イスラエルの「後ろ盾」米国、2人のユダヤ系が歩んだ因縁の人生とは 建国と同じ1948年生まれ、ガザ情勢憂う元外交官と人権活動家

デニス・ロスさん(左)とリチャード・フォラーさん
2023年10月に始まったパレスチナ自治区ガザの戦闘は、死者が6万人を超えてなお、収束の兆しが見えない。そんな中、「後ろ盾」としてイスラエルを支える米国でガザ情勢を憂うユダヤ系がいる。今も中東和平の夢を追う元大物外交官と、ガザ住民に寄り添うようになった人権活動家。イスラエル建国と同じ1948年に生まれ、因縁の人生を対照的に歩んできた2人に話を聞いた。(ワシントン、デンバー共同=新冨哲男)

デニス・ロスさん=米ワシントン
▽公正な仲介者を期して
デニス・ロスさん(76)は、米外交官としてイスラエルとパレスチナの「2国家共存」を目指す中東和平交渉に長年携わった。共和党のブッシュ(父)政権で国務省政策企画局長、民主党のクリントン政権で中東担当特使といった要職を歴任。現在顧問を務めるワシントンのシンクタンクで取材に応じたロスさんの話は、中東情勢を左右してきた米外交史そのものだった。
1948年に生まれたロスさんは、ユダヤ人迫害が横行した20世紀初頭のロシアから渡米した祖母を持つ。移民の国・米国で人口の推定2・4%を占めるユダヤ系は、政官財の各分野で頭角を現したケースが多く、ロスさんもその一人だ。
パレスチナ問題の発端となった1948年のイスラエル建国は、前年の国連総会決議で決まった。パレスチナの地をユダヤとアラブに分割し、聖地エルサレムを国際管理下に置くとする内容だ。激化したイスラエルとパレスチナの紛争解決を図り、パレスチナ国家の樹立を目指したのが、主に米政府が仲介した中東和平交渉だった。
米外交団を率いたロスさんは「交渉の成否に生身の人間の命が懸かっていた。イスラエルとパレスチナ双方の交渉団メンバーが身内を失っていた」と振り返る。長年にわたる戦闘や襲撃、テロで敵意が消えず、当事者間の対話は膠着状態が続いていた。
軍事力で優位に立つイスラエルに、占領地返還など譲歩を働きかけられるのは後ろ盾の米国だけ。そこに米外交の意義を感じ取っていたロスさんは、睡眠時間を削っては仲介に励んだ。1993年には、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)のパレスチナ暫定自治宣言(オスロ合意)にこぎ着けた。1994年にイスラエルとヨルダンの平和条約が結実した際には、万感の思いがこみ上げた。
子連れのイスラエル人女性からは「どうか和平を実現して」と、涙ながらに望みを託された。信頼関係を育んだPLO高官には、パレスチナ自治政府のアッバス現議長も含まれる。公正な仲介者を期したロスさんの外交団は「平和のチーム」の異名も取ったという。

1993年9月、暫定自治宣言の調印式で、握手するイスラエルのラビン首相(左)とPLOのアラファト議長(右)。中央はクリントン米大統領=ワシントン(ロイター=共同)
▽和平はすぐそこまで近づいていた
中東和平交渉の最終協議に向け、ロスさんはイスラエル歴代首相やアラファトPLO議長と膝詰めで議論を交わした。和平合意が「すぐそこに近づいた」のは2000年末に退任直前のクリントン米大統領が外交努力の集大成として和平調停案を示した時だった。
「イスラエルは受け入れたが、一時は前向きだったアラファト議長が最終局面で拒否に転じた」とロスさんは述懐する。ほどなく、ユダヤ教とイスラム教共通の聖地「神殿の丘」(イスラム名ハラム・アッシャリーフ)をイスラエル右派政党リクードのシャロン党首(当時)が訪問したのを契機に、第2次インティファーダ(反イスラエル闘争)が激化。イスラエルは右傾化が進み、パレスチナ国家樹立は遠のいた。2023年10月からはガザでイスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘が続く。
あのときアラファト議長が首を縦に振っていれば―。中東和平交渉があと一歩で合意に届かず、2014年以降は頓挫した状態が続いてきた経過を悔やむロスさん。激しく憎み合うイスラエルとパレスチナが共存できる青写真を描けない現状を前に、歴史の歯車の狂いに思いを巡らせずにいられない。
ガザ「所有」構想などを主張するトランプ米大統領を横目に、当事者同士が相互理解を深めて妥協点を探り合う必要性を説く。外交の最前線を離れ、老境に入っても著作やシンポジウムで未来への政策提言を続けるのは、人生でやり残したことがあるからだ。「和平は今なお私の使命だ」。情勢は混迷するが、それでも積年の対立が解決する日を夢見る。

ガザ北部ガザ市で、がれきの中に立つパレスチナ人の子ども=4月16日(ゲッティ=共同)
▽鮮明だった悲劇の記憶
イスラエルへの親近感が伝統的に強い在米ユダヤ系の中で、占領下のパレスチナの現実を知り、生き方を改める人々も出ている。雄大なロッキー山脈を臨む西部コロラド州デンバー近郊の自宅で、リチャード・フォラーさん(77)が転身の経緯を明かしてくれた。
祖父母は、ユダヤ人の迫害が相次いだロシアから渡米した。第2次大戦中、ナチス・ドイツのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)で親族十数人が犠牲になった。親友の両親の腕には囚人番号の入れ墨。1948年に生まれたフォラーさんも幼少期、「カイク」というユダヤ系の蔑称で呼ばれた体験を持つ。
悲劇の記憶や反ユダヤ主義の体験は鮮明だった。シナゴーグ(ユダヤ教会堂)に通い、ユダヤ人の苦難の歴史を語り合ううち、民族を守る義務感は自然と身に付いた。1948年から1973年まで、イスラエルは4度にわたり周辺のアラブ諸国との中東戦争を経験。ニュースに接するたび、フォラーさんはアラブ世界がイスラエルの「壊滅を企てている」と気がかりでならなかった。双子の兄弟は、ユダヤ教の戒律を厳格に守り、政治的にも右派色が強いとされる超正統派になった。
2006年にレバノンの親イラン民兵組織ヒズボラとイスラエルの大規模交戦が起きた際、フォラーさんはイスラエル支援集会にも駆けつけた。米政府の親イスラエル政策推進に向け、政治献金に巨費を投じる有力ユダヤ系ロビー「米イスラエル広報委員会」(AIPAC)に寄付を行い、会員になった。

リチャード・フォラーさん=米コロラド州デンバー近郊
▽「同胞の暴挙」にあらがう
フォラーさんの転機は50代になってからだ。博学なユダヤ系の友人の勧めで本や文献を読み進めると、イスラエルの占領下で故郷を追われ貧困にあえぐパレスチナの人々の実情は耳慣れないことばかりだった。米国のユダヤ系社会が伝えない現実を知らされ、自身の無知を恥じた。
AIPACを脱会し、市民運動に身を投じた。米国のイスラエル軍事支援停止を求める街頭広告を設置した。占領政策の違法性を訴える書籍を出版した。パレスチナには複数回渡航し、イスラエル軍に射殺された少年の葬儀に参列した。イスラエル軍による襲撃に連日おびえ、明るい未来を見通せない住民らと親交を温めた。
コロラドを拠点に講演などで、在米ユダヤ系社会で受け継がれる親イスラエルの論調に疑問を呈するフォラーさん。「教わった価値観を信じるのではなく、対立の根源に理解を深めてほしい」。保守的なユダヤ系からは激しい批判も浴びるが、恐れることなく意見を発信する姿に感謝の声も上がっていた。
ガザでの戦闘が始まって以降、国際法を軽視するイスラエルの責任を問い続ける。親イスラエルのトランプ政権下、人道危機の改善の兆しが薄い現状に無力感もこみ上げる。一方で、パレスチナの状況に理解を示す若いユダヤ系にかすかな希望も感じる。
フォラーさんの姿に刺激を受け、少数ながらも声を上げ始めた人々も出てきた。「一人でも多くと関わり、変化をもたらせれば本望だ」。かつての自身から180度生き方を変えた人道活動家として、「同胞」であるユダヤ人の「暴挙」にあらがう。
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新冨哲男 2006年共同通信社入社。大阪社会部、テヘラン支局、政治部などを経て、22年7月からワシントン支局記者。著書に『イラン―「反米宗教国家」の素顔』(平凡社新書)。趣味は読書、音楽鑑賞、ジョギング。