「10cmの傷口にガーゼを詰めて武道館へ」増田惠子(68)が明かす、腹膜炎で倒れてもステージに立ち続けた壮絶すぎるピンク・レディーの4年7カ月

「スター誕生!」には綿密な作戦を練って…, 「私たちは、それを“腹黒作戦”と呼んでました(笑)」(増田), いつかアメリカのショービジネスに, 「ペッパー警部」はオリコン初登場は99位, 「日々、早くこのブームが去ってほしいと願っていました」(増田), 「お腹に穴を開けても仕事には開けられない」(増田)

左:増田惠子さん、右:近田春夫さん。

 ミュージシャンとしてのみならず、幅広いジャンルで活躍してきた近田春夫さんが、半世紀を超えるそのキャリアにおいて親交を重ね、交遊してきた錚々たる女性たちとトークを繰り広げる対談シリーズ、「おんな友達との会話」。

 2人目のゲストは、ピンク・レディーのケイとして、70年代後半に「UFO」「サウスポー」などのメガヒットを連発し、戦後芸能史に一時代を画した増田惠子さん。2026年は、ピンク・レディーのデビューから50周年、ソロデビューから45周年というダブルアニバーサリーの年に当たるんだとか。実は、近田さんとは、意外な深い縁があったようで……。

「スター誕生!」には綿密な作戦を練って…

「スター誕生!」には綿密な作戦を練って…, 「私たちは、それを“腹黒作戦”と呼んでました(笑)」(増田), いつかアメリカのショービジネスに, 「ペッパー警部」はオリコン初登場は99位, 「日々、早くこのブームが去ってほしいと願っていました」(増田), 「お腹に穴を開けても仕事には開けられない」(増田)

増田惠子さん。

近田 日本テレビの伝説的なオーディション番組「スター誕生!」で合格を決めたのは、何歳の時だったの?

増田 高校3年の2月だったんですよ。

近田 まさに卒業間際だったんだね。

増田 ええ、ギリギリでした。その前に、フジテレビの「君こそスターだ!」では落選していたし、あとは「スター誕生!」しかないと思って応募したんです。

近田 まさに背水の陣だ。

増田 当時、ミーのお母さんがカラオケを習っていたんですが、その先生の家の近くに、「スター誕生!」のプロデューサーの奥さんのいとこが住んでいたんですね。

近田 何だか、ずいぶん遠い縁をたどったんだねえ(笑)。

増田 とにかく、その人のところまで、番組に出たいとお願いに行ったら、「特別扱いはしないけど、東京で行われる予選に出られるよう手配することはできるよ」と言われたんで、予選会に参加することになったんです。

近田 あの予選って、どういうシステムだったの?

増田 会場は、当時あったそごう有楽町店の7階にあるよみうりホールでした。

近田 今はビックカメラが入ってる建物だよね。

増田 毎週日曜、あそこに、葉書で応募した大勢の出場希望者が詰めかけるんです。私たちが参加した時は、800人ぐらい来てましたね。

近田 そりゃすごいな。

増田 そこで3回ほどの審査を経て多くの参加者がふるい落とされ、テレビで放送される予選に出場できる14組が決まるんです。

近田 やっとテレビに出られるわけね。

増田 テレビ予選では、会場のお客さんの投票による点数と審査員の先生が与える点数の合計が規定のレベルに達すれば決戦大会進出が決まるんですが、私たちは、観客票だけの段階で、すでに合格が決まってしまった。私たち、やっぱりすごいじゃんと自惚れましたよ。

近田 おお。何か、「スタ誕」ならではの対策は立てたわけ?

増田 ええ。もう、「スタ誕」に落ちたら後がない状況でしたから、何度もミーティングを行い、それはそれは綿密に作戦を練りました。

「私たちは、それを“腹黒作戦”と呼んでました(笑)」(増田)

近田 具体的には、どんな戦略だったの?

増田 腕も脚も露出して歌い踊った「君こそスターだ!」では、その派手さが災いして不合格になったので、そういう部分は完全に封印してステージに臨んだんです。

近田 本来の趣味嗜好は隠しちゃったのね。

増田 私たちは、それを“腹黒作戦”と呼んでましたけどね(笑)。とにかく田舎娘を装うことにして、衣装は開襟シャツにサロペット、本来の振り付けも95%カットして、手ぐらいしか動かさない。さらに、妙に場慣れした落ち着きを気取られぬよう、わざとオドオドしてみせたりして。

近田 化けの皮をかぶってたんだ。しかし、周到にもほどがあるよ(笑)。

増田 ユニゾンとハーモニーを聴かせることに専念して、結果は大成功でした。

「スター誕生!」には綿密な作戦を練って…, 「私たちは、それを“腹黒作戦”と呼んでました(笑)」(増田), いつかアメリカのショービジネスに, 「ペッパー警部」はオリコン初登場は99位, 「日々、早くこのブームが去ってほしいと願っていました」(増田), 「お腹に穴を開けても仕事には開けられない」(増田)

2人の作戦に興味津々の近田さん。

近田 その時は、何を歌ったの?

増田 ヤマハ所属のピーマンっていう女性3人組の「部屋を出て下さい」という曲。

近田 知らないなあ。何でまたその曲を選んだわけ?

増田 「スタ誕」って、みんな、その時に流行ってる歌を歌うじゃないですか。でも、そんなの、オリジナルのヴァージョンの印象が強いから、そっちに叶うわけがない。だから、あえてあまり知られていない曲を選んだんです。

近田 でもさあ、視聴者的には、耳馴染みのある曲の方がうれしいよ(笑)。

増田 そっかあ。でも、自分たちの人生は、自分たちで決めたかったんですよね。

近田 まあ、結果オーライだよ。決戦大会では、有望株の獲得を目指す芸能プロダクションやレコード会社の担当者が、自社の名前が記されたプラカードを掲げて入札するのが名物だったよね。

増田 決戦大会では、合計8社がプラカードを上げてくれました。

近田 そこで、ほぼデビューが決まったってことだよね。感激した?

増田 本当はジャンプして喜びたいぐらいの気持ちだったのに、「スタ誕」にかける思いがあまりにも強すぎたからか、その瞬間、抜け殻みたいになっちゃったんです。

近田 放心状態になっちゃったのね。

いつかアメリカのショービジネスに

増田 その後、後楽園ホールでの決戦大会の収録が終わってから、同じビルの2階にある「後楽園飯店」で面接があるんですね。プラカードを上げてくれた会社が一社一社来てくださって、自分たちのところのPRをされるんですが、みなさん、大体は3人ぐらいで連れ立って来て、同じようなことしかおっしゃらないんです。

近田 まあ、恐らくは、通り一遍の内容になっちゃうだろうね。

増田 ところが、後に私たちのプロデュースとマネジメントを手がけることになる相馬一比古さんだけは、たった一人でやって来て、「君たちを、いつかアメリカのショービジネスで勝負させたい」と言い残して帰られたんです。

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懐かしい名前や楽曲が飛び交う!

近田 壮大な夢だよね。その時点では大風呂敷といってもいい。

増田 それがすごく衝撃的で。いろいろと知名度の高い会社も来てくださったんですが、ミーも私も、この人の会社に行きたいと決めちゃったんですよ。

近田 当時、相馬さんはどんな立場だったの?

増田 大手の芸能事務所である芸映から独立して、「アクト・ワン・エンタープライズ」を設立したばかりでしたね。「スター誕生!」のプロデューサーの方からは、「あの会社はまだできたばかりだから、今後どうなるか分からない。やめた方がいいよ」と忠告されたんですが、「いや、あそこにしか行きたくない」と答えました。

近田 決心は固かったのね。

増田 そして、私たちはアクト・ワンに所属することになり、アクト・ワンは、間もなく「T&Cミュージック」という新たな事務所になりました。

近田 そして、1976年8月に、クッキー改めピンク・レディーは「ペッパー警部」でデビューするわけだよね。あの曲を渡された時は、どんな感想を抱いたの?

増田 あとは私たちの歌を吹き込むだけというところまで出来上がったテープを聴いたんですが、イントロが流れ出した瞬間、体が硬直しちゃった。「これこそが、私たちの歌いたかったソウルフルなナンバーだ!」って言い合って、その場で、ミーと2人で号泣したんです。

「ペッパー警部」はオリコン初登場は99位

近田 そんな「ペッパー警部」だけど、リリース当初の売れ行きは、さほど芳しくなかったんでしょ。

増田 発売から2カ月ほどは、全然振るいませんでしたね。オリコン初登場が99位で、翌週は103位でしたから。

近田 そんなに地味なもんだったんだ。後の大ヒットが噓みたいだね。

増田 さらに、「スター誕生!」のデビューコーナーであの曲を披露した時は、審査員だった松田トシ先生から「若い女の子が股を広げるこんな下品な振りは、絶対に変えなさい」と叱られたそうです。それに対し、振り付け師の土居甫先生は、「これをやめるぐらいなら、自分はこの仕事を降ります」と守ってくださいました。

「スター誕生!」には綿密な作戦を練って…, 「私たちは、それを“腹黒作戦”と呼んでました(笑)」(増田), いつかアメリカのショービジネスに, 「ペッパー警部」はオリコン初登場は99位, 「日々、早くこのブームが去ってほしいと願っていました」(増田), 「お腹に穴を開けても仕事には開けられない」(増田)

デビュー当時の記憶も鮮明。

近田 潮目が変わったきっかけは?

増田 あの頃、毎年10月に新宿音楽祭というイベントがあったじゃないですか。

近田 はいはい。文化放送が主催する新人賞主体の催しだったよね。

増田 そのステージに私たちが登場した瞬間、満員のお客さんがギャーッと盛り上がったんですよ。あの時点から、すべてが変わりました。それがきっかけで、「ペッパー警部」のセールスが動き出したんです。

近田 その後は、出す曲出す曲すべてが大ヒットを記録し、怒涛のような日々が続くことになるわけだよね。そして、1978年には、「UFO」で日本レコード大賞を受賞します。

増田 レコード大賞を獲った時は、これでやっと、作詞の阿久悠先生、作曲の都倉俊一先生、振り付けの土居甫先生、ビクターの飯田久彦さん、プロデューサーの相馬一比古さんをはじめ、お世話になってきたみなさんにご恩を返せたと思いました。ひとまず、重たい荷物を下ろした感がありましたね。

「日々、早くこのブームが去ってほしいと願っていました」(増田)

近田 あそこで、2人はまさに絶頂を迎えたよね。

増田 デビューからしばらくは、ただ歌って踊れるだけで幸せだったんです。でも、「S・O・S」あたりから、ふと、ターゲットが低年齢化しちゃったなと感じ始めたんですよ。途中で、ピンク・レディーのコンセプトが、子ども向けに変わってきた。そのために、歌も難しくなり、振りも激しいものになっていったんです。

近田 そこは、本人たちの望むところではなかったの?

増田 はい。いつまで経っても歌唱力を認めてもらえないことに関しても、シンガーとしてはフラストレーションを感じていましたね。絶対、口にはできなかったけど。

近田 ピンク・レディーってさ、エンタテインメントの総体として消費されていたんだよね。もちろん、その充実ぶりは、歌や踊りといった個々の要素に魅力があってこそのことなんだけど、圧倒的なパフォーマンスを目の前にすると、細部までは注意がいかない。表現者として、そこに不満を感じる気持ちはすごくよく分かるよ。

「スター誕生!」には綿密な作戦を練って…, 「私たちは、それを“腹黒作戦”と呼んでました(笑)」(増田), いつかアメリカのショービジネスに, 「ペッパー警部」はオリコン初登場は99位, 「日々、早くこのブームが去ってほしいと願っていました」(増田), 「お腹に穴を開けても仕事には開けられない」(増田)

今では考えられないスケジュール。

増田 もっともっと、大人の歌を歌いたかったし、真の実力を見極めてほしかったんです。自分たちが乗っかっているのは、あくまでもある種のブームであると自覚していたから、2人とも、日々、早くこのブームが去ってほしいと願っていました。

近田 そうなんだ。しかしまあ、想像を絶するほど忙しかったんだろうね。体は壊さなかったの?

増田 壊しましたよ。1977年の12月に、私、盲腸をこじらせて、腹膜炎で倒れたんですよ。手術後、普通なら2週間以上は入院してなきゃいけないんですが、9日間で切り上げて退院したんですよ。

近田 何でまた?

増田 年の瀬に、武道館公演を控えていたんです。当日は、10cmぐらいパックリ開いたままの傷口に、先生がガーゼを詰めて、ラップを巻いた上に衣装を着て歌いました。

近田 えーっ! それ、今の時代じゃ許されないよね。

「お腹に穴を開けても仕事には開けられない」(増田)

増田 何も、誰かに強いられたわけじゃなくて、たとえお腹に穴を開けられても、仕事には穴を開けられないと思ってましたから。

近田 上手いこと言うね(笑)。

増田 当時の芸能界では、それが当たり前の考え方でした。だって、多い時は、一日に15本も仕事が入ってましたから。やってもやってもやってもやっても一日が終わらない。今日は何をやるのかなんてまったく把握してなくて、ただマネージャーについていくだけという状況でした。途中からは、レッスンする時間も満足に取れない。

近田 ピンク・レディーは、浮き沈みの激しい芸能の世界で、さまざまな局面に遭遇したわけだけど、その中でも稀有な体験が、1979年のアメリカ進出だよね。

「スター誕生!」には綿密な作戦を練って…, 「私たちは、それを“腹黒作戦”と呼んでました(笑)」(増田), いつかアメリカのショービジネスに, 「ペッパー警部」はオリコン初登場は99位, 「日々、早くこのブームが去ってほしいと願っていました」(増田), 「お腹に穴を開けても仕事には開けられない」(増田)

ピンク・レディーの活動は4年7カ月。

増田 あそこで、相馬さんの夢を叶えたわけですが、本当なら、エンターテイナーとしての実力や英語のスキルをしっかりと蓄えてからアメリカで勝負したかった。

近田 そうすれば、運命も変わっていたかもしれないね。

増田 デビューしてからずっと、レッスンの時間も曲を覚える時間もなく眠る時間を割いて走り続けてきて、ましてやアメリカでも英語の発音もままならないのに週5曲の新曲と前編英語のトークの収録は本当に大変で、心臓がいくつあっても足りなかったです。でも、それをやり遂げたのは大きな自信になりましたけど。

近田 ピンク・レディーって、結局、デビューから何年間活動を続けたんだっけ?

増田 4年7カ月です。

近田 今振り返ってみれば、意外と短かった気がするよ。そして、ソロとしての第二の歌手人生が始まるわけだよね。

増田惠子(ますだ・けいこ)

1957年静岡市生まれ。中学校の同級生であったミー(根本美鶴代)とクッキーという名のデュオを結成し、「スター誕生!」に出場、決戦大会で合格を果たす。1976年、ピンク・レディーとして「ペッパー警部」でデビュー。「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」など大ヒットを連発し、「UFO」では1978年の日本レコード大賞を受賞する。解散後の1981年、中島みゆき作詞・作曲の「すずめ」でソロデビュー。40万枚のヒットを果たす。再始動したピンク・レディーとしても、活動を続けている。2月6日(金)には、有楽町マリオン別館7F「I’M A SHOW」にて「増田惠子・ソロデビュー45th anniversary concert I Love Singing スペシャル! ~ソロシングル、カバー、そしてピンク・レディー」を開催予定。

近田春夫(ちかだ・はるお)

1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、半世紀を超えるキャリアを総覧する『未体験白書』(シンコーミュージック・エンタテイメント)。