富士山で”自殺志願者”と出会った…『ざんねんないきもの事典』今泉忠明が語る、ある冬の日
日本一の山として親しまれている富士山。しかしその一方で、長年“自殺の名所”としても知られてきました。『ざんねんないきもの事典』や動く図鑑「MOVE」シリーズなどを監修してきた動物学者の今泉忠明先生は、そんな富士山を動物調査のために何度も訪れています。ある日、調査中に見つけたのは、雪山に残された「人間の革靴の足跡」。その足跡を辿った先で、先生が見つけた“あるもの”とは――。
今泉先生がこれまでに体験してきた数々のエピソードを、著書『気がつけば動物学者三代』(講談社)から抜粋し、全6回にわたってご紹介する短期連載。第1回では調査のため富士山に暮らすことになった今泉さんが拠点となる山小屋で直面した背筋が凍る体験について伝えました。第2回は、「富士山での忘れられない出来事」についてご紹介します。
富士山での一人暮らしと動物調査
小屋ではひとり暮らしでしたから、毎日やらなければいけないことがたくさんあります。朝、起きたらストーブに火をつけ、小屋を掃除し、小屋のそばに仕掛けてある罠をチェックして、その日に行う調査内容を考えます。そして朝食を終えると、一日おきに須走の町まで往復八キロメートルの道のりを車で走ります。富士山には水がないので、町で水を汲まなければならないし、食料やジープのガソリンも手に入れる必要があるからです。
それらに加えて、深い雪に覆われる冬は、町までの道を確保するために、道路の雪かきもしなければなりません。朝、雪が積もっていたらブルドーザーで雪かきをしながら山を下って、それからいったん小屋に戻り、今度はジープに乗り換えて、水や食料の調達に行くというわけです。

写真はイメージです Photo by iStock
でも、冬は大変なことばかりではなく、おもしろい発見にあふれた季節でもあります。というのも、雪の上に動物の足跡がたくさんつくからです。秋には、ほとんど何もいないと思っていた小屋のまわりにも、冬になって雪が降ると、キツネ、ノウサギ、テン、リス、ニホンカモシカ、タヌキ、アナグマなど、たくさんの足跡がついていました。
「何もいなかったんじゃなくて、僕に見えていなかっただけなんだ!」
新潟でトウホクノウサギの調査をしたときのように、足跡を追って動物を探しに行きます。ただし、新潟のときとは違い、富士山ではひとりなので、万が一、道を見失ったり、最悪、遭難したりしたときのことを考えて、地図や方位磁石だけでなく、食料もたっぷり持っていくことを忘れませんでした。
大雪の山で革靴の人間と出会う
冬の富士山では無理は禁物です。とくに天候の変化には細心の注意を払わなければなりません。富士山の中腹にある「小富士」という小さな山でカモシカの足跡を調べていたとき、突風が吹いたことがありました。地面を覆う雪が舞い上がって目も開けていられず、あたりがまったく見えなくなるほどでした。一瞬にして自分がいる位置がわからなくなるほどの、ものすごい自然の力です。三十分ほど雪の上に伏せていました。やっとの思いで風雪をしのぎ、なんとか帰ることができましたが、油断は大敵だということを学びました。
ある大雪の日、いつものようにブルドーザーで雪かきをしていると、雪の上に足跡を見つけました。ただし、動物ではなく人間の足跡です。
「おかしいな……登山靴だったら雪の上を歩くために滑り止めのギザギザがついているはずだけど、これは普通の革靴の跡みたいだ」
しかもその足跡は、小屋を通り過ぎて、さらに上へと続いています。不思議に思いながら、小屋の前でブルドーザーに燃料を入れていると、見たこともない男の人が上から下りてきました。たまに、山小屋を売店だと間違えてやってくる登山者はいましたが、ひと目見るなり、彼は登山者ではないとわかりました。黒いトレンチコートに背広、革靴という出で立ちだったからです。「さっきの足跡の主だな」と直感しました。
「寒いので、小屋の中で暖まらせてもらえませんか?」
僕と同じぐらいの年齢に見えるその男性は、寒そうに身を縮めて聞いてきました。小屋に入れると、彼が尋ねてきました。
「コーヒーをいただいてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
車に燃料を入れる作業を終えて小屋に戻ると、彼はストーブを抱えるようにして暖をとりながら、コーヒーをすすっています。しばらくすると、彼はぽつりぽつりと話し出しました。

写真はイメージです Photo by iStock
「……あなたは、こんなところで仕事をしてるんですか?」
「ええ、そうですよ」
「ひとりで暮らしているんですか?寂しくないんですか?」
「ひとりですけど、楽しいですよ。動物がたくさんいるし……」
「……そうですか。僕は横浜に住んでいるんですが、毎日がいやになってここに来ちゃったんです」
そんなことを話しているうちに、警察官の一隊がやってきました。なんでもこの男性には捜索願が出されていて、警察が捜していたらしいのです。警察官にともなわれて、男性は山を下りていきました。
革靴の足跡を追って見つけたもの
「……いろいろあるだろうけど、こんなふうに人に迷惑をかけちゃダメだよな」
そんなことを思いながら、僕はふと、彼がこの山小屋に来る前に、富士山をどこまで登ったのかを確かめてみたくなりました。革靴の足跡をブルドーザーで追いましたが、小屋よりさらに高い、標高一五〇〇メートル地点まで行ったところで、あまりの雪の深さにブルドーザーのキャタピラが空転し、登れなくなってしまいました。僕はブルドーザーから降り、雪をかいて進みました。彼はコートに革靴姿でこの深い雪の中を歩いていたのですから、すごいパワーです。
ほどなくすると、足跡は登山道からそれて森の中に入りました。そして、見晴らしのよい沢の縁に、畳一枚分ほどのスペースが平らに踏み固められているところを見つけました。おそらく、彼は自殺するつもりでここに横になっていたのでしょう。
「でも、ここまで来るのに身体を動かして大汗をかいたから、横たわっているうちに汗が冷えたんだろうな。それで寒くなって、耐えきれずに小屋に下りてきたのかも……」
腰を下ろして、そんな推理を働かせていながら、あたりを見ていると……驚いたことに、正面の崖に二頭のニホンカモシカがいるではありませんか!しかし、あいにくカメラを持っていません。
「くぅ〜! こんなときにかぎってカメラがないなんて! 小屋に取りに戻るから、そこでじっとしていてくれよ!」

ニホンカモシカ Photo by iStock
カモシカに見つからないように走り下りてブルドーザーに飛び乗り、小屋に戻ってカメラを抱え、元来た道をふたたび走って、なんとかカモシカの撮影に成功しました。
自分が好きなことを一生懸命やれば、それがもっと好きになるし、こんなふうにチャンスもめぐってくるものなのにな———。そんなことを思わされる、「彼」と「カモシカ」との出会いでした。
ここからは余談ですが、僕が暮らした山小屋の、その後をお話しします。
僕が一時的に富士山を離れて東京に戻っている間に、雪代(雪と土砂が入り混じったもの)が雪崩のように襲ってきたということで、小屋はつぶれてしまいました。もしこのとき小屋で寝ていたら、僕は生きていなかったかもしれません。
その後、つぶれた小屋は放置されていましたが、二〇一七(平成二十九)年の夏にすべて撤去されてしまいました。さまざまな思い出が詰まった小屋がなくなってしまったのは寂しいかぎりですが、自然の厳しさをはじめ、ここで得た経験は今も僕の中で生き続けています。