「生きてちゃんと帰ってくるんやよ」涙を流して見送った 能登半島地震後に生まれた第二の家族【前編】

■二つのエンジン, ■元日から休まず営業, ■町唯一のスーパー, ■パン300個を提供, ■命をかけて仕事してもらって…, ■「第二のお母さん」

 能登半島地震から2年。能登に住む人々の歩みを一冊にまとめた本がある。『能登半島地震 あのとき見た星空の下で――復興へ向かう5つの物語』(朝日新聞出版)だ。この本の著者で、能登に駐在する朝日新聞記者・上田真由美氏は「新聞記事からはこぼれ落ちてしまう話がある。でもその中にもどうしても伝えたいものがある。この本はそれをまとめたもの」という。

 この本に出てくる「二重被災のまち 唯一のスーパーをめぐる物語」を3回に分けてお届けする。【前編】

*   *   *

 早く会いに行かなければ。

 でも、見るのが怖い。

 あの場所が壊れているのを目の当たりにしたとき、冷静にカメラのシャッターを切れるのだろうか……。

 2024年9月21日、石川県内で発生した線状降水帯が、能登北部に記録的な大雨を降らせた。

 無数の土砂崩れが起き、復旧のさなかだった道路が再び断絶した。多くの集落が再び孤立した。土砂や濁流にのみ込まれ、16人が亡くなった。

 能登半島地震から約9カ月。決して早い歩みではなかったかもしれないけれど、一歩ずつ一歩ずつ、前へ進んできた能登は、振り出し、いや場所によっては振り出し以前に戻るような打撃を受けた。

 とりわけ、大きな被害を受けた地域のひとつが石川県輪島市町野(まちの)町。山が崩れ、流木が町の中心部になだれ込んで家々を押し倒し、川があふれてまちじゅうが泥水につかった。

 このまちの復興の希望のようなお店を、2カ月前に取材したばかりだった。

■二つのエンジン

 輪島市の東端にある町野町は、東は珠洲(すず)市、南は能登町に隣接するのどかな田園地帯だ。

 半世紀前にまとめられた『町野小学校百周年記念誌』には、《町野郷の中央に南北に短ざく形に展開している沖積低地は、奥能登随一の美田である。(中略)この広大な美田が町野の生命線をなしている》とつづられている。

 まちの中心付近には「五里分」(ごりわけ)という名前の交差点がある。江戸時代の地誌『能登名跡志』には、このあたり「鈴屋村」から《宇出津(うしつ)へ五里、飯田村へ五里、輪島へ五里あり》と記されている。

 つまり、現在の能登町の中心部・宇出津、珠洲市の中心部・飯田町、輪島と、三つの自治体の市街地まで5里(約20キロ)の距離。市街地を結ぶ交通の要所だったが、いまは奥能登それぞれの市街地から均等に遠いという表現の方がしっくりくるかもしれない。

■二つのエンジン, ■元日から休まず営業, ■町唯一のスーパー, ■パン300個を提供, ■命をかけて仕事してもらって…, ■「第二のお母さん」

■元日から休まず営業

 1956年、昭和の大合併で町野町が輪島市に編入されたときの人口は約6500人。一時は映画館もあってにぎわいをみせたが、震災前の時点で2千人を切っていた。

 私が最初に町野町を訪れたのは、2024年5月19日。仮設住宅の完成を待っていたり、様々な事情から仮設住宅に入れなかったりして自宅にとどまる「在宅避難者」に、金沢市から駆け付けたボランティアが弁当や物資を配るのに同行した。

 元日の地震から4カ月余りが過ぎても、黒瓦の屋根がぺたんと地面に直接つくほど倒壊した家、1階部分が押しつぶされて2階が地面についている家々が目立った。電柱は傾いて電線がたわみ、瓦がいまにも落ちてきそうな家もあった。

 ボランティアの女性たちは、人がいそうな住宅を訪ねては物資を渡し、住民と明るい声で雑談をする。その中で、まちがこれだけの被害を受けながら元日から休まず営業をつづけている町野町唯一のスーパー「もとやスーパー」の名を何度か耳にした。

 同行して訪ねた住宅のうちの15軒目は、「もとや」の役員でもあり鮮魚担当でもある朝川英則さん(46)の家だった。その日のノートをめくると、《魚を(隣の能登町の)宇出津港に仕入れに行く》《家が倒壊していなくて一部損壊判定でも、隙間から雨漏りする。大工さんも浄化槽の修理業者も人手不足で困っている》といった内容が書き留められている。

 ちょうどこの日、町野町では町唯一の開業医の診療所敷地内で「肉フェス」が行われていた。会場の真ん中でボランティアが能登牛のステーキを振る舞い、ステージで歌うバンドもいる。集まる住民たちは楽しそうで、周囲の被害の大きさとのギャップが強く印象に残った。主催したのは若い住民たちによるグループ「町野復興プロジェクト実行委員会」だという。

 その後、まるで二つの「エンジン」のようにこのまちを牽引(けんいん)していく「もとやスーパー」と「町野復興プロジェクト実行委員会」との最初の出会いだったことは、後になって気付いた。

■町唯一のスーパー

 最初に取材にとりかかったのは、「もとや」の方だった。きっかけは、被災地で暮らしながら感じていた、店に明かりがともっていることの心強さだ。

「営」「業」「中」

 窓ガラス1枚ずつに大きな文字を掲げたコンビニ。たとえ午後6時に閉店するとしても、日曜は休みだとしても、その文字が、どれだけ頼もしく見えることか。

「一生懸命やってます」

「時短営業中」

「8月1日再開予定」

 コンビニ、弁当屋、スーパー。店頭に掲げられた決意表明のような文字に、心が弾む。

 あのスーパーに生鮮食品が入った。このホームセンターがついに再開する……。被災地では、「今日も暑いですね」と同じくらい日常の会話として、でも希望を確かめ合う合言葉のように、そんな情報が取り交わされる。

■二つのエンジン, ■元日から休まず営業, ■町唯一のスーパー, ■パン300個を提供, ■命をかけて仕事してもらって…, ■「第二のお母さん」

■パン300個を提供

 そんな中、「もとやスーパー」の名を、たびたび耳にした。

 周辺が壊滅的な被害を受ける中、発災直後から休まず店を開き、地域の暮らしを支えてきたという。

 2024年7月、初めて店を訪れた。倒壊した家屋を解体する重機が周囲を行き交う中、「営業中」と大きく赤字で書いたのぼりが、駐車場にも、店の前にもたくさんはためいていた。

 1階建てに見える四角い店舗は、正面がガラス張り。建物の一部はブルーシートに覆われてはいるものの、入り口付近には三角の屋根をかたどったような大きなガラス窓があり、店舗内は明るい。

 入るとすぐ左手に、スーパーの自慢の鮮魚や総菜を準備するキッチンがある。右手は家電コーナーで液晶テレビやファンヒーターが並べられていた。奥には食品や日用品の棚が並び、客足が絶えない。

 エプロン姿の本谷(もとや) 理知子さん(73)が迎えてくれた。2代目社長(現会長)一郎さん(76)の妻で、現社長一知(かずとも)さん(46)の母だ。

「もとや」にとって、元日は年に1度の休業日だった。

 大きな揺れの後の、大混乱。

 理知子さんが思い出せるのは、隣で3人、こっちで1人と、倒壊した家屋の下敷きになった人たちをご近所さん総出で必死に引っ張り出したこと。

 店舗の別棟の2階にある自宅は、倒れてきた隣家が壁を突き破り、穴が開いた。

 店舗の駐車場には、水や懐中電灯や電池を求める人たちが続々と集まってきた。裸足の人、部屋着の人、顔に真新しいアザがある人もいた。

 翌2日の初売りに備えて仕入れていたパン300個や水を提供した。

 停電でレジが使えない中、翌日以降も電卓を使って営業を続けた。

 駐車場にテントを張ってストーブをたき、余震の恐怖で眠れない人が集まって過ごせるようにした。

 理知子さんたち一家は、泥棒に入られないようにと、店舗の一角に布団を敷いて寝泊まりした。

 新たに仕入れをできる状況ではなく、懐中電灯で店内を照らしながら、「あるものでよかったら」と在庫品を販売した。

「山を眺めては、縄文時代はこういう過ごし方だったのかな、と思ってね。『店を開けてくれるか』と聞かれたら、『太陽が上がったら沈むまでの間は開けますから』って。お客さんたちはみんな、家族のようなもんやから。私たちには、これしか、できんからね」

 2月下旬、ようやく電気が通る。「最初、外の街灯がぽつっとついたときは、うれしかったー」と理知子さんは振り返る。

 3月下旬、生鮮食品の販売を再開。

 4月、スーパーの主力商品の一つ、地元産の生豆腐「さいはての谷内のおとうふ」が店頭に並ぶ。

 4月末、刺し身が復活。20キロほど離れた能登町宇出津まで、鮮魚担当の朝川さんが毎朝仕入れに行き、「一番おいしい切り方」にこだわっての提供を再開した。

■二つのエンジン, ■元日から休まず営業, ■町唯一のスーパー, ■パン300個を提供, ■命をかけて仕事してもらって…, ■「第二のお母さん」

■命をかけて仕事してもらって…

 地域の生活を支えるだけでなく、炊き出しイベントの会場にもなり、地域の人やボランティアが交流した。

 県外から来たボランティアが「これでは開いているのがわからない」と、「営業中」と書いたのぼりをつくって立ててくれた。周囲に住む人が減り、真っ暗になる夜に、明かりをともそうとソーラーパネル付きのイルミネーションを取り付けてくれた人もいた。

 さらに、地元の常連に加えて、新たな客でにぎわうようになった。この地域でも本格的に始まった復旧作業に携わる作業員たちだ。

 ゼネコン「フジタ」(東京都渋谷区)の工事の作業員、前田颯人(はやと)さん(24)は3月ごろ、作業現場の近くで昼食をとれるところを探していて、もとやを「発見」した。その日はカップ麺を買って食べた。翌日から仲間たちと一緒に通うようになった。

 肉を買ってスーパーのキッチンで焼かせてもらい、ご飯にのせて食べたこともある。いつの間にか、家電売り場に置かれたテーブルがフジタのお昼の「指定席」になった。

 フジタが担うのは、この地域の上流にできた「土砂ダム」の危険を取り除く砂防工事。土砂崩れなどによって川の流れがせき止められて水がたまった「土砂ダム」から下流の被害を守るため、ブロックで堰堤(えんてい)を造る応急処置にあたった。さらに上流での対策にあたるため、大きく崩れた山に工事用の道を切り開く作業を進めている。危険が伴い、長期間にわたる工事だ。

 前田さんの同僚で、一緒にもとやスーパーに通う阿部大輝さん(27)は、「危ない現場なので、ここにいる時間が一番、安心する」と話す。

 前田さんは理知子さんに、作業現場で撮ったスマホの写真を見せてきた。「ダムみたいなのが決壊したら、この辺が全部、水浸しになってしまう。僕らがやってるのは、それを防ぐ工事。気をつけた方がいいかも、ということを知ってもらいたくて」

 山奥での作業が続き、昼の休憩に下りてくることができず、1週間、店に通えなかったことがあった。前田さんが事前に「1週間は来られない」と伝えると、理知子さんは「生きてちゃんと帰ってくるんやよ」と涙を流して見送った。

 理知子さんは「本当に危険な現場で、町野町のために、命をかけて仕事をしてもらって……。もう、感謝、感謝です」と言う。

■二つのエンジン, ■元日から休まず営業, ■町唯一のスーパー, ■パン300個を提供, ■命をかけて仕事してもらって…, ■「第二のお母さん」

■「第二のお母さん」

 前田さんは、理知子さんを「第二のお母さん」と慕う。仕事が休みの土曜日に、家族にも「もとや」のおいしい刺し身を食べさせたくて、富山県高岡市の自宅から妻と3人の子どもたちを連れてきたこともある。

 若い作業員たちが町を守る砂防工事にあたっていると知ったご近所さんたちが、「食べさせてやって」と、畑でとれた野菜でつくったポテトサラダや、特大のオムライスをお昼時に差し入れてくれる。

「これも使ってほしい」と、たくさんの人たちが自分の田んぼでとれて貯蔵していたお米も持ってきてくれた。「もとや」は、ご近所さんたちの好意で集まった米を弁当に使い、その分、弁当代を安くした。

 7月中旬。「指定席」のテーブルで弁当を食べ終わった阿部さんが、「お母さん、明日、たこ焼きある?」と理知子さんに尋ねると、同僚の高崎涼平さん(28)がすかさず、「僕、八宝菜がいい」と言い添える。

 理知子さんは「あるよー」と目を細めた。

 阿部さんは「普通にみんなが元通りの生活ができるようになるといい」、高崎さんは「元通りは難しいかもしれないけれど、それにちょっとでも近づければ」と話す。

 理知子さんは「いつも『おいしい』『ありがとう』と言ってくれて、本当に気持ちのいい子たち。彼らの元気が、被災した私たちの心に伝染して、広がっていくのがすごくわかる」と言う。

 おいしい弁当を食べ、地元の高校野球はどこが強いのか理知子さんに教えてもらう。スマホのゲームをしたり、机に突っ伏して少し眠ったりと、1時間のくつろいだ時間は、あっという間に過ぎた。

 3人が口々に「ごちそうさまでした」と言って席を立つと、理知子さんは「行ってらっしゃい。気をつけてね」と店の外まで見送った。

 誰からともなく、「また、明日」と言葉が行き交う。

 そういう日が、続くと思っていた。

 私自身、取材の際に買って食べた「もとや」の大きくどっしりしたおはぎが大好きになった。

 その後も掲載された新聞を持っていったり、取材の途中に立ち寄ったりしては、おはぎときなこ餅のセットを買い、取材の合間に食べるおやつにした。

 作業員の前田さんたちが口々に勧めてくれた刺し身も買って帰れるように、今度は車にクーラーボックスを積んでこなければ。このまま毎日一歩ずつよくなっていくと信じて疑いもせず、そんなことを考えていた。

※年齢、肩書は登場時現在

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