選手に監督と呼ばせない東北高校野球部の前監督「ヒロシさん」が天国に旅立つ前に語っていたこと
12月1日、広陵高校野球部の暴力事件で、暴力に加担した生徒ふたりが書類送検されたと報じられた。広陵高校は2025年夏の全国高校野球選手権大会の出場を決めていたが、出場選手からの暴力をSNSで投稿され、出場を辞退していた。ここで大切なのは、「暴力をした選手」が処分されたことで終わりにしてはならないということだ。選手たちが暴力をふるうにはどんな環境があったのか。暴力のない指導とは何か、大人がきちんと向き合い、考える必要がある。
そんな中、11月末、ジャーナリストの島沢優子さんの元に「叱らない指導」を手がけてきた野球部の元監督の訃報が届いたという。
著書『叱らない時代の指導術 主体性を伸ばすスポーツ現場の実践指導術』でも、選手たちのみならず指導にかかわる大人たちのマインドセットを変えた素晴らしい指導者について綴っていた島沢さんに、改めてその指導の意味を伝えてもらう。
選手に「監督」と呼ばせない指導者
「棺を蓋(おお)いて事(こと)定まる」
亡くなって棺にふたをされた後に、その人の真価が分かる――この言葉は、李白と並ぶ二大詩人と呼ばれた杜甫が中国古代の「普書」劉毅伝(りゅうきでん)から引用したことで有名になった。その通りになるであろう人が、11月26日に亡くなった。
東北高校野球部前監督の佐藤洋さんだ。同校から社会人の電電東北を経てドラフト4位で1985年に巨人入団。投手以外すべてのポジションをこなし、1軍で6シーズン97試合に出場し94年までプレーした。引退後は、NPO法人「日本少年野球研究所」代表として野球教室を開くなど育成と普及に務めていた。
2022年8月夏に東北高校の監督に就任。その2か月後の宮城県秋季大会で、同年前夏に東北勢初の甲子園優勝を遂げた仙台育英を撃破。東北大会は準優勝し12年ぶりの春の選抜大会出場を決めた。選手に「ヒロシさん」と呼んでもらう異色の指導を知り東京から取材に来た私を、快く迎えてくれた。
「(監督呼びは)なんか堅苦しい。このほうが対等に付き合えるでしょ?選手も本音を言いやすいからね。もういい加減、やり方を変えないと。大人がやらせる野球、勝つことだけを追求する高校野球じゃだめなんだ。俺は野球を子どもに返したい」
「大人が変わる必要がある」
ここまで大局からものを語る高校野球の監督は珍しいと感じた。すぐに「ヒロシさんたちが野球を子どもに返す道のりをいつか書かせてください」と伝えた。何で書くの?と聞くので「本で」と答えた。高校野球でパワハラ指導がなくならないこと、中学校の軟式野球部員の数が減少していることなど、野球に横たわる問題に注目していた。当時大谷翔平はまだエンゼルス所属だったが、すでに日本の野球選手の最終目標は日本のプロ野球(NPB)ではなく、メジャー(MLB)になっていた。
「指導環境を変えれば、日本の子どもたちの可能性はもっと広がるし、野球はもっと自由で楽しめるスポーツになる。それには大人が変わる必要がある」
それをどう伝えるか、理解してもらえるか。ヒロシさんはいつも考えていた。2023年春の選抜大会。山梨学院大附との初戦で、相手失策で出塁した選手が塁上で行った「ペッパーミル・パフォーマンス」を、ベンチに駆け寄った一塁塁審から注意された。少し前にWBCで世界一になった日本代表のヌートバーがやって有名になったものだ。ヒロシさんは試合後「もう少し子どもたちが自由に野球を楽しむということを考えてもらいたい」と毅然とした態度を見せた。

WBCではヌートバー選手の「ペッパーミルポーズ」が話題にPhoto by Getty Images
「ヒロシさん」に共鳴してコーチに
そんなブレない姿勢をそばで支えたのは、東北高校コーチだった原拓海さんだ。ヒロシさんと同じ埼玉県在住。中学時代にヒロシさんの野球教室で直接指導を受けた。所属チームで悩みこころが砕け散りそうだった原さんに正しい技術を教え「拓海の感覚を大事にしてほしい」と言ってくれた。限りなく子ども目線のヒロシさんに「この人は絶対に俺の味方なんだ」と思えた。
その後、野球と離れ公認会計士に。家庭を持ち子ども3人に恵まれたある日。当時少年野球チームに所属していた12歳の長女が「もっと野球が上手くなりたい」と何度も言う。そこまで本気ならとヒロシさんの野球教室を紹介した。娘を介し親と指導者の付き合いが始まって間もなく、ヒロシさんから「東北高校の監督になるんだけど誰かコーチはいないか?」と相談され、半年間一緒に探した。しかし、ヒロシさんの考えを理解して寄り添える人が見つからない。

原拓海さんの長女(写真右)と長男(同左)と佐藤洋さん 写真提供/原拓海
「よく考えたら、その条件、自分に当てはまるじゃないかと」(原さん)そこで家族を説得し、埼玉県からヒロシさんとともに単身赴任した。日中は会計士の業務をこなし、放課後からコーチとして指導。土日は試合、遠征に帯同した。
「高校野球界を変えるならヒロシさんしかいないと思ったんです。よくテレビのバラエティ番組でも元プロ野球選手達が数億円もらっても高校時代には戻りたくないと語っていたりするじゃないですか。私も同じ思いです。私は高校卒業後から10年以上、真夏になるときまって夜中によくうなされて目が覚めていました。私のような思いをする子どもを増やしたくないという思いもありました」
「君たちに野球を返す」の意味
原さんはコーチ就任のあいさつで、選手たちにこう熱弁を振るった。
「ヒロシさんは君たちに野球を返すと言ってます。選手ファーストです。人間的にも成長させてもらえる。さらに技術指導ができるなんて、そんな人めったにいません。私は日本一の監督だと思う」
原さんの言葉通り、主体性を育むチーム運営に徹した。練習メニューは選手に提案してもらい自分は黒子に徹した。一対一で対話する時間を大事にし、選手個々の悩みに寄り添った。出色だったのは練習前に30分ほどとった「道徳の時間」。例えば、エレベーターに乗る際は同乗者に行き先階を尋ねボタンを押すといった当たり前のようでできないことを挙げ、公共性や公正性を選手に注入した。先の震災で遺された南三陸町防災庁舎の見学に連れて行ったこともある。
「野球ができることは普通なことではないことを伝えようとしていました。野球以外の一般教養を身に付けて目配りや気配りができるようになれば、それは野球にもつながりますから」と原さん。目の前の勝利以上に、部員たちの将来に目を向けた指導だった。
「頑張って信じた道を進めば、必ず見ていてくれる人はいるぞ」
今年の8月20日。インスタグラムで「野球部監督解任のご挨拶」と題した投稿に、多くのメッセージが寄せられた。その中に、校内食堂の調理師だった女性が書いたものがある。
「佐藤監督がこの野球部にいらした途端、部員の周りを漂う風が一変しました。その一部始終を校内の食堂からいつも拝見し、すぐに憧れの甲子園にも連れて行っていただきました。部員たちは見る見る変革し自分たちで考え進めていく力も増していきました。しっかりした魅力的な信念のもとに導かれた部員たちは、きっと洋さんが大好きだったはずです。ここを巣立った部員たちもこれから活躍するであろう部員たちも、そして私も、洋監督と過ごせた日々をこれからずっと糧にしていくと思います」
女性はヒロシさんが監督に就任する以前から、校内食堂から野球部の生徒たちの様子を毎日見ていた。ヒロシさんの指導によって主体性を高めていく様子を、彼らの「周りを漂う風は一変した」と表現している。もしかしたら、部員の成長を誰よりも感じ取っていたに違いない。このメッセージひとつとっても、ヒロシさんの行ったことの尊さが伝わってくる。

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このメッセージを発見したとき、原さんは「こうやってちゃんと見ていてくれた人がいたんだ」と涙をこぼした。と同時に、ヒロシさんから生前「拓海、頑張って信じた道を進めば、必ず見ていてくれる人はいるぞ」と言われたことを思い出した。
選手は自分で責任を取るしかない
ヒロシさんは私に「島沢さん、俺は決して成功したプロ選手じゃない。いろんなコーチから指導を受けたけれど、それで結果が出なくてもコーチたちは責任を取らない。取りようもないよね。だから、選手は自分で責任を取るしかないの。俺はそこに気づいてほしい」と話してくれた。選手たちに、自分で責任を取る力を授けたかった。そしてそのプロセスを「俺は見ているぞ」と寄り添ったのだ。

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11月27日午前2時26分、ヒロシさんは急性大動脈解離のため帰らぬ人となった。彼との思い出をSNSに綴ると、連日多くの方からメッセージをいただいた。自分が教えてもらった。子どもが指導を受けた。あるいは、指導者として救われた。それぞれの思いとともに「子どもに野球を返す活動を続けてほしかった」と無念さが綴られていた。
甲子園優勝監督でもない。本人が言ったようにジャイアンツのスター選手でもない。それなのに、多くの人から尊敬され、その哲学は共感されていた。そして、期待もされていた。一番無念なのはヒロシさん自身だろうと思う。
棺を蓋いて事定まる。
ヒロシさんの真価を知ってもらうためにも、私たちは彼の遺志を継がなくてはならない。
◇後編「阪神・藤川球児監督の恩師らが語る、天国に旅立った「ヒロシさん」の”叱らない指導”が遺したもの」では、なぜヒロシさんが「子どもに野球を返したい」と考えたのか。その原点と、ほかの監督たちに与えた影響を伝えたい。