一度は早稲田進学も医学部を再受験した彼の後悔

林恭秉さん(写真:本人提供)
「一度は早稲田に進学」も医学部を諦めきれず再受験
今回お話を伺った林さんは、5浪して金沢大学に合格した方です。
【写真を見る】医学部を諦めきれず5浪を経て医師になった府中すみよしクリニックの理事長・林恭秉(きょうへい)さん。
高3で医学部志望を決定するも、現役〜2浪まではE判定で不合格。予備校を変えながら医学部を目指して受験を続けた林さんでしたが、3浪しても医学部のE判定しか取れませんでした。親や親族にも説得され、一旦は諦めて早稲田大学に進学しますが、大学に進学してからの出会いや発見が、自身の受験生活を大きく変え、再受験を決断させたそうです。
3浪して大学に進んでも、医学部を諦めなかった理由とは何だったのでしょうか。何が彼の受験生活を支えたのでしょうか。彼の人生を深掘りしていきます。
林さんは埼玉県岩槻市(現:さいたま市岩槻区)に、歯科医師の父と、主婦の母のもとに生まれ育ちました。
普通の公立小学校に通っていた林さんは、学年でも成績は上位のほう。周囲に中学受験をする人はあまりいなかったものの、4年生から四谷大塚に通い始め、中学校では有名進学校である芝中学校・高等学校に入ります。
「親は上位3分の1にいてくれればいいという感じでした。同級生は270~280人いましたが、ずっとちょうど3分の1くらいに入る100位くらいで、高校2年生で理系クラスに進んでからも上位3分の1にいました」

芝中学校入学当時の林さん(写真:本人提供)
中学時代に漠然と医師になるだろうと思っていた林さんですが、実際に志望校として医学部を設定したのは高校3年生になってから。しかし後から考えれば「もうすでにこの目標設定から誤っていた」と振り返ります。
「父親は歯科医師でしたが、私立大学に行かせるお金はないと言っていたので、自分にチャンスがあるのは国公立の前期・後期の2回のみでした。ですが、受けた年のセンター試験は70%くらいしか取れていなくてずっとE判定だったので、勉強を始めるのが遅かったと思います」
この年、林さんは秋田大学の医学部に前期試験で出願するも不合格。併願で受けた東京理科大学と芝浦工業大学には合格したものの、辞退して浪人を決断します。
自分ならもっと上にいけるという思い込みがあった
合格した大学はあったものの、浪人を決断した理由を林さんに聞くと「医師になりたかったから」という答えが返ってきました。
「親からは医師になれとは言われませんでしたが、『させたい』という感情は子どもとしては受け取っていました。医師はいい仕事という刷り込みもありましたし、1年間も勉強すれば医学部に受かるでしょうという傲慢な気持ちがあったのです」
そう思って駿台予備学校の大宮校に通い出した林さん。1浪目は駿台予備学校の大宮校に通い、センター試験のパーセンテージは70%から80%に伸びました。しかし、「医学部には全然到達できなかった」と語ります。
「この年はもう一度秋田大学医学部を受けて不合格でした。後期はどこに出したか覚えてないけど足切りになったのは覚えています。この年に受けた模試も通じてすべてE判定でした。それでも、この判定は厳しすぎるんじゃないか、自分の実力だったらもっと上にいけるんじゃないかという思い込みがずっとありました」
2浪目に入った林さんは、環境を変え、この年から医学部志望者が集まるようになった駿台予備学校の市谷校に通い始めます。そこで彼は初めて、「医学部受験する人間ってこんなにいるんだ」とその厳しさを肌で感じることができたといいます。
「当時、駿台市谷校は医学部志望の学生のクラスが4~5クラスあって、2クラス目以上じゃないと、基本的には医学部には受からないと言われていました。自分はそこそこレベル高いんじゃないかと思っていたので、2クラス目からスタートするかと思ってたら、3クラス目からのスタートだったので驚きました」
“8~10時間勉強”も模試の判定はEばかり
2浪目にして合格圏内にいなかった自分の立ち位置に、林さんはびっくりしたといいます。
この年は全く成績が上がらず、強い中だるみを感じたそうです。一方で、2浪で費やした今までの時間を無視できず、旧帝大の医学部に行きたいと思い始めました。
「2浪してるから、これくらいはいけるでしょという傲慢な考え方でした。旧帝大はセンター試験の点数を圧縮する傾向があったので、センター試験を軽視して手の届かないレベルの問題集や、2次試験対策をメインでやり始めたのが戦略上のミスだったと思います。自分が多浪した根本的な理由は、自分の能力を過信しすぎたことに尽きると思います」
現役から2浪まで勉強時間は8~10時間くらいで変わらなかった林さん。この年も模試の判定はEばかりで、センター試験では前年より微増の80%台前半を記録。前期で東北大学医学部、後期で福井大学医学部を受験したものの、どちらも不合格でした。
しかし、併願校の早稲田大学の理工学部には合格していたため、親族には早稲田に進学するように強くすすめられていたといいます。それでも、林さんは医師の道を諦めきれず、3浪を決意しました。
「親族には、『もう1年やれば、絶対行けるから』という謎の自信と共に進学を拒否しました。2浪目までは一度も、『自分は医学部に受からない』と考えたことはありませんでした」
3浪目は予備校を変えようと思い、河合塾の池袋校に通い始めた林さん。しかし、池袋校で一緒にご飯を食べるようになった浪人仲間が、しだいに林さんをひとりだけ省くような冷たい態度を取り始めます。林さんはそれが精神的に苦痛だったこともあり、後期のお金を予備校に払うタイミングで宅浪を決意します。
「今思えば、僕が仲間に対して傲慢なことを言ったのかもしれず、それが鼻についた可能性もあります。結果的にこの年も模試は東北大としか書いてなかったからかもしれませんが、全部E判定。センター試験も横ばいの80%台前半で、東北大の医学部を受けて落ちました」
そしてこの年、再び早稲田大学の理工学部に合格したタイミングで、そちらへの進学を決めます。
「両親や親族から、『もう医学部は諦めなさい』と言われたのを覚えています。どうしても東北大学に行きたかったのですが、諦めて大学に進学しようと思いました」

早稲田大学に進学した林さん(写真:本人提供)
点数開示で知った現実
こうして一旦は早稲田大学理工学部に入学したものの、東北大学の点数開示が始まった年ということもあって、母と一緒に新幹線で結果を見に行きます。その結果が、林さんにとっては衝撃だったそうです。
「今は郵送とかメールで、試験で何点獲得したのかを知れますが、当時は東北大まで直接行く必要がありました。母親には『自分はあと数点くらい足りなかったと思うから見に行ってほしい』と言って、ついてきてもらいました。僅差の不合格だと思っていたのですが、いざ結果を知ると、詳しい点数は覚えていませんが、合格点まで50点とか100点とか足りなかったレベルでした。箸にも棒にも引っかからないレベルだったのが、強いショックでした」
大学ですれ違う芝中学校・高等学校時代の同級生が有名な銀行や自動車会社などに内定が決まっている人が多かったこともあってか、「3浪して入った自分が見すぼらしかった」と語る林さんは、大学にはほとんど行かずに警護のアルバイトをしつつも、学費が無料だった代々木ゼミナールに通ってまた受験勉強を始めます。
しかし、勉強時間が足りなかったこともあり、この年もセンター試験は80%台前半。三たび東北大を受けたものの、去年よりも手応えがなく、不合格に終わります。
「2浪目よりできなかったと思うので、この年は点数開示もしませんでした」
こうして、早稲田大学に通いながら、前年に引き続き授業料無料の代々木ゼミナールに通い5浪をスタートさせた林さん。大学では友達ができ始めたこともあり、「この年は自分の中で歯車が合ってきた部分がある」と語ります。友人であった4浪の女性が金沢大学医学部に合格したこともあり、2浪から初めて、旧帝国大学以外の医学部に目が向いた年であったともいいます。
「今はSNSで多浪に厳しい大学の情報を得られますが、当時は2ちゃんねるくらいしか情報がなく、僕もそこで多浪でも評価を落とされずに入れる大学を探していました。そこを見る限りは旧帝国大学はあまり問題ないけど、金沢大学も多浪でも入れるとあったんです。実際、友人も受かったし、面接もなくて純粋に試験1発だし、いいんじゃないかなと思って金沢大学を第1志望校に選択しました」
多くの人のサポートで医学部に合格
「早稲田大学に通っていたことで心の安定を得られたことも大きかった」と語る林さんは、休み時間は大学の図書館、空き時間は予備校で勉強をするようにして、国語の能力と数学の微分・積分の能力が足りていないという弱点を洗い出し、代々木ゼミナールの講義をうまく使いながら対策をしたそうです。
「早稲田大学の図書室に山のようにセンターの過去問と金沢大学の赤本を持って行っていました。また、初めてセンター試験の対策に力を入れましたね。今までもまったく勉強していないわけじゃなかったので、この年は初めて、今までに得た知識が統合されていく感覚になって成績が伸びました」
金沢大学の医学部でようやくC~B判定が出るようになったこの年は、単発のアルバイトに加え、2歳年上のお姉さんに資金の援助もしてもらいながら勉強に励みます。
そしてついにセンター試験では89%と9割近いパーセンテージを確保。前期で金沢大学医学部、後期で旭川医科大学に出願し、無事金沢大学医学部に合格して5浪で医学部への合格を叶えました。
つらい医学部受験を終えた林さん。浪人してよかったことについて聞くと「社会に出たあと最短で人生を歩もうという気になった」こと、頑張れた理由については「親兄弟・友人がサポートしてくれたから」と答えてくれました。
「医師になったら多浪したことは関係ありません。でも、ここからの人生はもう遅れは許されないと思うようになりました。医師になって7~8年目に専門医試験というのがあるのですが、僕は糖尿病や甲状腺の分野を最短で取ることができました」

金沢大学医学部に合格した林さん(写真:本人提供)
医師としての現在
現在は府中すみよしクリニックの理事長として患者を診療しており、YouTubeチャンネル「Dr.林の健康ナビ」の投稿もしている林さん。40代中盤になって、世間的に見たら「成功者」と見られてもよさそうですが、彼自身はまだ人生を送る中で多浪をしたことを正当化できずにいるようです。「努力の過大評価や過信が多浪の原因だった」と語る林さんは、こう続けます。
「僕はまだ、自分の中で、多浪をしたという自分の行動や、浪人で失った時間を医師になっても消化しきれていない部分があります。自分含め、浪人している人は自分がかけた時間を過大評価する傾向がありますが、同じ時間を過ごしているとき、同じようにみんな努力しているわけです。周囲の受験生はみんな自分より能力が低くて時間をかけているんじゃなくて、みんな同じくらいの能力か、むしろ高い状態で時間もかけているのに、僕は『自分はちょっと時間をかけたら成績が上がっていくんだ』という勘違いが根底にあった気がします。
また、『時間をかけたんだからこれくらいいけるんじゃないか』という見込みの甘さは、社会人だと致命的です。僕は今でも試験に落ちて医師になれない夢や、医学部を卒業できない夢、医師国家試験に受からない夢を見るので、そんなにいっぱい浪人しないで、自分に見合う大学に行って、ちゃんと学生生活を送った方がいいんじゃないかなとも思います。自分は今、幸運にも患者さんに信頼いただいてるおかげで何とかできているかもしれませんが、浪人の経験が人生の悔いとして残って、自分の中で引っ掛かりになっているのは間違いありません。皆さんには僕のようになってほしくないなとは思いますね」
浪人を経て成功を掴み取ったものの、浪人で失われた時間を自分の中で消化している最中の林さん。彼は今後も、自分の選択が正しかったのか悩みつつも、その自分が選んだ道を正解にするために頑張っていかれるのだろうと思いました。

夢を叶え、現在は医師として活躍する林さん(写真:本人提供)