「ドボドボまで340メートル」廃線・のと鉄道跡で見た奇妙な看板、その意味とは?

写真はイメージです Photo:PIXTA
2005年に廃線が決定した、のと鉄道。実際その跡地に行ってみると、駅名に驚くほど「波」の文字が使われていることがわかった。そして、近くの集落には「ドボドボ」と書かれた看板。これが意味するものとは…。のと鉄道には、能登で暮らす人の津波との歴史が刻まれていた。※本稿は、地図研究家の今尾恵介『ぶらり鉄道廃線跡を歩く』(PHP研究所)の一部を抜粋・編集したものです。
自動車の普及によって
のと鉄道は役目を終えた

「地理院地図Vector」の地形版に旧版地勢図を重ねて旧能登線を記載。なお地図左端にある、のと鉄道七尾線穴水~輪島間は平成13(2001)年に廃止。現在のと鉄道は、七尾線七尾~穴水間のみ運行している(同書より転載)。
能登半島は奥が深い。
現在では金沢の北に位置する津幡駅から北上、能登の中心都市である七尾を経て穴水まで合計87.5キロがJR七尾線および「のと鉄道」によって運行されている(両者の関係は複雑なので省略)。
かつて列車は北海岸の輪島まで走っていたが、現在では穴水で切れているため、金沢から輪島へ行く人は特急バスを使うようだ。
のと鉄道の北端にあたる穴水駅からはかつて同鉄道の能登線が分岐し、半島の東端に近い蛸島駅まで61.0キロの支線として奥能登の生活を支えてきた。
元は国鉄であったがモータリゼーションの波に勝てず廃止候補となり、昭和63(1988)年からは第三セクターの「のと鉄道」として再出発したものの、残念ながら平成17(2005)年に廃止されている。
日々新しい道路がこれでもかと新規開通して利便性を高めつつある自動車交通にローカル線が太刀打ちするのは非常に難しい。
人口分布などからして、もし現代の欧州並みに線路の近代化を施していれば乗客数も増えて生き残ったかもしれないが。
風光明媚な変化に富むルートなので廃線も魅力的だが、いかんせん61.0キロは長い。そこで私はレンタカーで車道をたどりつつ、駅とその周辺を「つまみ食い」することにした。藪こぎをいとわずあくまで全線の完歩を目指すような趣味はないので……。
2路線の相次ぐ廃止で
穴水駅の利用者は激減
輪島で借りたレンタカーで穴水駅に着くと、減少傾向が続く乗客数の推移と対照的にまだ新しい駅舎と立派な駅前広場に驚いた。取材が大相撲夏場所の前だったためか、穴水町出身の力士「遠藤関」を染め抜いた派手な幟が何本も翻っている(取材当時)。

穴水駅。のと鉄道の終点。分岐駅の名残で立派な駅舎が印象的(同書より転載)。
「石川県統計書」によれば平成8(1996)年に900人だった穴水駅の乗車数は平成27(2015)年には135人にまで減っている(2019年度は113人)。
この間のさらなるモータリゼーションの進行もさることながら、平成13(2001)年の輪島方面、同17年の蛸島方面という相次ぐ廃止が大きく響いたに違いない。特に後者では廃止前年と翌年で359人から192人とほぼ半分近くまで減らしている。
のと鉄道能登線はおおむね国道249号に沿っている。現役時代の5万分の1地形図を傍らに置き、当たり前だが線路の載っていないカーナビの表示と比較しながら進む。しかし国道ばかり走っていては併走する廃線に出会えないので、適宜脇道へ入るのが肝要だ。
中居駅跡手前の集落に入って行くと、すぐに橋桁だけ撤去した架道橋の跡が見つかった。この中居こそ遠藤関の出身地だそうだ。
穴水~鵜川間は昭和34(1959)年の開業だから私の生年と同じ。コンクリートは私よりさらに長生きするはずなので、実にもったいないことである。
時が止まったかのような
駅舎、プラットホーム、待合室
国道に戻って少し進めば中居駅跡で、ホーム上には待合室も残っている。防犯を考えて建物類はすぐ撤去されるのが常だが、能登線ではこの先の区間でも多くの駅舎や待合室が残っていた。
廃止から12年あまり(取材当時)、草刈りしてレールを敷けばすぐにでも復活できそうな雰囲気である。待合室を覗くとさすがに時計は止まっていて、その隣をツタが這い上がっていた。

中居駅跡。プラットホームはもちろん、待合室も残っている(同書より転載)。
比良駅跡あたりから国道とは離れ、並行道路がなくなるので海沿いに出る。能登島との間に挟まれた七尾北湾沿いは波静かで交通量も格段に少なく、ゆっくり走れるのはありがたい。藪の中で近づけない鹿波駅跡はスルーして海沿いの曽良という漁村を通る。芭蕉と「奥の細道」に同行した門人の名と同じだが、静かな小さな浦であった。

鹿波駅跡近くにある橋台。安全上の理由で、この架道橋の橋桁は撤去された(同書より転載)。
ほどなく甲駅跡で、現役時代は穴水駅を出て次の急行停車駅である。ブロック積みの駅舎が残っており、修繕すればまだ使えそうだ。

甲駅跡の駅舎。急行停車駅だった甲駅。頑丈そうなブロック建ての駅舎が残る(同書より転載)。
待合室内は切符の自動販売機から観光ポスターまでそのままで、なぜか室内に掲げられっ放しの日の丸が寂しい。
中の時刻表は「平成16年3月13日改正」とあり、もちろんこれが最後のダイヤ改正であった。金沢・津幡駅での連絡列車として記載してある上野発23時03分発の寝台特急「北陸」や同23時33分の急行「能登」が懐かしい。
「ドボドボ」と書かれた
看板から津波の歴史を感じた
このあたりは海沿いの集落を屈曲しながら結ぶ県道34号に沿ってたどるコースで、沖波駅跡の海側の集落に「ドボドボ」という看板が突如現れたのには驚いた。

沖波駅跡近くのドボドボ地名。津波の避難所になっていた(同書より転載)。
何という珍地名かと驚いたが、そこが津波の一時避難場所という。ドンドンとかトドロキといった水音の地名(漢字を当ててあるのが多い)は全国に分布しているが、ドボドボは初めて見る。富山出身の人の話ではドボドボは「水浸し」というニュアンスらしい。
鵜川駅跡には
人が住んでいる気配が…
藪の侵入がこれまでで最も激しい前波駅跡のホームに立って周囲の田んぼを見渡し、次は鵜川駅跡。
漁港のある鵜川の集落からは少し離れていて、昭和31(1956)年までは鳳至郡鵜川町という自治体だった(その後は能都町を経て現在能登町)。ここは甲駅の次の急行停車駅で、目の前に今も「鵜川駅前住宅」という3階建てアパートもある。

鵜川駅跡。急行停車駅だった鵜川駅跡の前に「鵜川駅前」というバス停が健在(同書より転載)。
山側を通ってきた国道249号と再会し、これを走るとほどなく矢波駅跡。道のすぐ山側にホームが残っている。
ここからしばらくは海を俯瞰しながら走るので、きっと気持ちの良い車窓風景だったのだろう。私はついにこの線は乗り損ねてしまったので、今は想像するのみだ。

波並駅跡。廃止後に、駅名標が新しく塗り替えられた。ホームもきれいに保存されている(同書より転載)。
海辺を走る路線には
「波」のつく駅名が7つもあった
波並駅跡の手前で思わず車を停めたのが三波簡易郵便局。年季の入った下見板張りに瓦葺き、いかにも戦前の建物だが、日本郵政の広告に登場したこともあるという。道草を喰いながらの廃線旅行はこんな余録が嬉しい。

三波簡易郵便局。木造で歴史を感じる。すぐ目の前には海が広がる(同書より転載)。
郵便局名はかつての自治体名をそのまま掲げていることが多いが、三波はかつての鳳至郡三波村で、矢波、波並、藤波と続く駅名の通り、波のつくこの3村が明治22(1889)年の町村制を機に合併したことに由来する。明治の大合併ではよくあるパターンである。
今は三波という地名は存在せず、能登町矢波、能登町波並、能登町藤波という。波並駅跡のホームは海を間近に見下ろす所で、駅名標は廃止後に新しく塗り替えられ、「石川県鳳至郡三波村」という旧所在地名が記されている。草刈りもしてあった。
それにしても「波」のつく駅が目立つが、数えてみると能登線の全線で鹿波、沖波、前波、矢波、波並、藤波、松波と合計7つもあった。

『ぶらり鉄道廃線跡を歩く』 (今尾恵介、PHP研究所)