「最愛の娘が突然亡くなり…」俳優ベンビーの決意

沖縄テレビ「O-1グランプリ2012」史上唯一のピン芸人として優勝(写真:沖縄テレビ提供)
五十路にして一念発起した行動の裏に潜む深層心理を丹念に紐解きながら、ベンビーの人生を掘り起こしていく。
【この記事の後編】
→ 「愛娘に続き、母親も亡くして…」「お前、そろそろ本気出して気入れろ」 沖縄No.1芸人の地位を捨て、東京に進出した俳優ベンビーの知られざる挑戦
温厚で優しく、英語が話せる頼れるお兄さん
「昔からわがまま勝手にあちこちに迷惑かけ、好き放題に生きてますね。結構頑固だし、難しい人間ですよ」
【写真で見る】「最愛の娘が突然亡くなって…」「たくさんの景色を見せてあげたい」50歳で沖縄No.1芸人の地位を捨て、東京に進出した俳優ベンビーさん、知られざるその素顔
淡々とした口調で嘯いても謙遜にしか聞こえない。沖縄県内でのベンビーのイメージは温厚で優しく、英語が話せる頼れるお兄さんであり、実際会ってもまさにいい人。SMAP時代の草薙剛のいい人イメージと酷似している。
「イメージがいいっていうのが本当は嫌なんです。なんかあったときに、一気にイメージが崩れていくタイプだろうなと思ってます。そこは僕が作りたくて作ったイメージじゃないので、どうしようもないですけど」

2歳のヨチヨチ歩きのベンビー、隣は父親の自榮さん(写真:ベンビー提供)

どこからどう見てもおぼっちゃまベンビーの小学校入学記念写真(写真:ベンビー提供)
沖縄県中部に位置する沖縄市胡屋で大嶺家の次男坊として生まれたベンビーこと大嶺栄は、沖縄の大自然に育まれながら健康優良児としてすくすく成長していく。
沖縄市の最北端にある北美小学校時代は、担任の先生をノイローゼにするほどわんぱくでありながら、常にテストは満点、授業を聞いただけで完全に理解するほどの異才を見せつける。
「大嶺家は独立心旺盛の暴れん坊の家系で、沖縄市の池原にて石油販売王となったんですが、天から選ばれし者として勉強ができる子が生まれてきた感じです(笑)。教科書を読んでたら、もう全部わかるんです。それで私立の中学に行こうとなって昭和薬科大学附属中学を受験しました。本当にがっつり勉強したのは、試験の1カ月前ぐらいです」
県内No.1進学校の昭和薬科大学附属中学校に合格
大嶺家始まって以来の遺伝子変異として誕生した神童・大嶺栄は6年生の5月から進学塾に通い始め、最初は高度な授業内容に面食らったが半年ほどでトップとなる。
周囲から輝かしい未来が待っていると期待された大嶺栄は、何の迷いも抵抗もなく中高一貫の県内No.1進学校の昭和薬科大学附属中学校を受験し、合格する。県内一の進学校ということで高校2年にはすべてのカリキュラムを終え、残り1年間は受験対策に入る。
「定期テストにしても一夜漬けでしたね。やりたいと思った仕事がひとつもなくて、将来の夢について作文書かされたり発表するのが苦痛で、親父の仕事について憧れてもないし、やりたいと思わなかったんですよね」
一度見たらたいてい覚えられる記憶力を持ち、本気で勉強すれば東大だって可能なのに、夢もなく沖縄から出るつもりもなかったため、「まあ、琉大だったら9月からやれば間に合うだろう」と夏休みも目一杯遊ぶ。夏休み前の模擬テスト800満点中390点だったのが、秋口からちょろっと勉強してセンター試験は610点。第一志望の琉球大学に楽々合格する。
たいした努力もせずに能力だけで過ごしてきたことが、のちに大きな足かせになってくるとは……。
ベンビーは照れ臭そうに何かを思い浮かべながら話す。
「琉大に入ってから学校に行かずに、酒飲んだりして遊んでましたね。毎日、能天気でした」
沖縄の激しく照りつける太陽の光を浴びながら、当たり前のように授業にも出ずに「酒酒バイト酒バイト」の鉄板ローテーションでキャンパスライフを謳歌しまくった。
「結局、単位不足により大学4年時に除籍になりました。しょうがねえなと思いながら、その年の9月にオーストラリアへ留学しました。向こうの大学を卒業しようと思ったんですが、石油販売王として君臨していた大嶺家が傾いちゃったんです。
ビザを取りに帰ってきたときに親父の頭に白髪が増え、それまで完全仕送りだったからさすがにこれ以上は負担かけられないと、1年弱で帰国です。見境もなく思いっきりスネを齧りすぎました」

左:22歳、オーストラリア留学中、お金もないからバリカンでスキンヘッドにしたヤンチャベンビー(写真:ベンビー提供)右:やさぐれベンビーの隣には留学先で知り合ったシンガポールの女の子。今は連絡と取れない(写真:ベンビー提供)
大学は9年かかってなんとか卒業
まさかの富豪大嶺家の没落。呑気に放蕩生活を送っていたツケが回りまわって大嶺栄にも巡ってきたとでもいうのだろうか。
とりあえずやりたいこともないので、入学金を払って琉球大学に3年時編入で再入学する。除籍、留学、再入学と行き当たりばったりの生き方を堂々歩む大嶺栄も25歳となる。結局、大学は9年(在籍7年)かかってなんとか卒業する。
再入学した翌年、たまたま新聞に掲載された芸能事務所オリジンの「お笑いオーディション」の広告を目にしたことが運命の歯車を動かすきっかけとなる。
「小学校からお笑い番組をよく見てました。もともと表立って笑わすタイプじゃなく、近くにいる人にボソボソと呟いて笑いを取ったりする感じでした。お笑い好きの同級生とオーディションに出ようとしたんですが、ネタも書いたことないので、とりあえず観に行くことになったんです。
MCがキャン×キャンで、出場者が終わったあとに2組のプロの芸人が舞台に出て芸を披露し、そのうちのひとりが当時ピン芸人の真栄田賢(スリムクラブ)でめちゃくちゃ面白いんです。『あっ、これだ!』バチコンッときましたね」
当時のオリジンは、キャン×キャン、ハンジロウ、三日月マンハッタン、スリムクラブらも所属するほどで、沖縄では老舗として名が通っているお笑い芸能事務所。プロの芸を初めて見たことで激しい衝動を覚え、3カ月後にはオリジンに所属していた。
今まで進路にしても、頭が良いから進学校に行く、沖縄から出たくないから琉球大学と、常に直感に従って行動してきた。プロのお笑いを見て天啓に打たれ、芸人になるために芸能事務所に入ることに何の不安も迷いもなかった。
「全国デビューっていうのが最低限だったので、東京NSCか沖縄か、どっちが近道かを考えました。奇抜な見た目でもないし、飛び道具的に引き上げられるような芸風ではないと思ったので『東京に行っても埋もれそうだな』と感じ、沖縄でトップをとって目立ったほうが早いなっていうので、地元のオリジンに所属しました」
プロ注目の高校球児がいきなりメジャーに行くか、NPBで活躍してからメジャーに行くかと同じ論法だ。
芸人になった以上、全国で売れないと意味がない
「芸人になった以上、全国で売れないと意味がないと思ってました。沖縄で売れればいいと思うのなら他の仕事でもいいっていう感じがあり、初めて“これだ”っていう直感めいたものがあったのがお笑いでした。それ以降、全部直感に従って動くことになり、やるって決めたものは揺るがなくやりましたね。相談もしないで決断です」
26歳でプロの芸人となり、正式に芸名をベンビーと命名し、高い志をもってピン芸人として舞台に立つことになる。
「3年目に全国で有名になるでしょう」と余裕しゃくしゃくで全国デビューの計画を立てるが、未来予想図は簡単に崩れ去る。これは沖縄芸人あるあるで、“全国”の壁は崩壊前のベルリンの壁よりも高くそびえ立っていた。
「今やるべきことをやってチャンスを待つ」をモットーにベンビーは地道に活動を続けた。事務所内でも核弾頭として「全国やぞ」と皆を鼓舞しながら着実に力をつけていく。
やがて沖縄の賞レースの常連になったベンビーは、沖縄限定の『O-1グランプリ』で唯一となるピン芸人での優勝を皮切りに、『お笑いバイアスロン』準優勝と、ベンビーは名実ともに「沖縄のベンビー」に登りつめる。

今帰仁のクガニファームで農場長としてトラックを運転しているベンビー(写真:ベンビー提供)
転機は突然やってくる。2023年8月に演劇のワークショップを受けたことが人生の針を急速に回転させた。
「ハリウッドでも活動しているボビー中西さんのワークショップを受けたときに『もっと心を開け、もっと相手とつながれ』とずっと言われたんです。
相手にも『おい、お前、ベンビー全然心を開いてないぞ。お前がまだ甘いんだよ。ベンビーの心開いてみろ』って言うので、僕はさらに萎縮して全然できないわけですよ。『これ、沖縄にいては無理だな』と感じて東京へ行こうと決めました」
初めて受けたワークショップで、沖縄では絶対に言われないことを頭から浴びせられ、目から鱗だった。役者に転向して約1年、沖縄のドラマや単館映画にも頻繁に出演し順調だった。
演技は自己流だけど、英語も話せるし、全国的な映画にもいずれ声がかかるだろうと思っていたが、よくよく考えたら沖縄県内では知名度的にほぼマックスに来ていることに気づいてしまった。
ピコーンとアンテナが立ち「東京行き」を決意
「沖縄でこれ以上やってても東京に呼ばれる可能性はないぞ。ダメじゃん沖縄にいたら」とピコーンとアンテナが立ち、「もう沖縄を出ましょう、行きましょう」って感じで誰にも相談せずに東京行きを決意する。思い立ったら吉日だ。
「『イメージできたら実現できる』と後輩たちにずっと言ってきたので、イメージして常に夢を語り合い、タイミングを常に見計らっていました。東京行きはちょっと時間かかったかなって感じです。
まあ、いずれ来るだろうっていう感覚だったので。ようやく時が来たって感じですね」

ボビー中西は、日本からハリウッドまで延べ8000人もの俳優を指導している(写真:ベンビー提供)
26歳で芸人デビューし、3年目に全国デビューして有名になるはずが芸歴24年目にして東京進出。ちょっと時間がかかったどころの騒ぎではない。
でも「人生100年時代」を地で行くベンビーにとっては、そうたいしたことではない。
沖縄を離れることでレギュラーのテレビ、ラジオなど心身ともにいろいろと調整してからの年明け1月下旬にライブで発表し、翌日地元新聞を通して東京進出を告知すると、反響がもの凄かった。
「50にして」の枕詞
「ちょっと行ってきます、の感覚で発表したんですけど、周りからは『50からって凄いです』『何も決まってないのに凄いですね』といった声があまりに多く、なんだか少しだけ不安になりました」
今までの人生で不安を感じたことのないベンビーだっただけに、周囲の反応に戸惑った。
周りがあまりにも“凄い”を連発する。単純に額面通りの賞賛の言葉ではなく、不安視する意味も含まれているのが手に取るようにわかった。
「50にして」の枕詞も妙に響いた。母の文枝も「あんた、50って言ったら人生くだり坂だよ、どうする?」と言ってくる始末。

クガニファーム工場長として仲間にも羊にも優しく(写真:ベンビー提供)
「本当は『歳関係ないぜ』って声高らかに言いたかったんだけど、ちょっと強がってるみたいだし、『歳関係ないぜ』も言いたくないぐらい、自分の中では歳関係ないんですよね」
25歳まで大きな波風もなく生きてきたベンビーにとって、分岐点では常に己の直感に従い、自然体のままやってきた。それは今でも間違ってないと自負する。
しかし、直感や純粋な心だけではどうにもこうにもならない出来事がベンビーに襲いかかっていたのだった。
東京移住する4カ月前の11月下旬、最愛の娘さんが突然身体の不調により亡くなった。
ベンビーの母校である昭和薬科の高校3年生で、東京の大学を進学希望ということで一緒に住む話までしていた矢先だっただけに、ショックは計りしれない。
たくさんの景色をいっぱい見せてあげたい
「亡くなったっていうのはもちろんわかってるんですけど、なんだろうな……、東京の家にも写真をずっと置いているし、いつも一緒にいる感じです」
人間の死が平等であるといっても、受け取る側によって重みは絶対に違う。
芸人である前に父親としてベンビーこと大嶺栄はいったん立ち止まったりもしたが、いろんな思いをのみ込んだ。
そして再び前を向いた。いや向くしかなかった。
娘さんの写真を鞄に忍ばせて、いつも一緒にいると思っている。
たくさんの景色をいっぱい見せてあげようと、ベンビーは見知らぬ土地である東京へと出発するのであった。

SDGs関連イベントや講演にて持続可能な開発目標のSDGsマンのベンビーは、日夜闘い続けた(写真:ベンビー提供)
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沖縄No.1芸人の地位を捨て、東京に進出した俳優ベンビーの知られざる挑戦