大河主人公「豊臣秀長」中国地方の戦いは地獄絵図

(画像:『マンガと図解と地図でわかる!豊臣秀長徹底解説』より)

2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公・豊臣秀長は、のちに天下人となる豊臣秀吉の弟。兄を献身的にサポートし、「秀長がいなければ秀吉は天下をとれなかった」とまで言われるほど。大河ドラマでも「夢と希望の下剋上サクセスストーリー」が描かれるそうだが、秀長自身のパーソナリティーはよく知られていない。
そこで歴史系YouTuber「ミスター武士道」氏の著書『マンガと図解と地図でわかる!豊臣秀長徹底解説』より一部を抜粋し、秀長の生涯に触れていく。本記事では「地獄の三木城攻め」と兄弟の躍進について紹介する。
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三木城・鳥取城の戦い

但馬国を平定した秀吉と秀長でしたが、今度は播磨(はりま)三木城の別所長治も織田政権に反旗を翻します。

【マンガ】地獄の三木城攻めと羽柴兄弟の躍進

どうやら、かつて都を追われ、この頃には毛利家の庇護を受けていた足利義昭が、別所家に働きかけていたようなんですね。本当に義昭は往生際が悪いなと思いますけども、秀吉や織田政権に不信感を持っていた別所家の人々は、その誘いにまんまと乗ってしまったわけです。京を追われたとはいえ、まだまだ将軍の威光にも意味があったということでしょうか。

天正6年(1578)3月下旬、秀吉は三木城の包囲を始めます。この三木城の戦いにも秀長は参加していたと考えられています。

秀吉は周囲に多数の付け城(つけじろ、敵の城を攻めるために築いた城または砦)を築城し、三木城を完全に包囲します。城への兵糧(ひょうろう)搬入路を断って兵糧攻めにしました。

三木城の抵抗は凄まじく、この包囲戦はなんと約2年も続きました。外部からの食糧が手に入らない状態で2年間ですから、本当につらかったと思います。

本来食用ではない牛馬を食い、草を食い、果ては城の土壁や死人の肉まで口にしたという三木城内の凄惨さは『三木の干殺し』と呼ばれ、今でも語り継がれています。

現代は物価高で、食料品の値上げも相次ぎ、庶民の生活が苦しくなっている!なんてことが日々ニュースで叫ばれていますが、この時代のことを思うと、食料にありつけるだけまだありがたいなと、私は思ってしまいますね。

ちなみに、この間に摂津の荒木村重が織田家から離反し、秀吉はその対応にも追われています。説得に向かった黒田官兵衛が村重に捕らえられ、有岡城に幽閉されてしまった話は有名です。

天正8年(1580)正月、別所長治はついに降伏して切腹。三木城は開城し、秀吉は播磨国・但馬国、この両国を平定することに成功しました。

そして、播磨国には秀吉がいますから、但馬国を秀長と、元浅井家臣の武将・宮部継潤が城代として支配するという形がとられました。天正9年(1581)には、毛利方の吉川経家が守る因幡国鳥取城も攻略し、宮部継潤が城代として配置されます。

この鳥取城攻めでは、秀吉は商人たちから高値で兵糧を買い占め、鳥取城方が兵糧を購入できないようにした、と言われています。その結果、多くの城兵が餓死したことから『鳥取の飢え殺し』と呼ばれる悲惨な戦いになったと伝わります。

これらの壮絶な戦いを経て、播磨、但馬、因幡の3カ国を羽柴家が支配するという形になったわけですね。もちろん秀吉というのは信長の家臣ではあるんですが、ほとんどその支配に関しては信長から委任されてますので、信長政権下における「大名」という考え方をしていいと思います。羽柴家は織田譜代の大名となったわけです。

で、この3カ国のうち、播磨国は秀吉、因幡国は宮部継潤、但馬国を秀長が基本的には支配していくという形がとられました。この間、秀長は竹田城に居城しています。

但馬国の支配に関しては、秀吉から人事の命令とかあったりはするんですけども、基本的には領国支配、そして軍事活動も秀長が一手に担っていくということになっています。あくまで秀吉の城代という形ではありますが、秀長は一国一城の主という立場になってるわけですね。

秀長は秀吉の弟という立場だけでなく、織田譜代大名羽柴家という、大名家のナンバー2、執政者というポジションを確立していくことになるわけです。

当然それには秀長が秀吉の弟であるという、その血縁関係も大きかったでしょうけども、もちろん本人の実力、秀吉の期待に応えてきたというところは大きかったんじゃないでしょうか。

かくして天正10年(1582)、秀吉に従い備中攻めに出陣します。かの有名な備中高松城の水攻めが行われた戦いです。この備中高松城攻めの最中、ついに本能寺の変が起きるわけでございます。

中国地方での戦い(画像:『マンガと図解と地図でわかる!豊臣秀長徹底解説』より)

竹田城について

その壮大な姿を留める竹田城跡は、単なる城郭遺跡を超えた存在として、現在でも多くの人々を魅了し続けています。

標高353.7mの古城山(兵庫県朝来市和田山町)の山頂に築かれたこの山城は、秋から春にかけて見られる雲海に包まれた幻想的な姿から「天空の城」と称され、全国的にその名を知られています。

また、城全体の縄張りが虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)」の異名も持ち、その勇壮な姿は「日本のマチュピチュ」とも形容されることがあります。

竹田城の歴史は古く、応仁の乱(1467〜1477)において、西軍総大将・但馬守護の山名宗全が播磨の宿敵・赤松氏への備えとして城を築かせたのが始まりです。

ただし、当時の城は、現在我々が目にするような総石垣の城郭ではありません。

山肌を削り、土を盛り上げた「土塁」や、尾根を断ち切る「堀切」を多用した、防御に特化した「中世の山城」だったと考えられています。

初代城主となった太田垣氏は、その後百四十年の長きにわたり代々この城を守り続けましたが、戦国時代には主家の山名氏の勢力は次第に衰え、西からは毛利、そして東からは織田の脅威に迫られました。

戦略的に重要な地である竹田城は、毛利氏との戦いを見据えた織田家の標的となり、天正5年(1577)、ついに羽柴秀長によって落城。竹田城は但馬国支配の要として秀長が入城し、改修されました。

現在見られる壮大な石垣は、のちの豊臣政権下で城主となった赤松広秀の手によるものですが、近世城郭への第一歩(土の城から石垣の城へ)は秀長時代に始まったのです。

【マンガ】地獄の三木城攻めと羽柴兄弟の躍進

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地獄の三木城攻めと羽柴兄弟の躍進(画像:『マンガと図解と地図でわかる!豊臣秀長徹底解説』より)

地獄の三木城攻めと羽柴兄弟の躍進(画像:『マンガと図解と地図でわかる!豊臣秀長徹底解説』より)