昭和天皇の義兄が”女性の斡旋依頼”「近頃よい掘り出しモノはないかね?」…「旧皇族、徳川家末裔、戦後成金の青年実業家」が昭和天皇と読売新聞を巻き込んで繰り広げた「歴史に埋もれた事件」の真相

「戦後成金」佐伯隆敏が描いた夢

「天皇の生物学研究 天然色映画に」

1951年8月1日、読売新聞にそのような見出しの記事が出た。昭和天皇による著書『相模湾産後鰓類図譜』(生物学御研究所・編)をきっかけに“科学者としての天皇”を主人公にした記録映画が作られるという。

読売新聞1951年8月1日朝刊

第二次世界大戦の敗北から6年、人間宣言を経た「日本初の天皇映画」として注目を集めたが、結果から書くと実現しなかった。

製作は「連合映画」、戦後屈指の青年億万長者と呼ばれた実業家・佐伯隆敏が設立した新興企業であった。幻の天皇映画、その顛末やいかに──。

佐伯隆敏を取り上げた経済雑誌『ダイヤモンド』の記事

復員から裸一貫、進駐軍への物資調達を足がかりに堺敷物株式会社を立ち上げ、戦後成金の第一人者となった佐伯は“時代の寵児”ともてはやされる一方、小説を書き、出版業に携わるなど文化芸術に強い興味を持っていた。

作家の三島由紀夫や評論家の大宅壮一と対談を行っていることからも、そうした志向がわかるだろう。

『婦人倶楽部』に掲載された三島由紀夫と佐伯隆敏の対談

そのころ「なにか事業を……」と近づいてきた徳川将軍家の末裔・徳川喜好との出会いから、かねて構想していた“昭和天皇を主人公にした学術映画”の製作に取りかかわり、連合映画を設立する。佐伯隆敏、当時29歳。

徳川喜好は「久邇宮様」こと久邇朝融──昭和天皇の義兄にあたる旧皇族を佐伯に紹介。久邇を委員長にした「学術映画献上委員会」が設立され、徳川のほか天皇の学友であった千田貞清元男爵、生物学研究仲間の佐藤忠雄名古屋大学教授らがメンバーとなり、やんごとなき企画は進められた。

いきなり映画会社が商業用に作るのではなく、委員会が選定のうえ製作を委託するという体裁である。

「初の天皇映画」頓挫の真相

佐伯の回想によれば、鷹揚なる久邇朝融は「近頃よい掘り出しモノはないかね?」と初対面で女性の斡旋を頼むほど社交的な人物であり、久邇・徳川・千田の3人は昭和天皇や宮内庁に向けた“映画化のための運動”と称して連日連夜、遊興に溺れていた。もちろん、佐伯のカネである。

連合映画は軽演劇の演出家で映画監督の小崎政房を常務に迎え、富士フイルムと提携して天然色映画用のカラーフィルムを用意するなど準備を進めていた。「初の天皇映画」ということで監督も一流の人材と交渉していたという。

佐伯隆敏が世田谷区に新設した連合映画撮影所

しかし、肝心の久邇宮様から天皇サイドの許諾の返事がこない。4ヶ月、5ヶ月経っても運動の成果がない。佐伯の催促を受けた久邇は、那須の御用邸へ。昭和天皇は「ああ、そう」と答え、映画化を了承したようなものだったという。

時は来た。さっそく徳川喜好は読売新聞に情報をリークし、くだんの「天皇の生物学研究 天然映画に」が記事となり、間もなく撮影開始と報じられる。

photo by gettyimages

ところが宮内庁は「天皇映画を許可した覚えはない」と読売に猛抗議、記事の取り消しを要求する。久邇は「陛下がご了承くださったのだから」と、撮影を進めるよう連合映画に伝えるが、どうしようもない。かくして「日本初の天皇映画」は崩壊した──。

もともと徳川喜好には私文書偽造詐欺の前科があり、久邇朝融も商売に手を出しては失敗していた。「徳川がね、いたんでね……うまくゆかなかったのだよ」。久邇は屈託なく責任転嫁をしたという。ことの次第は、佐伯隆敏みずから「天皇映画始末記」と題して『経済新潮』に発表し、文章として残されている。

「戦後成金」のその後

さて、連合映画は出だしの挫折にめげることなく映画界に進出。新東宝と提携した『女豹の地図』(51年/監督:田中重雄)、東映配給の『遊侠一代』(52年/監督:小崎政房、天辰大中)と娯楽作を発表し、1953年5月には世田谷区経堂に「連合映画撮影所」を開設する。

2000坪の土地に5つのステージを建てた撮影所は地の利もよく、東宝や大映の貸しスタジオとして繁盛する。天辰大中指揮のもとカラー撮影の設備を整え、連合映画自身も香港の新華影業公司と組んだ『海棠紅』(55年/監督:易文)をはじめ海外との合作を手がけ、スケールの大きな作品を志向していた。

敷地2000坪、5つのステージを有する連合映画撮影所

いっぽう日本初の天皇映画である『明治天皇と日露大戦争』(57年)が新東宝・大蔵貢社長のプロデュースによって実現し、未曾有の国民的大ヒットを記録。

『明治天皇と日露大戦争』DVDジャケット。新東宝の時代劇スター・嵐寛寿郎が明治天皇を演じた

佐伯隆敏は、その監督である渡辺邦男を連合映画に招き、カンボジアロケの超大作『アンコールワット物語 美しき哀愁』(58年)を企画する。

佐伯いわく「終戦後いち早く日本に対する賠償請求権を放棄し、わが国にもっとも理解ある態度を示した親日的な国」を舞台に、元軍人と王女のロマンスが1億円という破格の予算で描かれた。

主演は池部良、安西郷子、山口淑子。かつて天皇映画を試みたプロデューサーと右翼を自任した売れっ子監督のコンビによる『アンコールワット物語』は、愛国者というセリフが飛び交う“日本ありがとう映画”として完成し、東宝配給で公開されたが大コケ。

膨大な負債を抱えた連合映画は映画製作から撤退、1962年には撮影所ごと東宝系列の東京映画に取って代わられる。

連合映画の運命を狂わせた超大作『アンコールワット物語 美しき哀愁』

大物女優たちと浮名を流し、柴田錬三郎の小説『図々しい奴』のモデルにもなった青年億万長者・佐伯隆敏──映画への夢は破れたが、本業たる堺敷物の経営をコツコツ続け、そのかたわら叔父・御木徳近が二代目教祖を務めるPL教団の運営を手伝った。

『図々しい奴』DVDジャケット。1963年のドラマ版は45.1%という高視聴率を記録

相次ぐ身内の不幸に悩まされたその後の人生は、『時は過ぎゆく ある家族の慟哭』という著書に詳しい。

1997年7月28日に死去。享年75。戦後成金第1号は、ひそやかにこの世を去った。映画への未練はあったという。