部下を「特攻」に出すことを拒否し続けた「戦闘三〇三飛行隊」の、じつは特攻隊以上に壮絶だった「沖縄戦」の全容

部下を「特攻」に出すことを拒否し続けた「戦闘三〇三飛行隊」の、じつは特攻隊以上に壮絶だった「沖縄戦」の全容
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年3月26日、アメリカ軍が慶良間諸島、次いで4月1日には沖縄本島に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。あれから80年――。地上戦ばかりがクローズアップされがちな沖縄戦だが、航空部隊も、押し寄せる敵の大軍に一矢を報いようと必死の戦いを繰り広げ、多くの若い命が失われた。戦力が圧倒的に劣る絶望的な戦況のなか、沖縄の空を飛んだ男たちは何を見たのか。大正生まれの登場人物はいまや全員が故人だが、彼らの生前に筆者が重ねた直接インタビューをもとに3回にわたってお届けするシリーズ第2回は、学窓から身を投じ、ペンを操縦桿に持ち替えて戦った学徒出身パイロットの戦いに焦点を当てる。
学徒出身の搭乗員たち
沖縄の空で戦ったのは、海軍兵学校や飛行予科練習生(予科練)を卒業した、いわゆるプロの軍人ばかりではない。大学や専門学校(旧制)を卒業、あるいは在学中に志願、あるいは召集されて軍に入った、学徒出身の搭乗員も次々と最前線に投入された。東京の豊島師範学校を卒業、小学校教員を経て海軍飛行専修予備学生十三期生を志願した元山(げんざん)海軍航空隊の土方敏夫中尉(当時23歳、のち大尉)も、その一人である。
「朝鮮半島の元山基地にいた私たちにも、4月6日、鹿児島県の笠之原基地に進出が命ぜられました。まずは分隊長・山河登大尉が主力を率いて進出し、4月8日、私が第二陣の零戦12機を率いて笠之原に到着しました。このときの持ち物は、零戦に積めるだけのもの、すなわち通称『落下傘バッグ』一個だけ。中身は洗面用具、新しい下着、野立て用茶道具一式、数学の本を1冊、ぐらいです。」
「元山から4時間半飛行して、狭い笠之原飛行場に着陸。そこで、山河分隊長の戦死を知らされ、愕然としました。山河大尉は私たちが到着する前日の4月7日、特攻隊の直掩で出撃し、激しい空戦を終えて帰投する途中、エンジンオイルが漏れて海上に不時着水、零戦に積んでいたゴムボートの上で軍艦旗を振っていたそうですが、その後の消息はわからないと。
山河大尉は兵から叩き上げ、ガダルカナル戦を経験した歴戦の特務士官ですが、素晴らしい人格者で尊敬する分隊長でした。その空戦の神様のような人がまさかエンジンのオイル漏れで戦死するとは、運命というか、人の命の儚さを思い知らされたような気持ちで、涙がとめどもなく溢れました……」
土方は翌4月9日の邀撃戦を皮切りに、沖縄をめぐる激戦に明け暮れることとなる。
「4月11日、士官宿舎で夕食のデザートにあんみつが出ました。すると、近くにいた士官たちが、『またあんみつが出たな。明日はきっと激戦だぞ』と言う。ここ笠之原では、大きな作戦の前の晩には必ずあんみつが出るんだそうです。そうか、これが最後の好物なんだ、と思い、味わって食べました」
明くる4月12日、「菊水二号作戦」に出撃。ところが、土方はこの日の発進時、乗機のエンジンが不調で離陸が遅れ、本隊を追ったが空戦に参加できずに引返した。
戦闘三〇三飛行隊
4月14日、土方は、第二〇三海軍航空隊司令・山中龍太郎大佐より、元山空零戦隊は乗ってきた零戦ごと、鹿児島の鴨池基地で作戦中の二〇三空戦闘第三〇三飛行隊に編入するとの指令を受けた。戦闘三〇三飛行隊長は、真珠湾攻撃以来歴戦の岡嶋清熊少佐、隊員には、「零戦虎徹」を自称する岩本徹三少尉や、谷水竹雄上飛曹などのベテラン搭乗員が揃っている。
「元山から乗ってきた零戦は、われわれは六三型と呼んでいましたが(じっさいには五二丙型か)、20ミリ機銃2挺、13ミリ機銃3挺に防弾板も装備し、重武装、重装甲ではあるものの、鈍重な感じがしました。それで、このままでは敵戦闘機との空戦には向かないんじゃないかということで、少しでも軽くしようと操縦席後ろの防弾板と主翼の13ミリ機銃2挺をおろし、20ミリ機銃2挺と13ミリ機銃1挺という、五二乙型と同じ仕様に変更したんです。
先に転勤していた同期生から戦闘三○三飛行隊のことをいろいろ教えてもらいました。隊長の岡嶋少佐は隊員みんなから尊敬されていて、さばけた面もある代わり、間違ったことをするといきなり拳銃をぶっ放すから用心しろ、と言う。岩本徹三少尉は、ライフジャケットの背中に『天下の浪人虎徹』と書いてあるからすぐにわかる。見かけは田舎の爺さんみたいだが、いったん空に上がれば向かうところ敵なしの、古参の撃墜王であると。先任搭乗員の谷水竹雄上飛曹、元山空から一緒に転勤してきた山口浜茂上飛曹、西兼淳夫上飛曹らも歴戦のつわもので人柄もよく、教わることが多かったですね」
命がけの初陣
4月22日、戦闘三〇三飛行隊は沖縄沖の「KDB」、すなわち敵機動部隊索敵攻撃(敵艦隊を探しながら飛行し、発見すれば攻撃する。KDBとは日本海軍の用語で敵機動部隊の略)を命ぜられ、土方は、分隊長・蔵田脩大尉の三番機として搭乗割が組まれた。出撃前、蔵田大尉は土方を呼んで、
「今日はどんなことがあっても私にしっかりついて来い。敵機を墜とすなどとは考えるな。戦闘機乗りは初陣で戦死する率が多い。戦場慣れすれば撃墜の機会はいくらでもあるから、とにかくついて来い」
と厳しい口調で注意を与えた。土方は、身の引き締まる思いでそれを聞いた。
「喜界島を過ぎたあたりでOPL(光像式照準器)を点灯し、機銃の試射を行い、筒温計の温度が180度を保つようカウルフラップを調節します。沖縄の少し手前を東寄りに飛ぶと、突然、分隊長機が増槽を捨てた。これにならって全機、増槽を切り離します。
いよいよか、と思っていると、蔵田大尉が左下方を指さした。もう空戦は始まっています。しばらく左旋回で様子を見ながら飛んでいた分隊長機がいきなり急降下、待ってましたとばかりにそれに続きました。
そのとき、1機のグラマンF6Fが、私たちの針路を右から左に横切るように上昇してきたんです。黒のような濃紺の機体に、白い星のマークがはっきり見えた。これはチャンス! と思ったら、分隊長機は左へ急上昇してゆく。もったいない、と思いました。私には目の前のグラマンのことしか見えてない。私は分隊長機から離れ、どんどんグラマンに近づいていきました。敵機がものすごく大きく見え、ここぞというところで、20ミリと13ミリを同時に発射。距離は、おそらく50メートルから100メートルの間だったと思います。操縦席の後ろあたりに、私の撃った弾丸が命中するのが見え、敵機から白い煙が出ました。やった! と思う間もなく、白煙は黒煙に変わり、黒い尾を引きながらグラマンは墜ちていきました」
土方ははぐれた分隊長機を追い、幸いにして追いつくことができたが、そこからが大変だった。一瞬でも水平直線飛行をすればたちどころに敵機の餌食になるから、空戦中はつねに機体を滑らせながらのスローロールの連続である。分隊長機について飛ぶのに精いっぱい。遠くに敵機動部隊の艦影が見える。眼下の海面には、大きな円状の紋がいくつも広がっていた。飛行機が墜ちた場所を示すガソリンの痕である。
「この大馬鹿者!」
「空戦が終わり、編隊を組もうと分隊長機に近づいたら、その風防に大きな穴が開いていて驚きました。分隊長機がいつ撃たれたのか、私には全然わからなかったからです。
着陸して、指揮所で『グラマンF6F 1機撃墜!』と意気揚々と報告すると、蔵田分隊長に『この大馬鹿者! あれほど言ったのになんで離れたんだ。今日はまったく運が良かったから還ってこられたが、普通なら戦死である!』と大目玉を喰いました。
叱られて意気消沈していると、二番機と四番機の下士官搭乗員が、『分隊士(土方の職名)、撃墜するまでに別のグラマンから二度も撃たれてたんですよ。私たちが掩護していたので良かったですが』と言う。それでますます頭が上がらなくなってしまいました。まさか自分が狙われてるなんて、気づいてもいなかったですからね。
この日、私が見た敵機は、撃墜したF6Fの1機だけでしたが、ほかの搭乗員に聞くと、ものすごい乱戦だったとのこと。海上に咲いたガソリンの紋章の多さからもそれは明らかなんですが、無我夢中とは、まさにこのこと。まったく周囲が見えていなかった。いまもこのときのことを思い出すと、恥ずかしくて顔が火照るような思いがします」
一寸先は闇
戦闘三〇三飛行隊は、沖縄方面の敵機掃討、特攻隊直掩、九州に来襲する敵機の邀撃など、連日のように出撃を重ねた。現存する土方の航空記録を見ると、沖縄戦の期間中、ほぼ連日のように出撃を重ね、酷使されているのが見てとれる。
「ある日、朝から邀撃に上がり、燃料、弾薬の補給に着陸、プロペラを回したまま機上で弾丸の補充を待っていると、まだ10代の若い二飛曹が主翼に駆け上ってきて、『分隊士、交代します!』と元気のいい声で叫びました。『大丈夫、まだ疲れていないから、俺が飛ぶよ』と言っても彼は引き下がらず、私の肩バンドを外しにくる。ついに根負けして交代し、彼はニッコリ笑って離陸していったんですが、ちょうどそのとき、グラマンF6Fの編隊が上空から突っ込んできて……彼の機は一瞬で火だるまになって鹿児島湾に墜落した。私は呆然としてそれを見ていました。一寸先は闇、その闇は神のみぞ知る世界なのだろう、というようなことをふと考えました」
5月11日、「菊水六号作戦」が実施され、人間爆弾「桜花」特別攻撃隊、第五筑波隊などの特攻隊と、特攻隊の突入を成功させるため、敵機を掃討する任務を負った制空隊の戦闘機が出撃した。
プロ野球名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)投手で予備学生十四期を経て零戦搭乗員になった石丸進一少尉や、当時、全国の映画館で上映された「日本ニュース」171号で、上野公園西郷隆盛像前の早稲田大学壮行会で、壮行の辞を述べる姿が報じられた予備学生十三期出身の岡部幸夫中尉(早大相撲部)らが戦死した日である。
「この日、戦闘三〇三飛行隊は、稼働機数全機、確か32機で参加しました。指揮所には高々とZ旗が掲揚されます。やはりこの旗が掲揚されると、気持ちが高揚しますね。指揮所付近には基地の人々が並び、帽を振って見送ってくれます。それに手を振って応えながら、編隊で離陸していくときの気持ちは、何とも言えません。戦闘機乗りになって良かったなあ! というのが偽らざる気持ちでした。
32機ぐらいの編隊になりますと、自分の周りは零戦だらけで、とても心強い感じがしたものです。
空戦は、命を賭けた殴り合い
空戦は、沖永良部島を過ぎたあたりで始まりました。上から降ってきたのはグラマンF6Fの編隊です。あっという間に混戦になりました。味方機が散り散りになり、私の列機も付近には見あたらない。とにかく、大きくスローロールをうちながら、半分以上は後ろを見ながらの操縦でした。
敵機の主翼前縁いっぱいに12.7ミリ機銃6挺の閃光が走ったかと思うと、翼の下に機銃弾の薬莢が、まるですだれのようにザーッと落ちるのが見える。体をひねり、首をいっぱいに回して後ろを見ながら、敵機の機銃が火を噴くと同時にフットバーを蹴飛ばし、フットバーとは逆方向に操縦桿を倒し、機体を急激に滑らせて敵弾をかわす。横滑りのG(重力)で、体が操縦席の片側に叩きつけられますが、そうしないと命がない。空戦は、命を賭けた殴り合いの喧嘩だと思いました。
なにしろ敵機の数が多すぎ、上から降ってくる敵機をかわすのが精一杯で、高度も次第に下がる一方です。私よりさらに下方で空戦が行われていますが、誰がやっているのかまではわかりません。とにかく助けに行こうと、機体を滑らせながら突っ込んでいくと、いきなり上方から射弾の雨が降ってくる。これをまたかわしながら、必死になって立て直そうとするんですが、右に、左に滑らせるのがやっとで、かわし切れたときには、下方の乱戦は見えなくなっていました。
空戦が終わり、味方機が見当たらないので一人で還る決心をしましたが、来たときはよい天気だったのに、いつの間に出たのか、不連続線の雲がべったりと垂れこめて海面が見えない。仕方なく雲の下に出たら、強い雨で海面は真白く湧き立ったように見えるほどでした」
高度50メートルの低空を、波頭を眼下に見ながら飛んでいると、無線電話の声がとぎれとぎれに聴こえてきた。
「コチラ山口、我機位ヲ失ウ」
山口浜茂上飛曹のようだった。飛行隊きってのベテラン搭乗員だが、雲のなかで機位を見失ってしまったらしい。土方は、
「我機位ヲ失ウモ方位23度ニテ『スコール』ノナカ直進中、コチラ土方」
と応じたが、山口上飛曹はそれきり行方不明になった。
「やっとの思いで着陸して報告、指揮所のなかで休んでいたら、遅れて長田延義飛曹長機が還ってきました。長田飛曹長は、
『今日はひどい戦いでした。左翼に弾を喰らって火を噴き、もう駄目かと思いましたが、自動消火装置のおかげで、命拾いをしました。私も初めてでしたが、うまく作動したので助かりました』
と言う。零戦に自動消火装置がついていることは聞いていましたが、じっさいに役に立つとは思っていなかったので驚きました。さっそくみんなで長田飛曹長の乗機を見に行くと、弾痕がしっかり残っていて、炎で塗装が焼けたところは真っ白になっていました」
防弾装備の脆弱さばかりが指摘される零戦だが、昭和19年後半に生産された五二型以降には、炎を感知すると液化炭酸ガスを燃料タンクに噴出させる自動消火装置が装備されている。空中で火が消え、命拾いをした長田飛曹長は、そのわずか3日後の5月14日、沖縄上空の空戦で戦死した。乱戦で、海軍屈指のベテラン搭乗員・岩本徹三少尉でさえ、乗機を敵弾で穴だらけにして帰投することもあった。人間爆弾「桜花」の直掩で出撃したこともある。このとき、桜花が母機の一式陸攻から切り離され、一直線に敵艦に向かっていく姿を、土方は涙とともに見送った。
死に方は選べない
同期生や、元山空から一緒だった戦友たちも次々と空に散ってゆく。
6月7日には、米陸軍の新型戦闘機・リパブリックP-47サンダーボルトとの空戦で、西兼淳夫上飛曹が戦死。西兼上飛曹は、先に戦死した山口上飛曹とともに、元山空以来、土方が操縦の師と仰ぎ、頼りにしていたベテランだった。
「戦闘機の戦いは、映画で見る陸軍の戦いのように、血だらけになった相手の顔を見るようなことはありません。青い空、白い雲、そびえ立つ雲の塔が舞台で、その中で自分の技倆で精一杯の操作で飛び回るのが空戦です。幽女が髪の毛を振り乱して乱舞するような形で、黒煙を吐きながら、被弾した飛行機が青空に大きな弧を描いて墜ちていきます。海面には、撃墜された飛行機の油が円形になって浮かんでいます。
いつかは、俺もあのように終焉を迎えることになるな、とは思っていましたが、それは、実感として迫ったものではありませんでした。飛び立つときは、必ず還ってくると思っていました。しかし、戦いの日々が重なると、夜半に目が醒めると汗がびっしょりで、雑念が浮かんでなかなか眠れないこともありました。
どんな撃墜のされ方が良いかと考えたこともあります。どうせ背中の防弾板を降ろしたのだから、後ろからしっかり射抜いて欲しいとか、飛行機がやられ、火を噴いた座席のなかは熱いだろうな、とか。練習をしたことがないのに、落下傘でうまく降下できるだろうか。もしできても、海を漂流し、鱶(サメ)の餌食になるのはいやだ。……などなど、考えればきりがありません。死に方は自分で選択できるものではなく、これこそ運命なのだ、と割り切るまでには時間がかかりました。結局、実行したのは、邀撃戦で味方の上空で戦うときには、落下傘バンドに落下傘を固着して飛ぶ。沖縄へ空襲のような場合や、洋上、敵地上空での戦闘の場合には落下傘は固着しないで飛ぶ、ということでした」
5月下旬、同盟通信社(現・共同通信)の記者が、戦闘三〇三飛行隊を取材に来た。そこで土方がインタビューを受けた記事が、「学鷲(がくしゅう)土方中尉の奮戦」との見出しで新聞各紙に掲載された。
「味方がいっせいに投下した増槽の一つが後下方から接近中のグラマンに命中、墜落したことや、ある下士官搭乗員が、自機のプロペラでグラマンの翼を切り裂いて撃墜したなどのエピソードが掲載されていました。その零戦は、プロペラにグラマンの塗料がべったりとついていて、まるで返り血のようでした」
「我が隊から特攻は出さない」
激戦のなかでも、ホッとするひとときもあった。
「虹は半円形のものと思っている人がほとんどではないでしょうか。あるいは、旅客機に搭乗し、窓から丸い虹を見た人もいるかと思います。
私が丸い虹を見たのは、沖縄戦で鹿児島基地を飛び立ち、屋久島の上を過ぎ、そろそろ奄美大島が左手に見える頃でした。下の方は真っ白な雲の絨毯で、ところどころに雲の峰がそびえ立ち、美しい光景に見とれているとき、飛んでいる下方に円形の虹が見えました。
へぇ、虹は上から見ると丸いものなのだ、ということをその時はじめて知りました。自分の眼が円錐の頂点にあって、そこから底面を見ている具合ですから、虹が丸く見えるのが本来の姿なのですね。地上にいる私たちは、円錐形の底面の半分を、地平線もしくは水平線によって区切られますから、半円の虹しか見られないわけです。この丸い虹を見たときは、戦闘機乗りになって本当に良かったと思いました。これから行く先は地獄と知りつつも、円形の虹は実にきれいに見えました」
敗色濃厚な激戦のなか、土方たち戦闘三〇三飛行隊の士気と結束が高い次元で保たれていたのは、隊長・岡嶋清熊少佐の人望によるところが大きい。
岡嶋少佐は、前年、フィリピンで特攻作戦がはじまったときから、「特攻反対」の意志を明確にしていた。戦闘三〇三飛行隊に、特攻要員を抽出するよう要請がくるたび、「我が隊から特攻は出さない」と突っぱね続けたという。
「空戦で死ぬのは、自分の技倆が敵より劣っていたためだから仕方がない。特攻は、志願書に『熱望』と書いて出したものの、私は率直に言って嫌でした。戦闘機乗りは最後の瞬間まで戦い続けるのが本来の使命だと思っていたからです。だから、上層部に国賊呼ばわりされても部下を特攻に出さなかった岡嶋隊長をみんな尊敬していたし、この隊長のもとで戦うことを誇りに思っていました」
民草を守るのは…
6月17日、鹿児島市がB-29の空襲に遭い、市街のほとんどが灰燼に帰した。戦闘三〇三の搭乗員たちも、城山に掘られた横穴式の防空壕で寝泊まりするようになった。
「ある日、綿のように疲れて、同期生の杉林泰作中尉と二人、ライフジャケットを肩にかついであぜ道を防空壕に向かっていると、向こうから鍬を肩にかついだお婆さんと幼稚園児ぐらいの女の子が手をつないで歩いてきました。思わず『ご苦労さま』と声をかけると、二人はお辞儀をして、『兵隊さんも大変ですね』と言ってすれ違っていきました。
そのとき、何か胸にこみ上げてくるものがあって、思わず杉林に、
『おい、俺はいま、あのお婆さんと女の子のためなら死んでも悔いはないと思ったよ』
と声をかけると、彼も、
『貴様もそう思ったか。俺もいま、全く同じことを思っていたよ』
と。この緑豊かな国土、か弱いお婆さんやかわいい子供たちを守るのは、俺たちをおいてほかに誰がいるのか、というのが、当時の若者に共通した思いだったんです。これは、本職の軍人も、私たちのようにペンを操縦桿に持ち替えた臨時雇いの予備士官も、変わるところはありませんでした。杉林中尉はその後、7月25日、大分県宇佐上空の邀撃戦で戦死しました」
特攻隊こそ出さなかったが、戦闘三〇三飛行隊は、89名の搭乗員のうち38名が沖縄戦から終戦までの間に戦死、戦死率は43パーセントにのぼっている。これは、たとえば特攻専門部隊として編成された第二〇五海軍航空隊(103名中特攻戦死者35名)よりも高い数字だった。