で稚魚まで育てることができませんでした。2002年になってようやく水産研究・教育機構がシラスウナギまでの飼育に成功しましたが、そこから実用化までの道のりは長いものでした。

ちなみに、小学校でメダカを育てたりしますが、ウナギに限らず多くの海水魚は初期飼育が非常に難しいのです。淡水(川や池)は綺麗な水、汚い水等いろんな環境があり、水が止まっている場合空気が取り込まれるのは表面だけです。一方、海はいつも波で酸素が供給されつづけていて、エサになるカイアシ類や藻類が生きた状態で常に供給されます。海産魚はこのような状況を前提として孵化するためには、飼育する側に「良い環境」を必然的に要求します。

とくにニホンウナギは西マリアナ海嶺の水深200m程度のところで産卵し、孵化後にはマリンスノーと呼ばれるプランクトンの死骸を食べて育つといわれています。そのため、かなり多くの初期飼料が試験され、多くの失敗や苦労があったと聞いています。

餌代はもちろんのことこのコスト以外でも、人件費、設備費がとにかくかかります。コストの問題は、完全養殖の最大の壁でしたが、近年、自動で給餌する機械が導入され、レプトセファルスが死なないようにする水槽を工夫するなどにより、コストは劇的に下がってきています。この研究者達のトライアンドエラーと改善が今回の比較的手に入れやすい値段で供給されたことの鍵になっていることは言うまでもありません。

東京の川を遡上するシラスウナギと思われるもの。意外に自然にもいる。(捕獲してはならないので、見かけてもそっと見守りたい)写真:落合航平氏(東京大学大気海洋研究所)提供

一方で、野生のシラスウナギを捕獲したものが500円程度です。消費者としては、あるいは養殖業者としては、同じものなら安く買いたいと思うのは自然の感情でしょう。したがって、シラスウナギの大きさまで育てるトータルのコストを、野生捕獲よりも下げること。これが本質的に野生の資源を減らさないようにするひとつの目標だと思います。

そして今、さらなる効率化の鍵を握る研究が進んでいます。

ノーベル賞「哺乳類モデル」を疑う

その前に簡単に私の研究を紹介しますと、私は魚類の生殖メカニズム、特に魚がどのように卵を育て、繁殖をコントロールしているのかという仕組みを研究しています。ご存知のように魚は(我々と同じように)生まれたときから卵を産めるのではなく、大人になり、様々な条件が整った時に初めて、ホルモンが出て卵や精子を作るようになるのです。

これは様々な情報が脳で統合されて、ゴーサインが出て、全身のホルモン状態が整えられて初めて成し遂げられます。つまり、「川を下ってマリアナのあたりまで来た」というときに起こっているホルモン状態にしてあげなければ卵を産ませられません。このホルモン状態に関する知見は、一つの重要な研究として行われてきた背景があります。

我々人間や魚を含む脊椎動物では、脳下垂体という、脳の下にあるホルモン分泌器官がつくるFSH(卵胞刺激ホルモン)と排卵を促すLH(黄体形成ホルモン)というふたつのホルモンが、それぞれ卵を育て、排卵させる、という働きを制御しています。

このふたつのホルモンは総称して生殖腺刺激ホルモンと呼ばれ、マスター制御因子である「GnRH(性腺刺激ホルモン放出ホルモン)」が制御していると考えられてきました。なお、GnRHを含む一連の神経ペプチドの発見により、1977年にAndrew SchallyとRoger Guilleminがノーベル生理学・医学賞を受賞しています。人間なら月経周期、マウスなら4日に1回という生殖周期をこのシステムがコントロールしています。

私も含め多くの研究者が、教科書通りにGnRHがFSHとLHを制御するというのは脊椎動物全体で共通しているということを常識、あるいは前提として研究を行ってきました。養殖でも例外ではなく、「GnRHを使えば卵が育つし、排卵させられる」とずっと考えられてきたわけです。またGnRHはシンプルな構造で、合成コストも安いので、完全養殖の研究でも利用されていました。

GnRHの遺伝子を失ったメダカにおいても、FSHは減っていなかった。つまり、GnRH以外にFSHの放出を促進させる因子が存在する・・・?!

しかし実際は、魚にGnRHを投与してみるといい結果が得られません。未熟な魚に打っても卵の育ちが悪く、理由もわかりませんでした。一方、充分に卵が育ったものを排卵させることはできるため、GnRHがLHを制御しているということはわかっていました。つまり、FSHのほうで制御が上手くいっていなかったのです。それでも我々は「研究も難しいし、まぁ仕方ないか」「FSHは直接投与すればいい」ということで済まされていました。

それが2010年代に新しいゲノム編集技術が開発され、魚類でも簡単に遺伝子をノックアウト(意図的に特定の遺伝子の機能を失わせること)することが可能になり、研究のハードルが一気に下がります。私はメダカを使ってGnRHをノックアウトし、“制御されるはず”のふたつのホルモン(FSH、LH)がどうなるかを調べてみることにしたのです(教科書が言うことが正しいなら、GnRHをノックアウトするとふたつのホルモンの機能も失われるはず!)。

すると驚くことに、GnRHを失った魚はLHが激減し排卵はできなかった一方で、FSHの量は変わらずに実際に卵の成長は正常に大きくなる、という結果になりました。つまり、メダカにおいて、GnRHはLHを放出させるホルモン(LH-RH)であり、FSHの放出にはなくても大丈夫なわけです。この結果を2016年に発表した上で、GnRHではない他の何かがFSHを出させているはずであると考え、探すことにしたのです。

【続編】『定説を覆す、魚独自の「生殖制御ホルモン」を発見…完全養殖を飛躍的に進める驚きの研究結果』