新宿に「焼鳥」を広めたのは意外な乗り物だった! 徒歩5時間の仕入れを不要にした“物流革命”の正体
詩人による新宿での焼鳥屋台営業
詩人・草野心平は、詩人として生計を立てる前に、焼鳥の屋台を引いていたことがある。1931(昭和6)年のことだ。そもそも焼鳥とは何かというと、コップ酒のツマミとして明治時代の東京で生まれた屋台料理。「明治時代の焼鳥屋台」を振り返ると、そこにはコップや皿を置くテーブルやカウンターすら無かった。コップ酒で片手がふさがっている状況で、もう一方の手だけで食べるように、焼鳥は串に刺さったまま提供されていた。
【画像】「明治時代の焼鳥屋台」を見る!
さて、草野が最初に屋台をかまえたのは麻布十番だが、麻布より新宿のほうが儲かると聞いて、屋台を移転する決意をする。
新宿駅東口の目抜き通りである靖国通りは、当時は夜になると屋台がズラッと並んだ。今和次郎、吉田謙吉『考現学採集』には、1931年の靖国通りの夜店一覧が掲載されているが、食べ物屋台として焼鳥が11軒あるのに対し、おでんとゆで卵は3軒、甘栗は1軒しかない。
昭和初期の新宿では、焼鳥屋台が人気となっていたのだ。
詩人による焼鳥の下ごしらえ

草野心平『わが青春の記』(画像:日本図書センター、紀伊國屋書店)
「やきとりといっても無論豚の内臓のことで、タンとかガツとか子袋とかハツとかその他、適当に切ったのを串にさした」(草野心平『わが青春の記』)
草野によると、彼が売る焼鳥とは豚の内臓肉の串焼きであり、それが「無論」、当時の常識であった。
1960年代に米国からブロイラーが導入されるまでの鶏肉は、豚肉はおろか、和牛肉よりも高価な高級食材であった。なので庶民的な焼鳥屋台では、値段の安い豚の内臓肉の串焼きを「焼鳥」と称して売るのが常識となっていた。鶏肉の焼鳥は
「本物の焼鳥」
とよんで区別したが、その本物の焼鳥は豚の内臓肉の焼鳥の10倍の値段がしたので、庶民にとっては高嶺の花だった。
「材料屋がオートバイをとばして豚の臓物類を運んでくるのが毎日昼頃で、それから切ったり串に刺したり、なくなったタレをつくったりなどしているうちに午後の時間はたってしまう」
焼鳥の材料である豚の内臓肉は、内臓問屋が各屋台主の家にオートバイで配達してくれた。なので草野ら焼鳥店主は、三ノ輪などの遠くにある問屋に仕入れに行く必要はなかったのである。
主要運送手段であったオートバイ

トラック(オート三輪)(画像:写真AC)
60歳以上の人ならば子どもの頃に、前輪がひとつしか無いトラックが、街なかを走っている姿を記憶していることだろう。
このトラック、名前を「オート三輪」という。なぜオートかというと、自動車から派生したトラックではなく、オートバイから発展したトラックだからだ。
戦前のオート三輪は、文字通りの荷車付きトライクルバイクである。これが豚の内臓肉を新宿に運んでいたのだ。
昭和初期はトラックが普及し始めた時期だが、一般の人にはおいそれとは購入できない高価なものだった。
トラックを購入する資金のない人々に、いわば廉価版のトラックとして普及したのが、オート三輪なのである。
馬糞だらけの田舎だった新宿

戦前のオート三輪(画像:近代食文化研究会)
1905(明治38)年に新宿で生まれた紀伊國屋書店創業者の田辺茂一によると、彼が子どもの頃の新宿は、なにもない田舎であった(田辺茂一『わが町・新宿』)。
燃料問屋の息子だった田辺によると、新宿の道には馬糞が多く転がっていた。鉄道で山地から運び込まれる薪や炭を、馬車に載せ替えて東京中に配送する中継地が、新宿だったからである。
その後東京の人口は膨張し続け、西へ西へと住宅地は拡大していった。馬糞だらけの田舎にあった新宿駅は、昭和初期には人々が通学通勤に使うターミナル駅となっていった。
ターミナル駅となった新宿駅周辺に、燃料問屋にかわって増殖したのがデパートなどの商店や飲食店であった。こうして新宿は現在のような繁華街となったのだが、従来の繁華街である浅草や銀座と異なり、新宿の飲食店には解決すべき問題点があった。
食材を仕入れる市場や問屋が下町に集中しており、新宿から毎日仕入れに出かけるには、時間と労力がかかりすぎたのである。
新宿の飲食業を支えたオートバイ

田辺茂一『わが町・新宿』(画像:紀伊國屋書店)
もともと江戸~東京の人口は下町に集中しており、彼等に食料を供給する
・築地の「魚市場」
・秋葉原の「青物市場」
・三ノ輪の「内臓問屋」
も、人口密集地に近い下町に設置されていた。
大正時代に新宿から三ノ輪に内臓肉を仕入れに行くには、徒歩で往復5時間、自転車とリアカーでも2時間以上の時間が、移動だけで必要とされた。
ところが昭和時代に入るとオート三輪やトラックが普及。問屋が内臓肉を配達してくれるようになったのである。
新宿の飲食店の発展は、オート三輪やトラックの運送力が支えていたのだ。