戦没者のことを「犬死に」よばわりすることがインテリの間で流行…太平洋戦争の「空の英雄」が抱いた「日本人への不信感」

今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。

戦死はきれいごとじゃない

戦死はきれいごとじゃない, 街の男は坊主頭ばかり, 「軍人が窮屈に感じる」異様な街の空気感, 完敗、大敗、そして終戦へ。, 厳格な父が目に涙を浮かべて, 世間の切り替えの早さに「日本人への不信感」を抱く, 手のひら返しの言説に悔しさを飲み込んできた, 「空しい人生だったように思いますね」

昭和15年8月、揚子江上空を飛ぶ零戦(撮影/進藤三郎)

取材を通じて私に強い印象を残した零戦搭乗員は何人もいるが、進藤三郎さん(元海軍少佐)もその一人である。

「私は”散華”という言葉が嫌いでね。『華と散る』なんて言うが、じっさいの戦死はそんなきれいごとじゃない」

初めて会ったとき、進藤さんは言った。進藤さんは昭和15(1940)年9月13日、中華民国重慶上空で、制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機13機をもって中国空軍のソ連製戦闘機33機と空戦、27機を撃墜(日本側記録)、空戦による零戦の損失ゼロという一方的勝利をおさめた指揮官(当時大尉)として知られる。その活躍は当時、しばしば新聞紙上に顔写真入りで取り上げられた。

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昭和15年9月13日、零戦のデビュー戦を終え、漢口基地に帰還した進藤大尉。バックで腰に手を当てているのは大西瀧治郎少将

進藤さんはまた、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃では、空母赤城分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率いた。

その後は昭和17(1942)年末から第五八二海軍航空隊飛行隊長をつとめ、ニューブリテン島ラバウルを拠点に、ガダルカナル島をめぐる長く苦しい戦いで零戦隊を指揮して戦った。

「ラバウルの頃、いちばん辛かったのは搭乗割を書くことでした。というのは、搭乗割を書くとね、そのうちの何人かは必ず死ぬんですよ。それを決めるのは私ですから……。搭乗員には無理な戦いをするな、命を大切にしろというんですが、敵が強くなったんだからどうしようもない。毎日、ほんとうに辛かったですね」

街の男は坊主頭ばかり

進藤さんは、昭和19(1944)年3月10日付で第六五三海軍航空隊(六五三空)飛行長として転勤を命ぜられ、ひさびさに呉に帰ってきた。六五三空は、作戦時には空母「千歳」「千代田」「瑞鳳」からなる第三航空戦隊に搭載される母艦航空部隊である。

休暇を許された進藤さんは実家のある広島に帰り、背広姿で街に遊びに出た。下士官兵は外出時も軍服姿と決められているが、士官は私服でよいことになっている。また、頭髪も、下士官兵は原則として坊主頭だが、士官はきちんと整えている限りは自由である。ことに飛行機乗りは、長めのオールバックにしている者が多かった。

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昭和15年9月13日、零戦のデビュー戦から帰還した搭乗員と第十二航空隊の幹部たち。前列左より光増政之一空曹、平本政治三空曹、山谷初政三空曹、末田利行二空曹、岩井勉二空曹、藤原喜平二空曹。後列左より横山保大尉、飛行長時永縫之介少佐、山下小四郎空曹長、大木芳男二空曹、北畑三郎一空曹、進藤三郎大尉、司令長谷川喜一大佐、白根斐夫中尉、高塚寅一一空曹、三上一禧二空曹、飛行隊長箕輪三九馬少佐、伊藤俊隆大尉

進藤さんは、体質的に酒を受け付けないが、戦場から帰ったばかりで夜の街の空気が懐かしかった。南洋灼けした肌に、夜風がひんやりと心地よい。灯火管制で薄暗い通りを、煙草をプカプカやりながら歩いていると、

「こらこらッ!」

と呼び止める者がいる。見れば、カーキ色の国民服にゲートル(巻脚絆)姿の、中年の警防団員だった。戦争が始まってから、空襲に備える身支度として、すべての男子は防空服装としてゲートルを着用することが奨励され、また、坊主頭こそが「非常時」の身だしなみとされる風潮があった。折悪しく防空演習がはじまり、ゲートルも巻かず、髪を伸ばした進藤の姿が、男の癇に障ったのに違いなかった。

「こら、何じゃ、その格好は。煙草を消せ、煙草を」

居丈高に怒鳴る男に、

「なぜですか」

と進藤さんは聞いた。

「なぜもへちまもあるか、敵機に見つかったらどうする」

「上空から煙草の火が見えますか」

「見えるに決まっとる。貴様、口答えしよるか」

「そうですかねえ、私は夜間飛行もだいぶやっとるけど、上空から煙草の火を見つけたことは一度もないですがね」

相手は決まりの悪そうな顔をして黙ってしまったという。

「軍人が窮屈に感じる」異様な街の空気感

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真珠湾攻撃のとき進藤大尉が乗組んだ空母「赤城」

4月のある日、要務で長崎県の大村基地に赴いたさい、背広姿で長崎から汽車に乗った進藤さんは、またも国民服を着た中年の男に絡まれた。

「なんばしよっか、この非常時に髪なんか伸ばしよって」

「どうもすみません、必要なもんでつい伸ばしております」

「なんで必要か」

「いや、飛行機がひっくり返った時に怪我せんように……」

進藤が答えると、男は、エッと驚いて態度を豹変させ、

「これは大変失礼しました。海軍さんでしたか、いや、結構であります。ご苦労さまなことです」

と、揉み手せんばかりに機嫌をとり始めた。

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昭和16年6月、鹿児島基地の空母赤城戦闘機隊。中列左から乙訓菊江一飛曹、指宿正信中尉、板谷茂少佐、進藤三郎大尉、小山内末吉飛曹長

「『銃後』は戦意旺盛で、かえって軍人の方が窮屈に感じるほどでした。世の中が戦争一色に染められている空気は、前線帰りの身にも、申し訳ないが異様に感じられたものです。戦地や航空隊内部の方がむしろ自由な雰囲気でした。士官室でジャズのレコードなんかもかけてましたしね、誰が言いだしたのか『敵性音楽』なんて野暮なことも言わなかった」

と、進藤さんは回想している。

完敗、大敗、そして終戦へ。

戦況は日ごとに不利になってゆく。6月19日から20日にかけ、日米機動部隊がマリアナ沖で激突した「マリアナ沖海戦」で日本海軍機動部隊は完敗、続いて10月、米軍のフィリピン侵攻を迎え撃つべく日本海軍の総力を挙げた「比島沖海戦」でも記録的大敗を喫した。翌昭和20年4月1日には米軍大部隊が沖縄に上陸する。

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進藤さんが戦後も保管していた真珠湾攻撃の機密書類の束

九州、沖縄の制空任務をおびた第二〇三海軍航空隊飛行長になった進藤さんは、部下のなかから特攻隊員を出すことを頑なに拒んだという。

「沖縄戦が始まってしばらくした頃、司令の山中龍太郎大佐が、『うちもそろそろ特攻隊を出さにゃいかんだろうか』と言ってきました。

私は、『うちの隊には、いっぺんこっきりで死なせるような搭乗員は1人もおりません。何べんも出撃して戦果を挙げてもらわなきゃいかんから、特攻は出したくありません』と答えた。司令は『そうだな』と。司令部からなにを言ってきたのか知りませんが、それきりその話は立ち消えになりました」

そして8月15日正午、戦争終結を告げる天皇の玉音が放送される。進藤さんは、筑波海軍航空隊福知山派遣隊指揮官として、新鋭戦闘機紫電改部隊の錬成中に終戦を迎えた。

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昭和16年12月8日、朝日を浴びて空母「赤城」をまさに発艦する真珠湾攻撃第二次発進部隊。制空隊指揮官の進藤三郎大尉の乗機がまさに滑走を始めた瞬間

「しかしラジオの雑音が多くて、陛下のお言葉がなんだかよくわからない。激励されたぐらいに思って、放送が終わってから、それじゃこれから訓練だ、と、平常通り訓練を始めたんです。ちょうどその日、宝塚歌劇団の月組が基地に慰問に来ていましたが、予定通りに舞台をやってもらいました」

8月21日、進藤さんは、筑波空司令・五十嵐周正中佐の命により、13機の紫電改を率いて福知山基地を発ち、姫路基地に着陸した。五十嵐中佐の口から出たのは、

「本日より休暇を与える。搭乗員は皆、一刻も早く帰郷せよ」

という、思いがけない命令だった。搭乗員たちはその場で武装解除され、着剣した衛兵の監視つきでトラックの荷台に乗せられ、姫路駅まで10キロ近い道のりを護送された。

厳格な父が目に涙を浮かべて

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奇襲を受け炎上するハワイ・真珠湾

広島の街は、原子爆弾で一面の焼け野原になっていた。進藤さんの生家は、爆心地から南東へ約2.8キロの距離にある。帰ってみると、爆風で壁が落ち、畳や建具も吹っ飛び、柱も「く」の字に折れ曲がったような状態だったが、蓮田のなかの一軒家であったため類焼を免れ、父・登三郎さんと母・タメさんが2人で暮らしていた。

厳格だった父が、目に涙を浮かべて、

「三郎、ご苦労さんじゃったなあ」

と迎えてくれたとき、初めて負けた実感が、悔しさとともに体中から湧いてきた。父子は、抱き合って長いこと泣いた。

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昭和17年11月、五八二空飛行隊長としてラバウルに向け赴任する直前の進藤大尉。東京駅にて

それからしばらくは放心状態が続き、毎日、原爆の爆風で屋根瓦が飛び室内がめちゃくちゃになった家の片づけをしたり、自宅から3キロほど南の宇品海岸で釣りをしたりして過ごした。

秋も深まったある日、いつものように生家近くの焼け跡を歩いていると、遊んでいた5、6人の小学校高学年とおぼしき子供たちが進藤の姿を認めて、

「見てみい、あいつは戦犯じゃ。戦犯が通りよる」

と石を投げつけてきた。新聞でしばしば写真入りで報道されていたので、地元の子どもたちは進藤さんの顔を知っていたのだ。「こら!」と怒鳴ると逃げ散っていったが、やるせない思いが残った。

世間の切り替えの早さに「日本人への不信感」を抱く

年が明け、昭和21年になると、広島駅南口前あたりでは、闇市のバラックがぼちぼち立ち並ぶようになった。広島に最初に進駐してきたのは、オーストラリア軍を中心とする英連邦軍である。進藤は、広島駅前で、進駐してきた豪州兵にぶら下がるように腕を組み、歩いていく日本人女性を見たとき、つくづく世の中がいやになったという。

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昭和18年、ラバウル基地の進藤大尉

この変わり身の早さ。

「それ以来、日本人というものがあんまり信じられなくなったんです」

つい昨日まで、積極的に軍人をもてはやし、戦争の後押しをしてきた新聞やラジオが、掌を返して、あたかも前々から戦争に反対であったかのような報道をしている。

批判する相手(=陸海軍)が消滅して、身に危険のおよぶ心配がなくなってからの軍部、戦争批判の大合唱は、進藤さんには、時流におもねる卑怯な自己保身の術としか思えなかった。「卑怯者」は、いわゆる「進歩的文化人」や「戦後民主主義者」と呼ばれる者のなかに多くいて、敗戦にうちひしがれた世相に巧みに乗って世論をリードしていた。

「さかんに宣伝されている、『自由』にも『民主主義』にも興味はない。私は、自分はこれからの時代に生きてゆくべき人間ではないような気がしました。『生き残った』のではなく、『死に損なってしまった』という意識の方が強かった。

自決することを考えましたが、あいにく武装解除されたので拳銃を持っていない。生命を絶つ方法をあれこれ考えているうち、終戦直前、生まれたばかりの長男に会いに庄原へ行ったとき、差し出した人差指を小さな手で無心に握ってきた感触が甦り、死ねなくなってしまった。われながら情けない気がしました」

手のひら返しの言説に悔しさを飲み込んできた

戦後の風潮は、戦時中の日本のやってきたことをことごとく「悪」と断じるものだった。戦没者のことを犬死によばわりすることさえ、「進歩的」と称するインテリ層の間では流行していた。そんな言説を見聞きすると、「何を言いやがる」と進藤さんは悔しかった。

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昭和18年6月2日、ブイン基地にて五八二空の隊員たち。前列(椅子)左から鈴木宇三郎中尉、司令山本栄大佐、飛行隊長進藤三郎少佐、野口義一中尉、角田和男飛曹長、竹中義彦飛曹長

直属の部下だけで、160名もの戦死者を出している。なかでも、昭和18年、ガダルカナル島をめぐる航空戦では、部下たちの最期を幾度も目の当たりにした。対空砲火を浴びて、ソロモンの海に飛沫を上げて突っ込んだ艦上爆撃機や、襲いくる敵戦闘機から艦爆を守ろうと、自ら盾になって弾丸を受け、空中で火の玉となり爆発した零戦の姿を思い出すたび、あれが犬死にだというのか、と、やりきれない思いに涙が溢れた。

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昭和19年、マリアナ沖海戦に向け訓練中の六五三空搭乗員たち。2列め右から6人め進藤少佐

進藤さんはその後、横須賀でトラックの運転手、福島県の沼沢鉱山で鉱山長の仕事についたのち、広島に帰って東洋工業株式会社に就職。やがてディーラーの山口マツダに出向し、昭和54(1979)年、常務取締役を退任するまで勤めた。戦時中とはうって変わった平凡な会社員生活で、戦争のことはよほど心を許した一部の相手以外、話すことを好まなかった。

「空しい人生だったように思いますね」

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進藤三郎さん(1996年、撮影/神立尚紀)

平成12(2000)年2月2日の午後、進藤さんは、いつも午睡をしていたソファに座ったまま、眠るように息を引きとった。享年88、大往生といえるのかもしれない。

「私は『決戦』と『手柄をたてる』というのも嫌いな言葉でした。『決戦』というのはその一戦で勝敗を決することなのに、決戦、決戦と何べんも。それでどれだけ部下を死なせたかわかりません。

それと『手柄』をたてようと、無理な戦いをして戦死する者が多かった。誰かが戦果を挙げる陰には、必ず整備員など裏方の力がある。だから部下には、手柄を立てようなどとは考えるな、と言っていたし、個人の殊勲を当てにするような作戦は作戦じゃない、と考えていました」

いつの取材のときだったか、進藤さんに、これまでの人生を振り返っての感慨をたずねてみたことがある。進藤さんは即座に、

「空しい人生だったように思いますね」

と答えた。

「戦争中は誠心誠意働いて、真剣に戦って、そのことにいささかの悔いもありませんが、一生懸命やってきたことが戦後、馬鹿みたいに言われてきて。つまらん人生でしたね」

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昭和18年6月16日、ガダルカナル島攻撃のため、ブイン基地をまさに発進する進藤三郎少佐乗機。胴体に記された2本の<<線(黄色)は指揮官標識

予期せぬ答えに、この言葉をどう受け止めるべきなのか、戸惑いを感じたことを昨日のことのように憶えている。おそらくこれが、国のため、日本国民のためと信じて全力で戦い、その挙句に石を投げられた元軍人たちの本音なのかもしれない、と思った。

――歿後25年が過ぎたが、進藤さんのこの言葉はずっと、私の胸に棘のように刺さったままだ。