「戦時下なのに白米を食べてた」「病院、学校、クラブまであった」…地元民も知らない「消えた山奥の街」が今語られるワケ
尾瀬国立公園の山深くに眠る、“幻の鉱山街”根羽沢鉱山。その記憶を追い続けてきた人物がいる。県内の自治体職員として勤務する傍ら、ライフワークとしてこの鉱山の調査を続けてきた朝倉早也輝(あさくら はやて)さんだ。
【画像16枚】斜面に広がる住宅、今では入れない鉱山坑内…鉱山で栄えた街に当時の様子と、遺構が残るのみの現在の様子
「誰も知らない街に、どうしようもなくロマンを感じるんです」。朝倉さんは、そう言い切る。
根羽沢鉱山は、地元の人間が作った鉱山ではなかった。外から来た人々が山中に街を築き、閉山とともに散っていった。語り継ぐべき「地元の人」が最初からほとんどいなかったのだ。本記事は、その鉱山街の歴史をたどった前編に続き、記憶を掘り起こし続ける人々の物語を描く。
人生を変えた、ホストファミリーの何気ない一言
朝倉さんが根羽沢と出会ったのは、群馬県立尾瀬高校に通っていた高校時代のことだった。
太田市出身の朝倉さんが尾瀬高校に進学したのは、特別な目的があったわけではない。仲の良い友人が行くと聞いたから、ただそれだけだった。
尾瀬高校には県内外から自然環境を学ぶ生徒が集まり、遠方からの生徒は地元のホストファミリー宅に滞在する「ホームステイ制度」がある。朝倉さんもその制度を利用し、片品村の家庭に下宿していた。

高校では片品村の自然環境への理解も深めた(写真:筆者撮影)
ある日、ホームステイ先のおばさんが何気なくこう言った。「昔、あの山に鉱山があってね。街もあったらしいよ」。
特に目的もなく流れ着いた山奥の村で、朝倉さんはその言葉を聞いた瞬間、何かが心に引っかかった。それが、人生を大きく変える場所との最初の出会いだった。
専門学校卒業後、東北地方のテレビ局に就職した朝倉さんだったが、仕事は楽しいことばかりではなかった。行き詰まりを感じ先が見えなかった時期、ふと頭に浮かんだのが根羽沢だった。高校時代にホームステイ先のおばさんから聞いた、あの一言が、ずっと心に引っかかっていたのだ。
気がつくと、根羽沢の土地を所有する東京パワーテクノロジー株式会社に電話をかけ、調査の許可を求めていた。

Uターン就職をするまでは2ヶ月に一度、下道で青森から根羽沢まで通っていた(写真:筆者撮影)
そこからは先の見えない調査だったが、尾瀬高校で自然環境や地域の歴史を学んだ経験が調査の土台となった。資料もなく歴史にも残っていない街だからこそ、今調査している自分こそが最先端のはず――「根羽沢の最先端は俺だ」。その自負も朝倉さんを支えていた。インターネットで検索しても何も出てこない。地元の図書館に行っても資料はない。国立国会図書館で俳句集をめくり、「ねばざわ」という文字を探す。そんな地道な調査で幻の街を少しずつ紐解いた。そして知れば知るほど、この街の記憶を自分だけのものにしておくのはもったいないという思いが募っていった。
そして、朝倉さんの熱意と行動力が、やがて新たな局面を引き寄せることになる。

尾瀬高校時代の仲間と『ねばざわ廃坑調査隊』を結成し、過酷な調査も行った。朝倉さん(左から2番目)は副長を務める(写真:ねばざわ廃坑調査隊)
記憶の証人との出会い
転機は、2023年の一枚の新聞記事だった。
戦後の開拓民として入植し、現在も片品村に隣接する群馬県昭和村に暮らす堀道雄さん(94歳)の人生を、鈴木越夫さんが1冊の本にまとめ自費出版した。その本を紹介する新聞記事が、朝倉さんの目に留まった。堀さんの幼少期をつづった章に、「根羽沢」の文字があったという。
記事を読んだその日、朝倉さんは出版社に電話をかけ、堀さんの連絡先を教えてもらった。そしてその日のうちに会いに行った。
「根羽沢に興味がある人がいるの?」と、最初は驚きだったという堀さん。しかし朝倉さんに話を聞いてもらううちに、自分でも忘れていた記憶がよみがえり、懐かしさとともに失われた歴史を伝えられた安堵感が広がっていったそうだ。
昨年は朝倉さんたちと車で鉱山を訪れ、通学路の目印にしていた木がそのままの形で残っているのを見つけた。もっと早く自分の足で訪れていればという後悔もあったそうだが、「朝倉くんがいなきゃ、そのままお墓に持っていっちゃったからね」と話す堀さんは笑顔だった。

調査隊メンバーとともに根羽沢鉱山を訪れた堀さん(写真:ねばざわ廃坑調査隊)
朝倉さん自身の調査で街の全貌はほぼわかっていたそうだが、堀さんの証言でそのイメージはより明瞭になり、根羽沢の全体像の約8割が明らかになった。
その成果を基に、朝倉さんは根羽沢鉱山のジオラマの制作に着手している。かつての街並みを立体的に再現したこのジオラマは、文字や写真では伝えきれない当時の記憶を、多くの人に届けるための新たな手段だ。

朝倉さんが作成した根羽沢鉱山のジオラマを確認する堀さん(写真:筆者撮影)
記録する側と、記憶を持つ側。その出会いがなければ、根羽沢の記憶の多くは、誰にも届くことなく時の流れに埋もれていたのかもしれない。
尾瀬に新たな魅力を―期待と、残された課題
関係者と対話を重ねるうちに、意外な事実も明らかになった。土地所有者である東京パワーテクノロジーもまた、根羽沢の活用を模索していた時期があったのだ。互いの思いが重なり、連携の話が動き出した。
東京パワーテクノロジーを事業主体として、片品村の観光部門・教育委員会、JTB、そしてねばざわ廃坑調査隊――異なる立場の関係者が根羽沢のためにひとつにまとまれた背景には、片品村に「尾瀬かたしな未来プロジェクト」と呼ばれる行政と民間が立場を超えて協力できる枠組みがあったことも大きい。

JTBツアー実施のため、東京パワーテクノロジーが林道を整備した(写真:筆者撮影)
25年度には、ガイド付きの探検ツアーが実現した。かつて鉱夫たちが行き交った道を歩き、苔むした遺構に触れ、閉鎖された坑口の前に立つ。尾瀬を訪れた人が翌日に立ち寄れるコンテンツとして、「片品村=尾瀬」という既存のイメージに新たな魅力を加える可能性を、地元関係者は期待している。
しかしその一方で、課題もある。苔むしたコンクリートの基礎、枯葉が重なる静寂の風景――訪れる人が増えれば、その苔は踏まれ、遺構は少しずつ変化していく。観光客が期待する「幻の街の面影」が、観光化によって失われるというジレンマだ。安全のための通路整備もまた、景観を変えることを意味する。この問いへの答えは、根羽沢だけが探しているわけではない。
朝倉さんが根羽沢のツアーを実現させ、関係者の輪を広げてきた今、次の夢はすでに動き始めている。
今後のツアーは、朝倉さん自身ではなく、朝倉さんが指導した片品村のガイドが担当する予定だ。「いずれは自分の手を離れることが目標」と朝倉さんは言う。朝倉さんがいなくても、根羽沢が観光資源として、文化財として、地域に根付いた存在になっていく――それが朝倉さんの思う本当の自立だ。個人の熱意に依存する活動は、その人がいなくなれば終わってしまう。根羽沢が長きにわたって片品村の財産であり続けるためには、地域そのものがこの場所の価値を引き受けていかなければならない。
そして、さらに大きな夢がある。根羽沢鉱山を、世界遺産にすることだ。「夢は大きく、そして声に出さないと」――朝倉さんはそう言い切る。
資料もなく「歴史に存在しない街」だったこの根羽沢鉱山の記憶は、忘却の淵から引き上げられ、確かな歩みとともに受け継がれている。
消えゆく記憶を、誰がつなぐのか
岩手県の水沢鉱山では坑道や選鉱場跡を巡る探検トレッキングツアーが始まり、岐阜県の笹洞蛍石鉱山では採掘跡地で蛍石を手に取れる体験ツアーが全国から参加者を集める。群馬県内にも小串硫黄鉱山や磐戸鉱山など、山中に眠る遺構は少なくない。いずれも、かつて人が働き、暮らした場所だ。

選鉱製錬場跡地に残る排煙口(写真:筆者撮影)
なぜ今、こうした場所が注目されるのか。インバウンド需要の拡大、産業遺産への関心の高まり、そして「どこにでもある観光地」ではなく「その場所にしかない体験」を求める旅行者の意識の変化――様々な要因が重なっている。しかし根底にあるのは、記録する人・語り継ぐ人・守る人・生かす人が出会い、動き出したという人間の話かもしれない。根羽沢は、そのひとつではないだろうか。