「22時間労働」ラーメン店主が54歳で東京移住の訳

岩手で経営していたラーメン店をたたみ、54歳で東京に移住したひとしさん夫妻(写真:筆者撮影)
「移住してよかったことしかない」

(写真:筆者撮影)
東京都の東部にある葛飾区は荒川、中川、江戸川など大きな河川に挟まれ、今も風情ある町並みが残る下町である。そんな葛飾区に飲食業をやめ、岩手から東京に移住した夫妻がいる。ひとしさん(66)、みきこさん夫妻である。浮き沈みの激しい飲食店の経営を経験した後、東京を安住の地として選んだ。どんな人生を歩んできたのだろうか。
【写真アリ】今回お話を聞いたひとしさん一家。結婚時のふたりや、子どもたちとの様子も
梅雨とは思えない猛暑や晴天が続いた6月下旬。葛飾区の待ち合わせ場所に、ひとしさん・みきこさん夫妻が現れた。
「東京に住んで12年近くが経ちましたが、今から考えると本当に移住してよかったことしかないです」
現在はタクシー運転手であるひとしさんはこう断言する。
東京に移住した後は山田洋次監督の名作映画シリーズ「男はつらいよ」の舞台である柴又に住み、その後は同じ葛飾区内のマンションに引っ越した。「寅さん」のイメージが絶大な影響力を持つ柴又は誰もが知る下町の代表格だが、ひとしさんが住む街の周辺もこぢんまりとした商店が連なる落ち着きのある街だ。
「東京と言っても、このあたりは物価も都心に比べかなり安く、交通の便もいい。かなり暮らしやすいです」(ひとしさん)

柴又駅と寅さん(写真:kash* / PIXTA)
急遽決まった秋田への帰郷
ひとしさんは秋田出身だが、大学進学以降は東京や首都圏近郊に住んでいた。地元・秋田の地銀に就職していったん東北に戻ったものの性に合わず2年ほどで退職。大手ファミリーレストランチェーン・ジョナサンの社員として働いていた。
「もともと外食産業に入りたかった。特にジョナサンは当時すごく成長していて、人や店舗を増やしているところでした」(ひとしさん)
ジョナサンに入るとまず練馬の店舗に配属され、その後に西葛西、千葉県の習志野市で働いた。ひとしさんは言う。
「私は秋田県出身、妻が東京出身ですが、実は2人の出会いがジョナサンでした。私は西葛西店に社員時代、店長時代と2度赴任したのですが、妻は私が社員時代からずっとアルバイトで働いていました」
みきこさんもひとしさんと出会ったときのことはよく覚えている。
「私は高校にいるときからジョナサンでアルバイトをしていて、夫とは西葛西店で出会いました。高校卒業後は都内の中小企業で事務をやっていましたが、職場には内緒でジョナサンのアルバイトを夜に続けていました。
そして、高校でバイトを始めたときの指導役が夫でした。冷凍庫の説明などを受けたのですが、正直、このときは印象悪かったですね。でも働き始めて2週間くらいで彼は異動してしまいました」
そんなひとしさんは数年後、店長として再び西葛西に戻ってきた。みきこさんはこのときもまだアルバイトとして働いていて、当時はバイトのまとめ役のようなものをやっていた。そこで旧知のひとしさんに人間関係の相談をし、一気に距離が近くなった。
「最初は他の女性なども含めて飲みに行き、そのうち2人で飲みに行くようになりました」(みきこさん)
1992年末に入籍、1993年11月には長男が生まれ、公私ともに順調に思えた。

出会いはジョナサン(写真:ひとしさん提供)
だが、ひとしさんは将来的に地元の秋田に戻ることを考えていた。ひとしさんは30歳の時に秋田にいる父を亡くし、大曲市(現大仙市)の実家は母、姉、おば、祖母の4人になった。いずれ母の面倒を見ることを考えれば、近くにいた方がいいとの思いだった。
そんなとき、秋田にいる高校の同級生から「東京の外食産業経験者を雇うならどれくらいの給与が必要?」とひとしさんに相談があった。同級生が所属する会社は、秋田でハンバーグチェーン「びっくりドンキー」のFC店を経営していた。ひとしさんはちょうど秋田に戻ろうと考えていたこともあり、「それなら俺が行くよ」と即答した。
みきこさんが当時を振り返る。
「この時は本当にひどかったです。突然夫が『秋田に行くことになった』と言ったのです。いずれ秋田に帰りたいというのは聞いていましたが、あまりに突然のことで驚きました。そうはいっても、決めてしまったのでもうやるしかない。赤ちゃん(次男)がお腹の中にいるのに、わずか1カ月半でバタバタと引っ越しました」
1994年11月、ついにひとしさん一家は秋田に引っ越した。みきこさんは秋田に引っ越した後、妊娠8カ月で車の免許を取った。
「お腹がかなり大きい状態でしたので、周りの人は驚いていました。でも、東北は車がないとどうにもならないので、無理してでもこのとき免許を取っておいてよかったです」(みきこさん)
居酒屋経営が忙しすぎて、子どもに顔を忘れられて…
ひとしさんは秋田に引っ越した後、同級生のFC運営会社に約2年在籍。せっかく誘ってくれた同級生のFC運営会社を2年で辞めた理由は、会社の社長がワンマンで経営はどんぶり勘定、さらには会社の金で私腹を肥やすような人だったためだという。その後は独立して1995年から1998年頃まで、秋田市内で居酒屋を3年ほど経営した。
居酒屋は基本的に夫妻で切り盛りしていただけに、みきこさんの労働負荷も非常に高かった。昼間は店を手伝い、育児をしてから夜に再び店頭に立った。「居酒屋の運営は厳しかったです。店を始めたとき、長男は2歳、次男は1歳くらいでしたが、オープン当初は忙しすぎて夫の実家に子どもは預けっぱなしでした」(みきこさん)
居酒屋運営が忙しすぎて夫妻にとってショックな出来事もあった。
「居酒屋時代は2人とも午前5時頃店を閉めて朝7時に店に行くような生活でした。しばらく子どもの世話ができていなかったため、夫の実家に迎えに行くと子どもが(親とわからず)キョトンとしていたこともありました。
幼稚園に行くようになってからも昼間は幼稚園、夜間は民間保育園に預けるような生活でした。負担はすごく大きかったです」(みきこさん)
怒濤のラーメン店経営へ
上の子が小学校に上がるタイミングで、もう深夜生活はやめようと決意。居酒屋運営をやめ、ひとしさん夫妻は1999年9月から、大手ラーメンチェーンのFCをやることになった。
出店場所は仙台など東北の都市を中心に探し回り、結局盛岡市内に開業した。この店は国道沿いにあって売上は結構立ったが、非常に苦労したという。
「私がほとんど1人でやっていたので、湯切りをすると足がけいれんするような感じがしました。店を午前3時頃に閉め、翌朝の7時には仕込みのために店に行っていました」(ひとしさん)
一方でみきこさんはこう振り返る。
「このとき大変だったのは夫だけで、私は居酒屋の時のほうがつらかったです。ラーメン屋を始めてから私は昼だけ出て、夕方からは子どもと生活できるようになりました」

ラーメン店経営時代のみきこさんと子どもたち(写真:ひとしさん提供)
後編では、怒濤のラーメン店経営15年を経て、東京で暮らす現在について話を聞いた。