天才哲学者が語る「殺人は悪」という道徳すら絶対のものではないという現実
光文社新書では、出口康夫教授が提唱する「WEターン」※のアイデアを広く世に伝えることを目的として、出口教授に継続的なインタビューを行っています。その中で、出口教授と、ドイツ史上最年少哲学正教授になった天才として名高いマルクス・ガブリエル教授との交流、二人の哲学的立場が非常に近いこと、そして二人が対話を深める場を望んでいるというお話を伺いました。
そこから実現したお二人の対談本『これからの社会のために哲学ができること 新道徳実在論とWEターン』(光文社新書)より、ふつうの “われわれ”が絶望の時代をより善く生きる助けとなる考え方を紹介します。
※WEターン:すべての行為は単独ではできず、「わたし」を取り巻く他の人やものによって支えられているという出口教授の主張。詳細は本書1章をお読みください
二人の哲学者の出会い
――(編集者・以下同)哲学的な立場が非常に近いお二人ですが、実際にお会いになったのは、比較的最近のことと伺っています。
出口康夫教授(以下出口) 最初にお会いしたのは2024年の初め、2月でしたね?
マルクス・ガブリエル教授(以下ガブリエル) はい、そうでした。
出口2023年の夏、僕は、NTTと共同で「京都哲学研究所(KIP)」という哲学研究機関の設立に参画しました。現在ではNTTの他に日立製作所、博報堂、読売新聞が理事会社として参画しています。
この研究所の重要なミッションの一つが国際的なネットワークの構築ですので、現在、共同代表理事を務める僕とNTTの澤田純会長で、海外のさまざまな研究機関を訪問しています。その一環としてドイツはハンブルクのThe New Institute(TNI)を訪れた際にマルクスさんにもお会いし、その後、ボン大学でもお話ができました。
近年、哲学に対する社会的ニーズが再び高まっています。産業界、公共機関、NGOやNPOなど、社会の多くのプレーヤーが哲学的な知、哲学の言葉を改めて必要としていると言えます。KIPの設立は、日本におけるそうした動向の一つの現れだともみなせます。
一方、ヨーロッパでは、マルクスさんが僕たちと非常によく似た問題意識を持ち、先進的な活動をされていると伺い、ぜひお会いしたいと思いました。

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ガブリエル 私は、ヤスオさんのWEターンに関する活動を、アンドレイ・ツヴィッター氏から紹介されました。彼は持続可能な開発目標(SDGs)の未来や、人間の非物質的な側面における持続可能性について研究しています。アンドレイの所属するフローニンゲン大学と大阪大学は協力関係にあるので、彼は頻繁に日本を訪れています。
そのアンドレイが私に「ヤスオ・デグチを読むべきだ」とすすめてくれたんです。それで、ヤスオさんの論考が掲載されているメタサイエンスに関する本を読みました。ちなみに、ヤスオさんが「WEターン」の構想に着手されたのは、いつ頃だったのでしょうか?
良い偶然が2人を引き合わせた
出口2016年の12月ですから、もう8年ほど前になります。当時、私は、道元の自己観と、西田幾多郎の後期の自己論を集中的に研究していました。この二人の思想が、WEターン構想の重要な着想源となりました。
ガブリエル なるほど。その後、ヤスオさんがボンに来られた際に、夕食をご一緒しました。
実はあの日、お会いできたのは偶然だったんです。ヤスオさんがボンに来られる日、私はフランスの科学大臣と会うために、ボンを離れる予定でした。しかし、大臣がその夜に急遽体調を崩され、予定がキャンセルになりました。そのおかげで私はボンにとどまり、ヤスオさんと夕食を共にすることができたのです。

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出口 僕たちにとっては、良い偶然でしたね。
ガブリエル 幸運な偶然でした。その夜、お話しするうちに、私たちの研究がいかに近いものであるかを実感しました。哲学において最先端の何かと遭遇したときには、起きるべきものが起きるべくして生じているという感覚を抱くものですが、WEターンについて聞いているうちに、私はそのような感覚を抱きました。
人々は、AIのような知覚能力をもたない存在でも道徳的な地位をもちうるという考えを語ることがありますが、WEターンはそのようなアイデアを最も説得的な形で体系立てて展開していたためです。
価値多層性を標榜する「WEターン」
出口 僕もマルクスさんの道徳実在論の考えには大変刺激を受けました。道徳の実在性はWEターンにとっても参照すべき重要なアイデアだと思います。
価値多層性を標榜するWEターンは、自らの主張を絶対的なもの、ないしは、誰もが採用すべき考え、どの社会にも通用するアイデアだとは見なしていません。あくまで、それは、ワン・オブ・ゼムの人間観・世界観・社会観・価値観の提案にすぎないのです。
とはいえ、WEターンは「なんでもあり」という相対主義とは一線を画します。そして相対主義との差異化を図る際に、道徳的実在論は重要な役割を果たしうると思われます。

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社会がWEターンしたからと言って、直ちにユートピアやパラダイスが実現するわけではありません。「善いわたし(Ⅰ)」も「悪いわたし(Ⅰ)」もいるように、「善いWE」も「悪いWE」も存在するからです。従って重要なのは、何が善いWEで、何が悪いWEかを見定めることです。
WEターンはWEターンなりに「WEの善さ」と「WEの悪さ」を定義します。WEターンに賛成する人、「WEターナー」は、このような定義に同意してくれるとしても、そうでない「非WEターナー」は必ずしもそれらに賛成してくれるとは限りません。
WEターンにも存在する「譲れない一線」
出口 彼らが「WE」の「善し悪し」について語ったとしても、彼らの言う「善悪」がWEターンの考える「善悪」とズレる可能性もあるのです。そして、WEターンは、そのことを容認します。複数の異なった「善いWE」「悪いWE」の定義が並び立ちうると考えるのです。
しかしWEターンにも「譲れない一線」があります。それは、そもそも「WE」ですらない「WE」、言い換えると「悪いWE」ですらない、「WE」そのものを自己破壊し、自己解体するような「WE」、「WE」を無化しゼロ化する「WE」、すなわち「ゼロWE」は断じて許されないという点です。これが相対主義とWEターンとを画する一線なのです。

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「WE」とは共同の身体行為の主体としてのマルチエージェントシステムです。「ゼロWE」とは、そのような共同行為自体を自己否定する行為とも言えます。それは、例えば、WEの多くのメンバーの生存の基盤である自然環境を破壊する行為や、WEのメンバー間の対話やコラボレーションを拒絶する行為、さらには、WEのメンバーの存在意義を否定し、それらが存在していたという事実自体を抹消することで、その存在自体を「駆除」しようとする行為です。
これらの「WEをゼロ化する行為」に対する「譲歩なき禁則」の背後には、マルクスさんの言葉を借りれば、「してはならない」ことを指し示す「否定的な道徳的事実」があるとも言えます。マルクスさんの道徳的事実は肯定的なものですが、ここにあるのは、その裏返しとしての否定的な側面です。いずれにせよ、これもまた一つの道徳的事実と呼べるのではないでしょうか。
道徳的事実―溺れている子どもは助けなければならない
ガブリエル はい、その通りだと思います。私が道徳的事実について語る際、たとえば「溺れる子どもを助けるべきか」といった、明白で極端な例を挙げることがあります。これは、議論の前提となる、「共通の道徳的直観」を確認するためです。

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もちろん、世の中には道徳的な問題とそうでない問題を混同してしまうことがあります。哲学者のポール・ボゴシアンが指摘するように、「エチケット」の問題があります。エチケットは倫理のように受け取られることもありますが、実際は単に文化的なもので、深い道徳的な意味は特にありません。
たとえば、箸の使い方やお茶碗の持ち方は、その文化共同体に属していない限り、通常は道徳的な問題ではありません。ドイツ人の私がうまく箸を使えなかったとしても、それを非道徳的だと責める人はいないでしょう。
しかし、文化共同体内部では、作法を通じて道徳的な立場が示されることもあり得ます。人々は、単なる文化的な慣習を道徳的なものと感じてしまうことがありますが、実際にはそうではない場合もあるのです。
その一方で、文化を超えて共有される明白な道徳的事実というものも存在します。たとえば、東京の駅で誰かが車椅子の人を階段から突き落としたとしたら、文化的な背景にかかわらず、誰もが衝撃を受け、「これは悪いことだ」と言うでしょう。
新しいプロジェクトが生まれる可能性
ガブリエル ここでWEターンが登場します。これらの明白な道徳的事例には、何らかの共通のパターンがあるはずです。なぜ私たちはそれらを「明らかに善いこと」や「明らかに悪いこと」として認識するのか。
WEターンは、マルチエージェントシステムにおける要素間の調和や不調和、配置といった観点から、この問いに答えるための概念的なフレームワークを提供できると思います。
先ほどの車椅子の例をとってみても、そこには階段を下りる多くの人々、車椅子に乗っている人、その人の脆弱性、車椅子の製造者、障害の歴史など、無数の要因が絡み合っています。WEターンの視点を用いれば、そのネットワークのどの配置が「善」であり、どれが「悪」であるかを分析することができます。

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ヤスオさんが描くWE――現実のWEも、可能性としてのWEも、ゼロWEも、最大限安定したWEも――、すべて客観的な事実として存在します。ヤスオさんは、明らかにWEに関する実在論者です。したがって、私の道徳実在論とヤスオさんのWEターンを組み合わせることで、道徳的状況を分析するための新しいプロジェクトが生まれる可能性があると思います。
さらに、AIシステムを導入することも考えられます。異なる文化の人々に、さまざまな事例について「善い」「悪い」「中立」といった判断をしてもらい、データベースを構築します。そしてAIを用いて、どの事例が普遍的な道徳に関わるもので、どれが単なる文化的な慣習なのかを識別するのです。そのうえで、WEターンを概念的ツールとして装備したAIに、WEマップのようなものを作らせれば、価値の空間における発見につながるでしょう。
具体的倫理
出口 マルクスさんの「具体的倫理(Concrete Ethics)」という考え方にも、非常に感銘を受けました。WEは常に特定の「状況」の中に置かれており、状況から切り離されたWEは存在しません。WEの普遍的な構造や特徴について抽象的に考えることは可能ですが、現実のWEは常に具体的な文脈の中にあります。
それは、社会的、経済的、歴史的な文脈における身体的な行為を取り巻く環境に深く根ざしているからです。したがって、あらゆる道徳的判断は、その特定の文脈の中で考慮されなければ意味をなしません。
ガブリエル まったくその通りです。
出口 概念的なレベルでは、「原則」と「適用」を区別することは可能です。しかし、それはあくまで思考上の整理であり、現実的な区別ではありません。おそらく、マルクスさんは、「上にある原則から下にある適用へ」という一方的な関係には満足されていないでしょう。むしろ、原則と適用の間の相互的、双方向的な関係を考えておられるのではないでしょうか。
それは、私自身が長年考えてきた倫理観、原則と適用の関係についての考えと非常に近いものです。普遍的な意味を持つガイドラインから始めることは、概念的な道具として有用です。

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しかし、その道具は常に具体的な文脈の中で問い直されなければならず、疑う余地のない前提として固定されるべきではありません。原則と適用の関係は常に双方向的であるべきです。この考え方は、あなたの「具体的倫理」の考え方と非常に似ていると思いますが、いかがでしょうか?
ガブリエル はい、まったくその通りです。倫理に関する規則を定式化しようとすると、その規則が抽象的すぎたり、普遍的すぎたりして、実際には何をすべきかを教えてくれないことがよくあります。
ウクライナでの戦争を例に
ガブリエル 古典的な例として、「功利主義」の主張を考えてみましょう。「できるだけ多くの人々の幸福を最大化する行為が善いこと」と信じるとします。しかし、先ほどの車椅子のケースで、もし車椅子の人以外の全員が、その人を突き落とすことに喜びを感じると仮定したら、この原則は「突き落とせ」と命じることになってしまいます。
そこで、「他者に危害を加えない限りにおいて幸福を最大化する」といった修正を加えることになりますが、これでは終わりません。常に新しい状況が現れ、原則の修正を迫られるのです。
あるいは、カントの「定言命法」の主張、「汝の人格や他のあらゆる人の人格における人間性を、常に同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱ってはならない」を考えてみましょう。パンデミック下の学校閉鎖やソーシャルディスタンスは、人々を手段として扱っているのでしょうか? それともウイルスから守ることで目的として扱っているのでしょうか? 定言命法だけでは判断できません。
「黄金律」の「自分がされたくないことを他人にするな」も同様です。私たちが他人に何をしてもらいたいかは、人によって異なります。つまり、「大きな原則があり、それを具体的な状況に適用する」というモデルは機能しないのです。
代わりに、私たちは双方向に進むべきです。具体的な状況から「中レベルの原則」を導き出しますが、それらは科学における仮説のようなものです。「殺人は常に悪い」ように見えます。
しかし、「戦争の場合はどうか?」と問われれば、「戦争では状況が異なる」と答えるでしょう。戦争においては、敵を殺すことが道徳的に許容される、あるいは推奨されることさえあります。つまり、「殺すことは悪い」という中レベルの原則は、特定の文脈においては適用されないのです。

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ウクライナでの戦争における具体的倫理は、ガザでのイスラエル軍の具体的倫理とは異なります。単一の「戦争倫理」さえ存在しないのです。すべては状況に全面的に依存しており、私たちは判断を下す前にその状況を理解しなければなりません。そのためには、状況の現実に真摯に向き合う開かれた姿勢が必要です。だからこそ、倫理的な判断を深めるためには、イデオロギー批判や人文社会科学の知見を加えることが求められるのです。
しかし、それでも原則は存在します。それらは状況の中で生じる「中レベルの一般化」のようなものであり、常に具体的な状況との往復の中で導き出され、修正されていくのです。