「富裕層ほど生き残った」「女性と子供優先の真相」…タイタニック号沈没で巻き起こった大論争を現代の危機管理の視点から検証する
レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットの大ヒット映画『タイタニック』(1997年)でも知られる、1912年のタイタニック号沈没事故。約1500人の命が海に沈んでいった悲惨な事故として、歴史に刻まれている。
この事故をめぐり、当時の英国では大論争が起きた。シャーロック・ホームズ物語の作者であるコナン・ドイルはどのように主張をしたのか、また、事故後の対応について、専門家が現代の危機管理の見地から証言した内容をお伝えする。
※この記事は、シャーロック・ホームズの生みの親、作家コナン・ドイルの数奇な生涯と当時の世相を解説した篠田航一著『コナン・ドイル伝 ホームズよりも事件を呼ぶ男』(2025年11月20日発売)より一部を抜粋・編集したものです。
タイタニックを巡り論争
1912年という年は、どんな年だったのか。
後世に生きる私たちから見れば、「ああ、第一次大戦の直前だな」と分かる。その2年後の1914年に第一次大戦が始まり、英国も悲惨な戦争に巻き込まれる。そして、ドイルの一家も大きな悲しみに包まれることになる。
だが1912年の時点では、ドイルはそんな運命を知る由もなかった。
この年、英国で大衆の関心を集めたのは忍び寄る戦争の影ではなく「タイタニック」だった。
1912年4月14日午後11時40分頃、英国の豪華客船タイタニック号は大西洋で氷山に衝突した。船は徐々に浸水し、約2時間40分後の15日午前2時40分に完全に沈没した。救命ボートは足りておらず、乗客・乗員約2200人のうち助かったのは約700人。残りの約1500人は冷たい海に沈んでいった。

出航するタイタニック号 Photo by Getty Images
前代未聞の悲劇は連日大きく報じられたが、この報道に怒ったのが、アイルランド出身の社会主義者で、作家のジョージ・バーナード・ショー(1856~1950年)である。ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の原作となった戯曲『ピグマリオン』の作者で、1925年にはノーベル文学賞も受賞している。
事故当時の新聞は、乗客を救命ボートに乗せ、自らは船と共に沈んだスミス船長の自己犠牲的な行為を称賛した。これについてショーは「大げさな嘘」と新聞に寄稿した。逆にスピードを出しすぎて船を氷山に衝突させてしまった船長の責任を厳しく指摘した。

友人だったコナン・ドイルとタイタニックの事故をめぐり論戦になったバーナード・ショー Photo by Getty Images
ショーは1912年5月14日付のデイリー・ニュース紙にこう記した。現物の新聞を紹介した書籍などからの「孫引き」になるが、以下、紹介する。
「教えてほしい。このぞっとするような、罰当たりで非人道的な大げさな嘘は、いったい何のためか」
かなり激烈な言葉である。「ぞっとする、不気味な恐ろしい」(ghastly)、「罰当たりな、不敬な」(blasphemous)、「大げさな、大言壮語の」(braggartly)といった単語をこれでもかと書き連ねている。英国人の支局スタッフに聞いてみると、ネイティヴの英国人は今も “ghastly” という単語をよく使うが、残りの二語はもはや一般的ではないとのことだった。
ショーの主張は明快だった。事故の詳細がまだ判明していないうちから、英米の新聞はメロドラマのようなストーリーを書くべきでない、というものだ。
事故直後の記事はおおむね、誇り高き英国人のスミス船長を讃える内容だった。船長は利己心のない人物で、騎士道精神あふれる行為をして死んでいったという内容だった。船長は氷の海を泳ぎ、溺れていた子供を救命ボートに乗せて救助した後、「英国人たれ!(Be British, Boys!)」と言い残したという記事もあった。つまり、この船長こそ模範的英国人であるという論調である。一方、逆に救命ボートを巡る取り合い、裏切りといった話も流布した。
だが救援に駆けつけた別の船に救助された人々がニューヨークの港に運ばれ、徐々に生存者の証言が伝わってくると、エピソードの多くが矛盾だらけであることも分かってきた。その点で、ショーの指摘は正しかったのだ。
「女性と子供優先」の真実
ここでショーに反論したのがドイルだった。ドイルはスミス船長を擁護し、女性や子供をできるだけ避難させた「英雄的行為」を称賛した。
ちなみにドイルはタイタニックに乗っていた友人を失っている。ともに心霊主義への関心を深めていたジャーナリストのW・T・ステッドである。
英領北アイルランド・ベルファスト出身の文化史家で、タイタニックについての著書もあるブリティッシュ・コロンビア大(カナダ)のジョン・ウィルソン・フォスター名誉教授にこのあたりの経緯を聞いてみると、こんな答えが返ってきた。
「ショーは雄弁で議論好きな社会主義者でした。そしてタイタニックの事故に関しては多かれ少なかれ、自分の信条に沿った反応を示しました。ショーはパトリオティズム(愛国主義)に疑念を持っており、それは自身が理想とする国際社会主義の理念に反すると思っていたのです。これに対し、船長の騎士道精神を称賛するドイルの考えは、保守的な英国人気質の典型でした」
つまりフォスター氏によれば、二人の「思想信条」の違いも論争の根幹にあったというのだ。ドイルは大英帝国を擁護する愛国者である。社会主義を信奉するショーとは確かに思想を異にする。こうして二人は互いに新聞に寄稿し合い、論争が続いた。

ショーと論争をした頃のコナン・ドイル Photo by Getty Images
さらにショーが強く批判した点がある。それは、女性や子供を優先的に救命ボートに乗せたという感動的な記事だった。だが最初の救命ボートに乗っていたのは、男性10人に対し、女性はわずか2人である。これのどこが「女性と子供優先」と言えるのか。それがショーの主張だった。
確かにこのボートだけ見れば、その批判は当たっている。しかしドイルは反論した。全体で見れば女性と子供が優先されたのは確かで、実際にその次の救命ボートに乗ったのは大半が女性だったのだ。
「次の救命ボートに乗っていたのは70人中65人が女性だったことを認めざるを得ないだろう。私と同様にショー氏もこの事実を知っている。彼は印象操作のため、故意に一つのボートだけを取り上げたのだ」
ドイルはそう指摘した。
さて、どちらが正しいのか。
後世の検証では、ドイルに分があるようだ。事故後、米国では上院に事故調査委員会が設置された。委員会が作成した報告書には、生存者数や死亡者数の内訳が記されている。実際には出港直前に乗船をキャンセルした人や偽名を使って乗っていた人もいたため、正確な人数は不明だが、とりあえずここで米国が公表した数字は以下の通りだ。
男性は乗客乗員1692人のうち332人が一命を取り留めた。一方で女性と子供は531人のうち374人が助かった。つまり、「女性と子供」は七割が助かり、逆に「男性」は2割しか生き残れなかった計算になる。
興味深いのは、いわば「金持ち」ほど生き残った事実だ。この報告書では、客室の等級による生存者のパーセンテージもはじき出している。
それによると、ファースト・クラス(一等船室)の乗客で助かったのは60%に上ったが、2等は42%、3等は25%とランクが下がるにつれて死亡率も高くなっている。事故後は、「富裕層だけが優先的に救助された」という非難も起きた。
なぜ楽団は最後まで演奏を続けたのか?
もう一つ、議論となった点がある。それが楽団員の行動だ。
レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレットの共演で1997年に公開された映画『タイタニック』では、氷山衝突後も楽団員が演奏を続けるシーンが出てくる。私は初めてこのシーンを見た時、「さすがにこれは創作だろう」と思ってしまった。船が沈みかけているのに、のんきに演奏を続けるなんて、そんなことあるわけない。そう信じていた。
だがこれについて、タイタニックに詳しい英国の歴史家ティム・マルティン氏に聞くと、意外にもこんな答えが返ってきた。
「いえ、これはほぼ史実なのです。乗客をパニックにさせないための措置でした」

亡くなった楽団員の楽団員(上段)らを称える当時の新聞記事 Photo by Getty Images
ただ、厳密にいえば船が沈む最後の瞬間まで演奏していたわけではないという。マルティン氏は続ける。
「楽団員が最後まで演奏していたと思われている理由は、救命ボートで脱出した人がそう証言したからです。でも実際は救命ボートが去った後、楽団員は演奏をやめました。そして楽器を体にくくりつけ、海に沈んでいきました」
これが本当なら、あまりに悲しい楽団員の行動である。
ショーはこの演奏を非難した。演奏が続いたことで、乗客の間には「まだ大丈夫だ」という油断が生まれ、結果的に逃げ遅れた人もいたと指摘したのだ。だがドイルは「混乱を避けることは正しい」と演奏を擁護した。
前出のフォスター氏は言う。
「パニックになれば、危険な状況をさらに悪化させ、救助活動の妨げになった可能性もあります。だからこそ演奏続行は正しかったと主張したのがドイルでした」
論戦が白熱してくると、ショーのドイル攻撃は一層激しくなった。
「わが友サー・アーサー・コナン・ドイル」に伝えたいとして、ロマンティックで温かい気持ちにとらわれた状態からいったん離れ、ショーの記事を3、4回読み返して、考え直してほしいと訴えた。そして「正気な人間なら、私の一言一句に反論できるとはとても思えない」と書いた。
さて、二人の論争はどうなったか。
結局、ドイルが身を引く形で終わった。最後にドイルは、「不毛な論争を続けるつもりはない」と自ら議論を打ち切った。そしてさんざん自分を非難したショーに対して、「他人の感情を不必要に傷つけてはならない」と述べ、ペンを置いた。
フォスター氏いわく、この二人の議論には、実は後世の教訓とすべきポイントが示されているという。トップの責任をどう問うか。救命ボートは適切に使われたか。パニックに陥らないため、緊急時に人は何をすべきか。どれも現代にも通じる危機管理上の問題で、フォスター氏は「だからこそ二人の論争は、今でも注目されているのです」と話す。
さて、ドイルとショーの論争には後日談がある。
激論を交わした後、同じ一1912年のうちに、実は二人はロンドンで開かれた同じ講演会で会ってしまったのだ。
ドイルは「(ショーは)会うと実にやさしい人」と振り返り、こう記している。「人前では見せないが、本来やさしい人間的な面があるのだと思っている」
もともとこの二人は仲の良い友人だった。ハインドヘッドに住んでいたときは、「ご近所」同士でもあった。ドイルはショーの怒りっぽい性格や毒舌を知っていたが、実際に会えば好きになってしまう人間的魅力があったらしい。ショーはきっと、憎めない人だったのだろう。
一連のタイタニック論争を振り返ると、ここに「ドイルらしさ」がよく表れているのが分かる。親しい友人と激論をしてまで、彼は英国紳士の美学、騎士道精神といったものを称えようとした。それこそがドイルが終生、守りたかったものなのだ。