朝ドラ『あんぱん』では描かれなかった戦後漫画もう一つの歴史とやなせたかしが憧れた「手塚治虫以前のハイブロウ漫画家たち」の栄枯盛衰
やなせたかしは「古風な漫画家」になりたかった
朝ドラ『あんぱん』も終盤を迎えている。
ドラマのなかでの漫画家「やないたかし」(北村匠海)は代表作となる「あんぱんまん」を描き始めた。ドラマが企図していたゴールにたどりつきそうである。
モデルとなった「やなせたかし」は長命を保ち、94歳の2013年まで生き抜いた。
90歳を越えてもテレビの取材を受け、毎日、腕立て伏せをやっているのだ、という姿をテレビで見た記憶がある。あまり腕を上下させていないが、あれでも90歳を越えるとけっこう運動になるのだろうな、とテレビ画面を見ながらぼんやりとおもっていたことをおもいだす。もう10年以上昔のことになる。

朝ドラ『あんぱん』公式Xより引用
連続テレビ小説となり、あらためて彼の事績を振り返ると、彼はかなり「古風な漫画家」になりたかったのだな、ということを実感する。
「アンパンマン」の作者は、おそらく彼がまったくのぞんでなかった地平にたどりついたのだとおもう。彼が若いころ望んだ「漫画家」とは全然違う存在になっていった。
私は「手塚以前からあった一コマなどのナンセンス漫画、いわゆる大人漫画」の歴史に強く興味を抱いているので、そちら側の視点から見た「やなせたかしと戦後漫画」について少し振り返ってみる。
日本漫画界に現れた「手塚治虫」の衝撃
日本の漫画の歴史は「手塚治虫」の出現によって変わった。
具体的にいうなら昭和22年(1947)の『新宝島』という漫画の出現によって大きく変わったと言えるだろう。
漫画ないしはそれに似た表現形式はいろんな国にあるのだが、日本でとびぬけて発展し、世界に輸出するような巨大コンテンツとなったのは、手塚治虫の存在があったからである。

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これは彼が亡くなった直後の朝日新聞天声人語に書かれていたとおりだろう。
手塚治虫は、突出したトップの漫画家でありながらも、アニメ作品を作り続け、漫画とアニメが同時に成長させていったところもすごい。彼の壮大な意図はきちんと日本文化に受け継がれている。
手塚が切り拓いた地平にすぐさまに呼応した「漫画を描きたいとおもっていた青年少年」たちによって戦後漫画世界が拓かれていく。
『新宝島』を読んだことによって、藤子不二雄、石ノ森章太郎(石森章太郎)、赤塚不二夫、川崎のぼる、ちばてつや、小松左京、宮崎駿、つげ義春ら錚々たるメンバーが動き始めたのだ。そして、これはいまも名の残る人たちの話であって、この何万倍もの少年が日本中で同時に漫画を描き始めたとおもわれる。
それほどの衝撃であった。
やなせたかしは手塚治虫を無視するサイドにいた
ただ「やなせたかし」はこの衝撃の外にいた。
手塚治虫の『新宝島』は既成の漫画家からは無視されていた。(無視しようとしていた)
やなせは無視するサイドにいた。
手塚治虫から日本の漫画が始まったと信じている者にとって、「手塚治虫の出現は既成の漫画家に無視された」という言葉の意味がわからないだろう。
ただ、手塚治虫の前にも漫画家はいた。
当然だ。手塚も先達の漫画を見て、それを見習うことによって漫画を描いていったのだから。
ただその「昔からの漫画家たち」とその後継者、そして彼らがめざしていた「漫画の世界」は、たぶん、日本から消えた。
そのことについては、あまり自覚されていないようにおもう。

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既成の漫画家は手塚を「邪道」と評した
やなせたかしの『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)に書かれているところから見るに、やなせたかしは手塚治虫とは違う世界にいるときちんと認識していたようである。
以下、『アンパンマンの遺書』から引用する。
――
(『新宝島』という漫画に)当時の漫画少年のすべてははげしい衝撃をうけた。(略)
しかし、既成の漫画家の手塚治虫に対する評価は低かった。ほとんど誰ひとり認めていなかった。
当時の子供漫画界の巨匠「冒険ダン吉」の作者島田啓三は、『新宝島』を見てこう言った。
「これは邪道だ。こんな漫画が流行したら一大事だ。描くのはあんたの自由だが、あんたひとりにしてもらいたい」
「ブッチャーの冒険」を『少年倶楽部』に連載して、人気絶頂だった横井福次郎は、
「手塚君もいいかげんメンコ屋の仕事はよせよ。そんなことでは、漫画家の中には入れないよ」
と忠告した。
――
「『新宝島』はしょせん、お子ちゃま向け」
メンコ屋、というのは子供の遊び、というような意味である。
手塚治虫の『新宝島』は赤本と呼ばれた粗雑な本であり、駄菓子屋などでも売られていた。つまりメンコや駄菓子と並んで売られている本である。
それを「かなり自意識の高い当時の漫画家たち」は認めなかった。
2025年の風景から見ると、言っていることの意味がわからない。
でもそういうことなのだ。
いくら衝撃をうけた人が多くいても、『新宝島』はしょせん、お子ちゃま向けの漫画でしかない。そんなものは漫画ではない、という強烈な自意識が垣間見える。
やれやれ、という気分になってしまうが、でも当時の「大人の漫画家たち」の確かな反応であろう。

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「戦後漫画会の三羽烏」は今や過去の人に
同じ本のなかで、やなせたかしはこう記している。
「戦後漫画会の三羽烏といえば、衆目の一致するところ、横山泰三、加藤芳郎、萩原賢次である」
この三人で、衆目が一致していたらしい。(この本が刊行されたのは1995年/平成7年)
はたしていま、この三人の絵が即座に浮かぶ人がどれぐらいいるだろうか。
ある世代以降、たぶんほとんど知られていないだろう。(昭和33年生まれの私はさすがに知っているが)
いま調べたら、横山泰三と加藤芳郎はウイキペディアにあったが、萩原賢次は採用されていない。完全に過去の人となっている。これはこれでちょっと気の毒である。
ここに大きな断絶がある。
児童向け漫画は「売れている漫画」の対象外
やなせはまた「戦後漫画ブーム」として(だいたい昭和20年代前半から半ばころ)「漫画集団黄金時代がきていた」と書いている。
漫画集団の漫画家たちによって、すべてのマスコミで活躍していた、とする。
それは横山泰三、加藤芳郎、萩原賢次のほか、あとは横山隆一、杉浦幸雄、近藤日出造、清水崑というあたりだろう。
それらが売れている漫画家であった。
手塚治虫や、井上一雄や原一司、武内つなよしなどの名前はあげられない。
つまり児童向けの漫画は、対象には入っていない。
たとえていうなら、子供向け小説は芥川賞の対象にならない、というような感覚だろう。
大人になった者たちは、「子供向けの漫画」はもう、一生、読むことのないものである。
大人は、横山泰三らの世界にやってきて漫画を嗜み、手塚の世界に戻ることはない。
それが当時の日本社会の暗黙の了解であった。
だから、子供漫画が広げるような真似はよしたまえ、という手塚治虫へのアドバイスが出てきたのである。

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「画家」や「芸術家」を目指していた漫画集団
この「漫画集団」の人たち、当時の「大人の漫画」を支えていると信じている人、そしてそこに憧れているやなせたかしも含めて、ものすごく大雑把に言うと、彼らがめざしていたのは「ある種の画家」ではないだろうか。
いや、画家というとちょっと違うのだが、「戦後漫画といえば横山泰三と加藤芳郎と萩原賢次」という風景がわからない人に想像してもらうためにやや強引に言っている。
もっと近い感覚でいえば「芸術家」であろう。
「笑わせることのできる芸術家」を目指していたようにおもう。
「物語」を語ろうとはしていない。物語の欠落が、その後、この社会で消滅する憂き目を見るのであるが、この当時はそんなことはわからない。
自意識は高く、プライドも高く、そしてたしかにその単純化された線はめちゃくちゃ上手い。
漫画は子供に受けやすいものだから、そこは気を付けて「子供を巻きこまないように」きちんと知的な大人に受けるものを作らないといけない。
そういう力の入りようが見えてしまう。
合言葉のように使われた「ハイブロウ」
このころの大人漫画の人たちみんなが口にするのは「ハイブロウ」という単語である。
合言葉のようにみんなが使う。
知識人であることが前提で、教養ある人の行いで、知的営為として認められること、これが「手塚治虫出現以前の大人のための漫画界」の底に流れている気分でもある。
やなせたかしはその芸術のほうにいた。
これは信念の問題ではなく、単に、生まれた世代の問題でしかない。大正8年生まれは、こっちに入るしか選択がなかった。
80年経ったらそれはわかる。
でも当時はなかなか気がつかない。

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「駄菓子レベル」だった手塚治虫の世界が社会を席巻
やなせたかしは芸術家的表現者になるのがひとつ夢であったとおもわれる。
本来は「名犬BON」や「ボウ氏」という漫画で世間を席巻し、できれば世界的に評価されたい、と夢想していたはずだ。
やなせたかしは、手塚治虫のような児童漫画をめざさしてないというか、眼中になかったとおもわれる。たぶん、真似ようにも真似ようがわからない、というあたりだたろう。
でも世界は変わっていった。
「戦後漫画といえば横山泰三と加藤芳郎と萩原賢次」という世界観はやがてまったく共有されなくなる。
この世界を信奉していた人が「駄菓子レベル」と見ていた手塚治虫の世界は、日本の社会を席巻していく。
これは、手塚漫画を読んだ世代が「大人になっても漫画を手放さなかったから」だからだとおもわれる。
「漫画を手放さない」という強い決意をもった世代が成長していったことによって、かつて「子供漫画」と揶揄され、駄菓子と並べて売られていた世界が、世の中を席捲していった。
そっちのほうの歴史は、たぶん、よく知られている。
「大人漫画世界」は静かに消えていった
知られてないのはだから、「戦後漫画といえば横山泰三と加藤芳郎と萩原賢次」と信じていた人たちの世界である。
日本における「大人漫画世界」は静かに消えていった。
当の漫画家たち以外、「大人の漫画」に特化して、そちらに興味を持続している読者がみあたらなくなったということだろう。
なし崩し的に消えた。
文藝春秋漫画賞というのが、大人漫画への表彰を続けていた。
第1回(昭和30年)から谷内六郎、杉浦幸雄、加藤芳郎と受賞している。わかりやすい大人漫画である。
ところが手塚治虫(第21回昭和50年/1975年)まで受賞してしまい、ハイブロウな大人漫画と、「おもしろい漫画」での線引きがわからなくなる。たぶん審査基準にそういう軸を立ててなかったからだろう、選ばれるものが曖昧になって、消え去ってしまった。
また「大人漫画」だけを描いているプロ漫画家がほぼいなくなったからだろう。その純粋な後継者も見あたらなくなった。
2003年にこの賞がなくなったときが、我が国において「ハイブロウな芸術的な漫画」が活動する場所がほぼなくなってしまった。少なくともまとまった分野として見る人がいなくなってしまった。私はそうおもっている。

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やなせのハイブロウな漫画は「未就学児」に受けた
やなせたかしは、その「芸術をめざす漫画」がどんどん勢力を落としていくなかで、どういうわけか、その「大人漫画」ではなくそして「手塚たちの描いた少年少女向け漫画」でもなく、さらにその下の層「未就学児童」に圧倒的に受ける作品を作りだすことになる。
これは誰も手をつけたことのない分野であり、その業績ははかりしれないものであるが、ただ彼の目指していたのとはまったく違う地点に着地していたのもたしかであろう。
ハイブロウな線は、意外なことに未就学児童に受けたのだ。ひとつの奇蹟だったと言える。
もし手塚治虫がなかりせば、『新宝島』なかりせば、ひょっとしたら「ハイブロウな大人漫画」は令和時代になっても一定、残っていたのかもしれない。
もちろんその場合は、この国の「漫画文化を消費する市場」はおっそろしく狭いものであったはずだ。
たとえば「現代詩歌」を愛してその雑誌を毎号買う人とか、「俳句」のための愛好者とか、それよりは少し多かったかもしれないが、でもいまの盛況の何万分の一、何百万分の一だったとおもわれる。
そういう狭い世界でしか、「ハイブロウな漫画」は残る可能性がなかったのだ。
手塚治虫に発する現代漫画の隆盛によって支払わなければいけなかった対価のひとつが、「大人漫画というハイブロウな漫画を愛する世界の消滅」であったと、私はおもっている。商売人の誰ひとり気にしていないことだろう。
私は少し気になっている。