「戦艦大和」沖縄特攻で「3731名もの命」を失わせた「聯合艦隊司令部の杜撰な仕事ぶり」

今年は戦後80年。昭和20(1945)年8月15日正午、天皇自らが全国民に語りかける「玉音放送」で、戦争終結が伝えられた。日本政府はこの日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定め、東京の日本武道館で毎年、全国戦没者追悼式が挙行されるのをはじめ、全国各地で戦没者、戦争犠牲者の追悼行事が行われている。

ここでは、私がこれまで30年にわたってインタビューしてきた、最前線で戦っていた海軍軍人だった人たちそれぞれの「8月15日」を振り返り、シリーズで紹介しようと思う。なお、証言者の多くは、残念ながら鬼籍に入っている。

清水芳人さんの体験

清水芳人さん(1912-2008。当時海軍少佐)は、最後に残された数隻の駆逐艦を寄せ集めて編成された第三十一戦隊の砲術参謀として駆逐艦花月に乗艦、再度の特攻出撃に備えているところで終戦を迎えた。

「悲しいことに、もはや動ける艦が、これら数隻の駆逐艦しかなかったんですよ。瀬戸内海の柳井(山口県)の沖に停泊して、艦に網をかぶせて木の枝をつけ、マストには松の木を立てて、敵機から見えないように偽装していました。対空射撃をすると居場所がバレるから、敵機が上空を飛んでも見送るだけです。8月15日、玉音放送を聞いたときは、まだやれ、と言われるのかと思いましたが、終戦だとわかって、まあこれでよかったと思いました。艦が沈むと人も沈む。大和をはじめ、艦と一緒に優秀な人が大勢死んでしまって、これからの時代は人を大事にしなければならないと思いました」

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

昭和16年10月20日、宿毛湾沖で全力予行運転中の戦艦「大和」。このとき27.46ノット(時速約50.86キロ)を記録したという

終戦後は7ヵ月間、呉に残って復員事業に従事したのち、帰郷。妻の実家のある愛知県で農場を開墾、精麦工場や倉庫業を営んだ。

「帰った翌日から地下足袋をはいて農業です。鍬を持って朝から晩まで、若い人と一緒に、負けるもんかと頑張りました。犬が日向ぼっこで昼寝なんかしているのを見ると、『私は貝になりたい』ではないけれど、犬になりたいなあ、と思ったこともありましたよ。しかし、生かされてあることを思えば、世の中にも、家内の両親にも尽くさねばと一生懸命でした」

戦後の歳月はあっという間に過ぎた。清水さんにとって、戦争中の4年間は、戦後の半世紀に匹敵するほど長く苦しい時間だったのだ。

大戦末期の海戦

「准士官以上、第一砲塔右舷(みぎげん)急ゲ」「総員集合五分前」の号令が、戦艦大和の艦内スピーカーを通して響きわたった。昭和20(1945)年4月5日、午後3時過ぎのことである。

大戦末期、すでに米軍は沖縄に上陸し、日本陸海軍は沖縄に来攻した米軍に対し、まさに総攻撃をかけようとしているところだった。大和は、口径46センチの巨砲9門を搭載、世界最大最強の戦艦として誕生しながら、日本海軍自らが真珠湾攻撃(昭和16年12月8日。停泊中の戦艦を航空攻撃で撃沈)、それに続くマレー沖海戦(同年12月10日、航行中の戦艦を世界で初めて航空攻撃のみで撃沈)などで航空戦の時代を切り拓いたこともあって、それまで、威力を発揮する機会のないまま生きながらえていた。基準排水量64000トン、公試排水量69000トン、全長263メートル、全幅38.9メートル。主要部は厚い装甲に守られ、「不沈艦」とも称されたが、姉妹艦武蔵は、すでに昭和19(1944)年10月24日、フィリピンで米軍機の攻撃を受け、撃沈されている。

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

昭和16年10月30日、宿毛湾沖で全力公試運転中の「大和」

清水さんは当時、大和第十分隊長(戦闘配置は副砲長。6門の15.5センチ副砲を指揮する)を務めていた。急いで艦長・有賀幸作大佐、副長・能村次郎大佐の待つ前甲板に駆けつけた清水さんに、副長は黙って、手にしていた電報用紙を差し出した。そこには、次のように書かれていた。

<1YB(大和2sd)ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄島ニ突入ヲ目途トシ 急速出撃準備ヲ完成スベシ>(聯合〔れんごう〕艦隊電令作第六〇三號 昭和二十年四月五日一三五九)(1YBは第一遊撃部隊、2sdは第二水雷戦隊を意味する。一三五九は午後1時59分)

「これまでも出撃するときは生還を期していなかったし、戦況から半ば予想していたことではありましたが、電文にある『特攻』の二文字が、異様なまでに目に焼きつきました。同じ特攻でも、飛行機のほうは建前として『志願』ということになっていましたが、この海上特攻は否応なしの至上命令、大和だけでも3000名以上の乗組員がいるわけです。しかしどういうものか悲壮な気分にもなれず、祖国の安危急迫のとき、一億特攻のさきがけとして『大和』と運命をともにするのは本望、何も思い残すことはない、と覚悟を決めました」

前甲板に整列した全乗組員に、有賀艦長は、

「出撃に際し、いまさら改めて言うことはない。全世界が我々に注目するであろう。ただ全力を尽くして任務を達成し、全海軍の期待に添いたいと思う」

と訓示した。清水さんは次のように回想する。

「飛行機の護衛のない艦隊が、敵地に乗り込んで行ったらどうなるか、これまでの戦訓からも明らかです。私たちも無事に沖縄へ着けるとは思わない。しかし、もし万が一、天候が悪かったりして、敵機の攻撃を受けずにたどり着くことができたら、命令通りに撃ちまくるだけだと思っていました。特攻と言っても、怖れていては前に進めない。死ぬまでは生きてるんだからと思って、遺書も書きませんでした」

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

昭和20年1月1日、大和前檣楼右下の前甲板にて、分隊長以上の士官の集合写真。前列左から6人めより副長・能村次郎大佐、艦長・有賀幸作大佐、内務長・林紫郎中佐、副砲長・清水芳人少佐。3列めの右から3人め後部副砲指揮官・臼淵馨大尉

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

清水芳人少佐。大和の第三主砲塔脇にて。足元の甲板が黒く塗られているのがわかる

清水さんは明治45(1912)年、広島市呉市に生まれた。昭和4(1929)年、広島県立呉中学校(現・広島県立呉三津田高等学校)4年生を修了して海軍兵学校に入校。卒業後は遠洋航海を経てさまざまな艦で勤務し、大和特攻の前年、昭和19年10月の比島沖海戦では、副長兼砲術長として乗組んでいた軽巡阿武隈が撃沈され、2時間あまりの漂流の末、救助されるという体験も持っていた。当時32歳、生粋の船乗りだった。

大和に届いた出撃命令

大和には、出撃準備命令に続いて、すぐさま聯合艦隊からの出撃命令が届いた。

<海上特攻隊ハY-1日黎明時豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入敵ノ水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス>(聯合艦隊電令作第六〇七號 四月五日一五〇〇〔午後3時〕)

大和には海軍兵学校74期を卒業したばかりの少尉候補生が42名、2日前の4月3日から乗艦していて、清水さんがその指導官を務めていたが、特攻出撃の命令を受けて、艦長の決断で候補生を退艦させることになった。血気盛んな若い候補生たちは「私たちもぜひ連れて行ってください」と艦長に直訴したが、「皆の気持ちはよくわかる。残って国のために尽くしてもらいたい」と諭す艦長の言葉に、涙を呑んで退艦していった。

「ああよかった、これで安心して征ける」

と、清水さんは安堵したと言う。

「この晩、艦内で最後の酒宴が行われました。可燃物はすでに陸揚げしているので、鉄の床に座っての宴会です。乾杯、乾杯で酔いつぶれた私を、部下の下士官たちが皆で私室に担ぎこんでくれました。『分隊長、最後ですから私たちで毛布を掛けさせてください』という部下に、『最後ではないぞ、この調子で明日も寝かせてもらうからな。大和が沈むものか。皆、頑張れよ』と声をかけました。そのときの毛布の温かみは、90歳になったいまも忘れられません。そこで、『大和は絶対に沈まんぞ、沈むまではナ』と付け加えたところ、皆どっと爆笑し、『おい、撃って撃って撃ちまくろう、この大和を沈めてたまるものか』と威勢のよい声が、いつものにこやかな顔から返ってきました」

出撃当日、4月6日は、海辺近くに散在する桜がまさに満開、松の緑に映えて美しく、清水さんは、これが祖国の見納めと、双眼鏡をのぞきながら自分に言い聞かせた。

午後3時20分、大和以下、軽巡矢矧、駆逐艦冬月、涼月、磯風、濱風、雪風、朝霜、初霜、霞の10隻は、徳山沖を出撃した。この出撃について、「片道燃料」で出て行ったとまことしやかに伝えられることが多いが、決してそんなことはない。防衛省防衛研究所所収の「天一號作戦海上特攻隊戰闘詳報」によれば、大和出撃時の燃料搭載量は、満載の約3分の2にあたる4000トン。これは、公試データを基に単純に換算すると、速力16ノット(時速約30キロ)で8300浬(約15000キロ)の航行が可能な量である。全速27ノット(時速約50キロ)で航行すれば航続距離はその数分の1になるが、いずれにしても、徳山沖から沖縄までの往復、約2000キロは十分にクリアできるはずだった。駆逐艦各艦に関しても、燃料を満載にしたことを窺わせる記録が残っている。

周防灘で駆逐艦各艦が、大和を目標に襲撃訓練を約1時間実施したあと、午後6時、豊後水道の通過を前に、「手空キ総員前甲板」の号令が出て、現配置(哨戒直についている者)以外の乗組員が集合した。すでに操艦中で艦橋から離れられない艦長に代わって、能村副長より、聯合艦隊司令長官・豊田副武大将、大和に乗艦している第二艦隊司令長官・伊藤整一中将の、出撃にあたっての訓示が伝達された。副長は訓示を、

「我々の行く手にはいかなる運命が待ち構えているかも知れない。しかし、日頃鍛錬した腕を十二分に発揮して、この大和を神風大和たらしめたい」

と結んだ。夕暮れ迫る上甲板に並んだ、草色の第三種軍装の顔、顔。眼前の巨砲、そそり立つ前檣楼、後檣にはためく軍艦旗。「君が代」奉唱、万歳の嵐。清水さんは、「われ特攻出撃す」の実感をひしひしと味わった。

瀬戸内海を一歩出ると、そこはもう、敵潜水艦が待ち構えている戦場である。大和は警戒を厳重にしながら、豊後水道を南下した。

夜が明けて、4月7日。この日の朝、第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将の命を受けた、第二〇三海軍航空隊の零戦10機と、第三五二海軍航空隊の零戦12機が交代で大和上空に飛来、7時から10時15分にかけ、3時間あまりにわたって上空哨戒(護衛飛行)を実施した。

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

三五二空零戦隊指揮官・植松眞衛大尉が大和護衛の当日に使用した航空図。飛行経路と大和の推定沈没地点が記されている

当時、三五二空分隊長で、最後の大和上空哨戒の零戦隊指揮官だった植松眞衛さん(当時大尉・戦後伊藤忠商事勤務)は、

「『主トシテ敵哨戒機ヲ撃攘スベシ』との命令でした。この日は雲が低く垂れこめていて、大和の発見には苦労しました。艦隊の位置は佐多岬の270度(西)、距離70浬(約130キロ)との情報を得ていたので、硫黄島、黒島を経て、目標となる草垣諸島を探したんですが視界不良で見当たらず、ようやく雲の合間に艦隊を見つけたのが午前9時。そこで二〇三空と交代し、雲の下、高度300メートル以下の低空を旋回しながら護衛しました。甲板から手を振る乗組員の姿が見えましたよ。私の隊が飛んでいる間には、敵機は姿を見せませんでしたが……。笠ノ原基地に還ってしばらくしたところで、大和が敵機の襲撃を受けていることを知りました」

と、筆者に語っている。清水さんは、

「零戦が飛ぶのはよく見えましたよ。護衛というより、司令部がせめてものはなむけとして、見送りに出してくれたのだと思い、ありがたく、また心強く感じました」

と回想する。大和の出撃に際しては、「戦闘機の護衛もなく、裸で進撃させられた」との通説もまかり通っているが、これも半分はウソだということになる。

米軍飛行艇による触接

零戦隊が引き揚げた直後から、2機の米軍飛行艇が、遠く低空で大和に触接(しょくせつ)を始めた。「撃ち方用意」が下令され、主砲、副砲をそちらの方向へ向けると、敵機は雲のなかに隠れた(午前10時18分。記録では、「主副砲射撃開始」とあるが、清水さんは、この飛行艇に対しての射撃は間に合わなかったと回想している)が、約2時間後の12時32分、敵艦上機の大群が来襲した。

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

米軍機の攻撃を受ける大和。被弾により後檣から火災が発生していて、艦はやや左に傾いている

「雲が低くて、電探(レーダー)では捕捉しているのに、敵機の姿がなかなか見えない。飛行機に対しては電探射撃ができなかったんです。やがて雲の合間から黒い点々のような飛行機が見えたと思ったら、敵機は突然、死角の後方から急降下してきて、爆弾が後部指揮所を直撃しました。そこには後部副砲の指揮官・臼淵馨大尉がいたんですが、彼はその一弾で戦死してしまった。私は、ふつう真っ先に狙われるのは前檣楼だから、臼淵大尉には後部にあって、私の戦死後の副砲指揮を任せるつもりだったのが、裏目に出てしまいました。何とも無念でしたね……」

清水さんの戦闘配置である副砲射撃指揮所は、前檣楼の上部戦闘艦橋のすぐ横下にあり、主砲と同じ方位盤照準器が装備されている。副砲は高角砲とちがって、もともと対水上艦射撃用にできているので対空射撃には不向きだが、それでも低空で来襲する雷撃機(魚雷攻撃機)を捕捉しては、対空戦闘用に装備されていた三式通常弾(散開弾)で、5斉射ほどの射撃を浴びせた。

「しかし、魚雷回避のための転舵が激しくて射撃が思うに任せず、また、せっかく敵機を捕捉しても、味方駆逐艦への危険の配慮から発射できなかったりして、切歯扼腕の思いでした。雲が低いので遠距離砲戦の機会はなく、来襲した敵機に対して、主砲は一度も撃つチャンスはありませんでした。戦後の映画なんかだと、敵機に主砲を撃つシーンが描かれていて、その気持ちはわかるんだけども、実際には撃てなかった。米軍機の攻撃は、雲のなかでもよく連携がとれ、また、対空砲火の弾幕をいとわず突撃してくる勇敢さに感心しました。ただ、狙えば必ず当たりそうな巨艦に対して、魚雷や爆弾の命中率は意外に低いと思いましたね」

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

米軍機の攻撃を受ける大和

敵の第一波攻撃で被弾したものの、大和は速力も衰えず、前檣楼の被害は皆無で、なおもやる気十分で沖縄に向かおうとしていた。清水さんも、「この調子ならたどり着けるかも知れない」と思ったという。しかし、敵機の攻撃はとどまるところを知らず、第二波、第三波攻撃で被害は累積し、特に左舷(ひだりげん)に集中して命中した魚雷のために、艦の傾斜は静かに増大していった。

「戦闘中は、いろんな音にかき消されて、前檣楼にいても魚雷の命中音は聞こえませんが、そのたびに艦が大きく揺れるので、数多くの魚雷が命中しているのは感じていました。爆弾のほうは、命中しても、ポンという音が聞こえるぐらいです。傾斜は、しばらく5度ぐらいで持ちこたえていましたが、こうなると主砲はもちろん、副砲ももう撃てません。高角砲も、射撃困難に陥って散発的になっています。被雷による浸水でだんだん傾きが増してきて、左17度まで傾いたところでいったん止まりました。主砲塔の上にまで特設機銃が装備されていましたが、対空機銃だけが、最後まで心憎いまでに撃ち続けていました」

艦はまだ半速(9ノット、時速約17キロ)程度で走り続けている。電灯はついているし、電話や拡声器も使える。水線下の機関科員の健闘がうかがえる。だが、高角砲、機銃が次々と被害を受けて対空能力が激減したため、やがて敵機は頭上を飛び交うほど、意のままに攻撃を加えてくるようになった。

「そんななか、第一波の被弾による後部火災は鎮火せず、弾火薬庫付近に立ち上る煙が、始終気になっていました。後部副砲の火薬庫が過熱して、手がつけられないとの報告も上がってきた。そしてこのことが、のちの大爆発の原因になったのではないかと、私は推定しています」

残念ながら、沈没は時間の問題になってきた。やがて、艦長より、「総員最上甲板」(総員退艦)の命令がくだる。清水さんは、側にいる指揮所員に、「死に急いではならない。浮いているものがあったら何でもよいから掴まってじっとしていること。絶対に一人になってはならない」と指示した。部下たちには、誰一人として動揺の気配は見られなかった。

「まもなく左舷に命中した魚雷によって傾斜は急激に増大し、私は横倒しになった指揮所に踏みとどまったまま水につかりました。海水の入るザーッという大きな音が聞こえていて、前檣楼の周りの海には、多くの乗組員が泳いでいました」

指揮所の窓から海中に吸い出され、海面に浮上した清水さんが振り返ると、目の前に巨大な大和の赤腹が、まるで山のようにそびえて見えた。その上には、10名近い乗組員が、まるで人形のようにきれいに並んで万歳を叫んでいる。これがあの大和か、と目をみはった次の瞬間、大和は大爆発を起こし、清水さんの身体はふたたび海中深く吸い込まれていった。真っ暗だった。やがて周囲が明るくなり、気がつけば海面に浮上していた。大和の艦影はもう見えなかった。ときに午後2時23分。

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大爆発を起こした大和。護衛の駆逐艦3隻の姿が見える

周囲には、艦から漏れ出た重油が層をなし、空は黒々とした雲に覆われ、あたりは薄暗い。200メートルぐらい先か、海中から赤い大きな炎が不気味に高く燃え上がり、そのなかで火薬が閃光を発し、花火のようにはぜている。主砲の発射用火薬がロケットのように滑走してこちらへ向かってくる。空からは大小無数の鉄片や鉄板が降り注ぎ、ピシャピシャと水しぶきを上げる。

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大爆発を起こした大和(部分拡大)

「そんななか、目の前を何か黒い丸いものがいくつか動いているのが見えた。『ああ、生存者だ』と思ったら、ふと我に返りました。脱出したときは大勢泳いでいたのに、爆発に巻き込まれたのか、多くは残っていませんでした。せっかく生き残った者を死なせてはいけない。私は思わず、『准士官以上姓名申告、近くにいる下士官兵を握って待機、漂流の処置をなせ』と叫びました」

清水さんは、近くにいる10名ばかりと励まし合いながら、静かにうねりに揺られていた。風もなく静かな海であった。駆逐艦がすぐ側を南に向け走り去った。生き残りの駆逐艦だけで沖縄に突入するのか。清水さんたちは、海面から手を高く上げ、「後を頼むぞ!頑張れ!」と叫んだ。もはや生も死もなく、運命の波間に夢でも見ているような気がした。今日一日、何もなかったかのように、水平線のかなたに夕日が低く雲に映えて美しかった。そのときは、作戦が中止され、残存駆逐艦が反転することになるとは知る由もなかったのである。

2時間あまりの漂流ののち救助

清水さんは2時間あまりの漂流ののち、駆逐艦冬月に救助され、翌朝、佐世保に帰還した。有賀艦長は艦と運命を共にし、生存者中最先任者(序列がもっとも上)である能村副長は頭部に重傷を負って入院しているので、清水さんが代わって大和特攻の戦闘詳報を書くことになった。現在、防衛省に保管されている「軍艦大和戦闘詳報」は、清水さんの手によるものである。いまでは名高い戦訓所見、

<「思ヒ付キ」作戦ハ精鋭部隊(艦船)ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ>

……という一節を、清水さんは第二艦隊司令長官・伊藤整一中将、有賀艦長をはじめ、大和と運命をともにした2740名への万感の思いを込めて書いた。

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

清水が書いた「軍艦大和戦闘詳報」。〈「思ヒ付キ」作戦ハ精鋭部隊(艦船)ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ〉の言葉を、清水さんは万感の思いで書いたという

戦闘詳報には、沈没と引き換えに対空戦闘で大和が挙げた戦果は撃墜3機、撃破20機と記録されている。別に、同行した軽巡洋艦矢矧、駆逐艦8隻からなる第二水雷戦隊の戦闘詳報には、<敵機撃墜機数19機(沈没艦ノ分ヲ含マズ)>とあるが、第二水雷戦隊も、矢矧以下、駆逐艦磯風、濱風、朝霜、霞が沈み、涼月が大破した。戦闘詳報に記載されている各艦の戦死者数は、矢矧446名、冬月12名、涼月57名、磯風20名、濱風100名、雪風3名、朝霜336名(総員)、霞17名、計991名にのぼり、大和と合わせて3731名もの命が、このたった一度の出撃で失われたとある(戦後の研究ではさらに増えている)。

海軍での特攻戦死者は、たとえば航空特攻の場合、准士官以上は死後二階級進級、下士官は一律に少尉、兵は一律に兵曹長(准士官)に進級することになっていた。死後の進級は、本人のあずかり知らぬところだが、階級が上がることで遺族への一時金や恩給が手厚くなる、いわば遺族への救済策という意味合いがある。だが、命令に「特攻」と明記されていたにもかかわらず、この日、各艦とともに沈んだ乗組員は、大和の有賀艦長をのぞき、通常の戦死と同じ一階級の進級にとどまった。出撃を命じた聯合艦隊司令部の、後先を考えない杜撰な仕事ぶりが、このことからもうかがえる。まさに「思ヒ付キ」作戦で、選りすぐりの若者たちをあたら海の藻屑にしたのだ。

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

大和沈没後、第三十一戦隊参謀となった清水芳人少佐

清水さんは言う。

「国家民族危急のとき、大和とともに、身命を賭してこれにあたった乗組員たちがいたことを、後世の日本人が少しでも記憶にとどめてくれたら、彼らも浮かばれるんじゃないでしょうか。沖縄に米軍が上陸し、なんとかこれに一矢を報いなければと、自己犠牲をいとわなかった尊い気魄は、いわゆる戦争責任論とは別のもの。あの敗戦の廃墟から立ち直り、奇跡的な復興を遂げたのは、戦いに斃れた人たちの精神が、日本人の心のどこかに残っていたからだと思っています。死んだ連中の分まで頑張らなきゃと、みんなが思っていましたからね」

清水芳人さんの体験, 大和に届いた出撃命令, 米軍飛行艇による触接, 2時間あまりの漂流ののち救助

インタビュー当時の清水芳人さん(2003年、撮影/神立尚紀)

戦争が愚行であることは言うまでもない。だが、あの時代の渦中を生きた人たちにとっては、目の前に戦争がある限り、戦う以外の選択肢はなかった。戦艦大和は、東経128度04分、北緯30度43分、水深345メートルの地点で、海底の墓標となって、幾千の骸とともに、いまも静かに眠っている。時おり艦体引き揚げの話が出るけれども、清水さんは、

「大和は海底の墓標。そっとしておいてほしい」

との意見で、そしてそれはほんとうに戦った人たちの多くの考え方でもあったことを付記しておく。