「自分で自分の機嫌を取る」?「社会は怒ったら負けのゲーム」? 武田砂鉄と信田さよ子がポジティブワードを警戒する理由

ライターで「武田砂鉄ラジオマガジン」(文化放送)のパーソナリティーも務める武田砂鉄さんの新刊『「いきり」の構造』(朝日新聞出版)が刊行された。2025年9月13日に東京・表参道の青山ブックセンター本店で開催された公認心理師・臨床心理士の信田さよ子さんとの刊行記念トークイベント「『言ったもん勝ち』でいいのか? 〜求められるオチ、無視されるグチ〜」から、一部をお届けする。

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武田砂鉄(以下、武田) 9月に刊行した『「いきり」の構造』(朝日新聞出版)の帯に、「どうしてあんなに、自信満々なのか」と書いたんですが、いまSNSでもテレビに出てくる政治家でも、どうしてそんなに自信があるんだと感じる人がやたらと出てきます。連載中にその都度拾い上げていったのですが、連載が終わる頃に参政党があのように勢いを増した。そういう存在が都度都度出てきて、一時的な熱狂があり、その後下がっていくという流れが日々続いています。

信田さよ子(以下、信田) 自信満々でないといけないというか、あらゆる防衛線を張って自信満々になるというか。そういう態度の人が多いですよね。

武田 これまでは自信満々でいるためには理論構築することによって保たれる自信が必要でしたが、このところ出てくる自信満々型というのは、そういう構築物みたいなものが一切なく、「だって僕/私は自信満々だから」ということをただひたすら強く言い続ける。その状態で自信を保つことができるのは、これまでの色々な歴史を考えても例のないことなのではないかと感じています。

信田 私の世代は「あれ読んでる?」と、読書量である種のマウントを取ることが条件だったんですけど、今はまったく違いますもんね。

武田 理論の厚みみたいなものが求められなくなった時に、それが厚みのなさというか、厚みがない状態でも熱気を帯びてしまう時、どこをどう突っ込んでいったらいいのか。書いたり喋ったりする仕事をしていると、そこが悩ましいんです。そういう人を冷静に問い、その足を引っかけながら意見を投げかけたいと思っているのですが。

信田 カウンセリングで、母親との関係で苦しむ女性たちと会っているんですが、娘が母親に対して「私がどれだけあなたとの関係で苦しんできたか」と言っているのに、母親のほうはほぼ何も聞いていないんですよ。忘れてしまう。それって「選択的聴覚」じゃないかと思います。聞きたいことだけ聞き、聞きたくないことは聞かないのはひとつの能力ですよね。耳障りのいいことだけをぱっと入れて、あとはもう、音が入ってくるとパーンて跳ね返して中に入れない。

 こういう母親のような、夫から悪しざまにされ、個人の権利なんてまったく無視されてきた人って、独特の生存スキルを持っている。逆境的夫婦関係を生きてくると硬い甲羅が何枚も生えてくるみたいに。その中のひとつに選択的聴覚があるんじゃないかと思う。まったくエビデンスのない仮説です。

武田 なんでエビデンスのないことを言えるのですか、と言われませんか。

信田 言われますが、なくてもいいんです。なぜかというと、エビデンスだって選択的なんですよ、100パーセント網羅したエビデンスってないんですよね。だから、自己都合。エビデンスと言ったもの勝ちなんですよ。もしそういう風に言われたら、私にはもっと別のエビデンスがあります、なんて言います。

■ライター、カウンセラーという“隙間産業”

武田 僕は日頃ライターという不安定な仕事をしていますが、評論家やジャーナリストと違ってライターがいいなと思うのは「なんかそんな気がする」を保てるところです。学者は、こういう研究があって、次にこういうことを研究してみたらこうなるかもしれないという風に、仮説なんだけども、説があるところに集中する。ジャーナリストであれば、ある事象に対して突っ込んで取材をしていく。ライターとして取材もするし、文献を読むこともするけれど、どこかにずっと「なんかそんな気がする」があるんです。

信田 いいですね。それ、カウンセラーと同じですよ。私は臨床心理学の研究者でもないし、一度も公的機関に勤めたこともない。でも、「私の経験からそう思うんだよね」と言ったら、ものすごい重みがあるんですよ。それ、似てますよね。

武田 これだけ世の中がエビデンス中心になり、一律にタイムスケジュールに用事を詰め込んでいく世界になってくると、ライターやカウンセラーといった「そういう気がするんですよね」という人たちは自由に発言する場が残るのかもしれない。すると、私たちの需要はこれからも減らないってことになりますかね。

信田 はい。そういう隙間産業というか、空いてるところにひゅっと体をはめに行く、みたいなことですね。

武田 そうですよね。だから、その感覚はどこかで持っていたいなと。それに、新しいものって隙間からしか生まれないでしょう。

信田 私は断ることが苦手で。何か仕事を依頼されても断ることが下手なんです。ここ最近の自分のテーマが「やらされる」ということで、結構大事だなと思う。それってやはり、自分で選べとか自分で判断するということに対する強烈なアンチテーゼですよね。

武田 そうですね。「やらされる」によって抵抗している感覚があります。能動、受動とあえて分ければ、受動に徹するということは、結果的に外から見ると非常に生産的になるというある種のパラドックスですね。

■受動性から生まれる能動性

信田 たまたま2年ぐらい前に朝日新聞の記者から取材を受けたことに加えて、中村江里さんの『戦争とトラウマ』(吉川弘文館)を読んだことで、これまでアルコール依存症のカウンセリングにかかわりながらなんだかわからなかったことが、ピースがはまるような気がしたんですよ。

 それは、あの戦争を生きて帰ってきた男たちを受け入れる場所が家族しかなかったということ。社会の中にはなかったんですよ。あの凄まじい戦場を生き延びた人たちが、酒を飲んで家族に暴力を振るうことでしか生きられなかったんじゃないかということが、すっとわかる気がしたんです。取材の場でその話をしたら記者の方に強く同意してもらえたんですよ。私自身の中でも、戦後80年を日々のカウンセリングの経験から総括するということは、戦争とトラウマを結びつける言説が出てきて初めてできるようになったんです。

 これもやっぱり受け身なんですよ。取材があって、それによって経験が整理される。記者の方にそう言えばって話したことが、受け入れられていくという。

武田 受動的でいることがひっくり返っていろんなことに繋がっているというのは、共通点としてはそうですね。今、常に能動性が求められるし、情報処理能力がすごく重視されていますけど、それとは正反対。

信田 受動的にというか、求められることで、そこから能動性が生まれるということですね。

武田 信田さんの『なぜ人は自分を責めてしまうのか』(ちくま新書)を読み直してみたのですが、「不機嫌でいるのをやめましょうといった本が書店に並んでいるが、自分で自分の機嫌をメンテナンスして上機嫌でいなくちゃいけないのか、そんなことが流行っているのは嫌だ」と書かれていました。「機嫌」を問題視されていますよね。

信田 びっくりしますよね。「自分で自分の機嫌を取らなくてどうするんだ」とか。「なんですかその日本語」って思いますよね。

武田 当然ですが機嫌って、相手との作用にもよるし、置かれている環境によっても変わってくるわけですからね。それが何であろうと、自分で自分の機嫌を整えなくてはいけないという。

信田 周りがその人が不機嫌にならないようにいつも緊張しているというのは、DV家族の基本的構造なんですよ。いつもそのお父さんの機嫌次第で、家族がパラダイスにもなり、地獄にもなるっていう。そういう人に対して、自分の機嫌ぐらい自分で取れよという言葉は有効かもしれない。言い換えると不機嫌を撒き散らすなということですよね。

 権力構造がまずあって、だからこそ権力者の機嫌次第で家族が振り回されてしまう。だからあなたは家族において権力者であることを自覚して、周りにその不機嫌という権力を撒き散らさないようにしましょう、それがあなたの機嫌ぐらい自分で取れよってことになるとしたら、その言葉は限定的には私は賛成ですね。

武田 今回の本では色々な立場の人の言葉を引用しているのですが、その中でもとりわけ嫌だったのは「社会は怒ったら負けのゲームです」というもの。怒った人は、怒った方が損をすることに気づいた方がいいという。このSNS投稿を受けて、噛みつくように分析しているのですが、下から突き上げるパワーを「ゲーム」にして抹消させようとする力がやたらと強い。

 信田さんが嫌いそうな言葉をもうひとつ言うと「モヤモヤをワクワクに変える」。モヤモヤはずっとモヤモヤのままでいい、モヤモヤを強制的にワクワクに変えようとするから、ワクワクからむしろ遠ざかるんだと思っているし、これは非常に自己責任論的な考え方ですよね。なぜモヤがかかってるのかと言うと、自分の中のモヤもあるかもしれないけど、周辺にあるものが自分のモヤを作っているわけだから。

信田 「自己肯定感」という言葉は私の中ではもう蕁麻疹ができそうだし、「ワクワク」も「ポジティブ」も嫌だし、本当に嫌な言葉ばっかりなんですよ。

「先生、自己肯定感を高めるにどうしたらいいですか」と聞かれますが、その「自己肯定感」という言葉が持つパラダイムそのものが嫌だと言っているのに、「そこから逃れるためには自己肯定感が必要だ」と、皆さん呪文のようにぐるぐるしているのですが、その呪文の土台から離れないといけないですよ、と言っています。

 今、似たような言葉で「セルフケア」という言葉も流行っているんですよね。制度的にも法的にも、本来他者にケアされるべき存在だが全然そういうものがない。非正規雇用だし、何の保証もない。それならせめて自分ぐらいは自分をケアしようっていうことが「セルフケア」。恐ろしい言葉なんですよ。こんなに社会から見捨てられた言葉ってないなと。

■「自立」という言葉の暴力性

武田 社会から断絶されてセルフケアをせざるを得なくなった人やその状況に対して、その個人ではなく社会に対して「なんでこんな社会なの。ふざけんじゃないよ」と言ったり書いたりしたい。今それをやる人がどんどん少なくなってきています。

 あと、信田さんが嫌いな言葉を勝手に予想すると、「主体性」という言葉。

信田 いや、だめ。

武田 快感になってきた(笑)。

「主体性」は今、就職活動や企業の中での社員の評価の際も使われて、例えば企業の中だと、人員が限られている中で、あれこれ教えている暇なんてないから、主体性を持ってやってくれと言われている。「セルフケア」もそうですが、言葉だけは立派でかっこいいんだけど、指示を待たないで勝手に察して仕事をやり抜ける人が、「主体性」という言葉を使われて評価されている。

信田 「主体性」と似た言葉で、家族の中で暴力的に作用するのが「自立」という言葉ですね。「自立してないじゃないか」と夫が妻に言ったりする。子どもに「お前いくつなの。15だろ。自立しなきゃダメじゃないか」という、あの暴力性ね。そういうあんたが一人で立っているのかと言いたい。この世の中で一人で立つってどういうことなのかと、真剣に考えたことがあるのかと。その時、絶対に支えてくれてる人がいっぱいいるんですよ。そういう支え、ケアしてくれる人の存在があっての仮の表面的自立を、あたかも自立しているように言っているわけですよね。

(構成/AERA編集部・小柳暁子)

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