「横浜」港町の裏で巨大団地群が映す街のリアル

洋光台駅と洋光台中央団地(筆者撮影)
「横浜」と言えば、赤レンガ倉庫や山下公園、中華街といった港町の華やかなイメージを思い浮かべる人が多いだろう。
【写真を見る】横浜なのに「巨大団地群」華やかな港町の裏にある街のリアル
一方で、横浜市は370万人以上と国内の市町村で最も多い人口を抱える大都市としての側面を持つ。その多くの住民は横浜港の周辺ではなく、少し内陸に入った丘陵地帯で暮らしている。
第2次世界大戦後、横浜市の人口は倍以上に増えており、その人口増加は東京の「ベッドタウン」化によって主に牽引されてきた。また、この人口増加の中で住宅団地も数多く建設されており、近年はベッドタウン、住宅団地の双方でストックを活用した持続可能なまちづくりが進められている。
今回はそうした横浜の住宅地の一例として「洋光台」を紹介したい。横浜市南部にあり、大規模なUR賃貸住宅があるエリアだ。このまちでは、どのような風景が広がり、どう変わろうとしているのか。まちの風景やそこへ至るまちの歴史、現在進んでいるプロジェクトを追うことで、住宅都市としての横浜の未来を考える手がかりとしたい。
洋光台駅とその周辺
洋光台は横浜市南部、磯子区に位置している。横浜駅からはJR根岸線に乗車し、約20分で最寄りの洋光台駅へアクセスできる。
横浜駅からJR根岸線の大船行き電車に乗ると、はじめは観光に来た雰囲気の人も多い。そういった人々は、みなとみらいや山下公園、中華街などに向かうために、桜木町駅から石川町駅までの間に下車する。

洋光台駅周辺の遠景。奥にはランドマークタワーをはじめ横浜市中心部の建物が見える(筆者撮影)
石川町駅を発車したあとに車内を見渡せば、日常使いの雰囲気の人々が乗客のほとんどを占めていることがわかるだろう。
そのうちに電車はトンネルをいくつか抜け、根岸湾の工業地帯を横目に走り、今度は再び丘の中に入っていき、やがて洋光台駅に到着する。
駅は半地下構造で、改札はホームの上にある。駅舎は小さめかつシンプルな作りだ。2024年度の乗車人員は1日平均約1万8000人で、約65%が定期券利用者であることから、この駅が住宅地に立地する駅であることがうかがえる。
しっかり整備された駅前広場には駐輪場、タクシー乗り場のほかに、バス乗り場が複数あり、頻繁にバスの発着が見られる。主要路線は横浜市南部の商業集積地である上大岡方面で、港南台や上中里団地など周辺の団地を結ぶ路線なども乗り入れる。
洋光台駅のように住宅地であっても駅前から頻繁にバスが発着する風景は、横浜市内ではよく見られる。丘陵地帯が多いことに起因するものだが、バスの発着が多いからといって大型商業施設をはじめとした大きな商業集積がみられるわけではない。
洋光台の場合は駅前にスーパー「オリンピック」と「ピーコックストア」があるが、売り場面積が非常に大きな店舗ではない。また、駅周辺に大きな商店街があるわけでもない。そうすると、人通りに対して少し商業集積が寂しいようにも見える。こうした独特の風景もまた、横浜市内の駅前では時折見られる風景である。
丘陵地に広がる団地群
洋光台の位置と駅前の雰囲気を紹介したところで、駅周辺の様子を見ていこう。

洋光台中央団地に挟まれる形で立つ洋光台駅(筆者撮影)
駅舎の南北には、9階から15階建ての高層住棟群が立ち並ぶ。これらはUR賃貸住宅の「洋光台中央団地」だ。駅前を南北に貫く洋光台通りから眺めると、高層住棟に挟まれた小さな駅舎がアンバランスに見える。

洋光台中央団地の広場。隈研吾氏デザインで室外機置き場にパネルが、2階部分に庇付きのデッキが設置された(筆者撮影)
駅北側にある広場も特徴的だ。高層住棟の間に設けられた広場は、遠近感をうまく利用した設計になっていて、実際よりも広く感じられる。広場に面した建物の低層部は店舗として設計されており、空き区画もみられるが、青果店や飲食店などの店舗が営業している。

洋光台駅の南側から洋光台駅方面を見た様子(筆者撮影)

洋光台駅の北側から洋光台駅方面を見た様子(筆者撮影)
広場の西側、洋光台通りに出ると、南北どちらを向いても上り坂が続く。洋光台駅はちょうど谷底に位置し、坂を上った丘の上には、整然とした住宅地が広がる。住宅地は戸建て住宅を中心に、一部の区画には5階建ての集合住宅が建ち並ぶが、集合住宅の占める率が一般的な郊外住宅地より高めだ。
これらの集合住宅は、主にUR賃貸住宅や日本住宅公団時代に分譲された住宅だ。駅前の洋光台中央住宅を含め5地区に分かれ、合計約150棟・4500戸以上にもなる。ここに市営・県営住宅を加えると、洋光台エリア全体で約200棟・6000戸にのぼる。
これは以前紹介した(『東洋一のマンモス団地「松原団地」60年経った今』)草加松原団地の再開発前(300棟強・約6000戸)とほぼ同じ戸数であり、大規模な団地群といえよう。

洋光台中央団地(筆者撮影)
洋光台の住宅地(地名が「洋光台」のエリア)は、土地区画整理事業を経て造成された。そのため、片側2車線の洋光台通りをはじめ、整然とした道路網が整備されており、鉄道やバスだけでなく自動車の交通量も多い。南側には環状3号線が通り、西側の港南台エリアにはロードサイド型の店舗や商業施設も見られる。また、洋光台と港南台の間には横浜横須賀道路(通称「横横」)が通り、広域移動も便利だ。

環状3号線の港南台エリアにはロードサイド店が見られる(筆者撮影)
このように整然とした街並みと道路網、大規模な団地群をはじめとした特徴的な洋光台の風景はどのように生まれたのか。その背景には、横浜市が経験した急激な人口増加がある。
戦後の横浜市の発展と「洋光台」
洋光台はどのような背景で開発されたのだろうか。その経緯は、第2次世界大戦後における横浜の発展の歴史と重なる部分が大きい。
第2次世界大戦後、東京の都市圏拡大とともに横浜市の住宅需要は高まり続けた。これに対し、横浜市は1957年に「横浜国際港都建設総合基幹計画」を策定し、90年までに人口が250万人に達すると予測した。人口増加により市域の6割以上を占める丘陵地で宅地開発が進み、家屋の過密化、緑地不足、不規則な土地利用が起きることが懸念されていた。
そこで計画では農地として保護するエリアと市街地を形成するエリアを指定し、250万人という人口を受け入れようとした。しかし57年から始まった急速な人口増加により、計画の前提が破綻してしまい、市内各地で宅地開発がはじまった。
同じ頃、横浜市には別の大きな構想があった。横浜港のさらなる拡大による産業振興である。50年代、横浜市は桜木町駅から大船駅までを結ぶ鉄道路線「桜大線」の建設を国に要望していた。
初代横浜駅として開業した桜木町を起点に、根岸湾を経由して東海道線と横須賀線が分岐する交通の要衝・大船へ至る路線は、根岸湾を横浜港の一部として開発し、産業振興を進める計画の要となるインフラとして期待された。要望は57年に実り、国鉄根岸線の建設が決定する。
全市的な良質な住宅地形成の要請と鉄道建設計画。この2つが結びつき、根岸線沿線は計画的住宅地開発の好適地として浮上した。そして、63年策定の「横浜国際港都建設総合基幹計画(改定案)」に開発計画として根岸線沿線の住宅開発が明記されたのである。
洋光台の開発はこの頃に始まった。地域住民が小学校建設を要請したことが発端だったという記述もあるが、根岸線建設がこの地での住宅造成を決定づけたことは間違いない。開発は63年の土地買収から始まった。最終的には土地区画整理事業として実施されたが、一般的な換地を中心とした手法とは異なり、洋光台では土地買収が中心であった。
「洋光台」という名前の意外な由来
事業開始時は住宅造成で生まれる団地の仮称として、横浜市編入前の旧村名「日下(ひした)村」から「日下(くさか)団地」と名付けられていた。そこに「洋光台」という名前が現れたのは65年策定の「横浜国際港都建設総合計画」である。この計画では現在の港南台地区も含む約550ヘクタールの「合理的なニュータウン」建設が「洋光台団地の建設」として明記された。
洋光台という地名は、「日下」を改称して行政主導で名づけたものだ。由来としては、作業員が朝に洋光台エリアから港を眺めたとき、朝日があまりにも美しかったことから「洋光台」という名前にしたとされる。
土地区画整理事業は66年から本格化し、約200ヘクタールの土地が整備されていった。70年、根岸線の磯子駅から洋光台駅の間が開業すると同時に、公団分譲・賃貸住宅への入居が始まる。73年の土地区画整理事業完了までに、現在に至るまちの骨格は定まった。
鉄道とセットで進められた住宅地の大規模開発という洋光台のモデルは、その後、同じく根岸線沿線の港南台、本郷台、そして横浜市北部の港北ニュータウンの開発へと継承されていった。
ここまで洋光台の風景とまちの成立背景を見てきたが、ここからは今後の洋光台について考えていきたい。
造成から約50年が経過した洋光台が直面する最大の課題は、急速な高齢化だ。同時期に開発された住宅地では住民の世代が集中しやすく、一気にオールドタウン化する傾向がある。
実際、洋光台の高齢化率は2000年の16.2%から20年には31.3%へと倍増し、磯子区全体(27.0%)を大きく上回る。一方、15歳未満の人口割合は9.3%にとどまり、区全体(11.3%)より低い。高齢化が進む一方で若年層の流入が少なく、このままでは地域の持続可能性が危ぶまれる状況だ。
こうした状況を受け、10年頃から神奈川県、横浜市、URがそれぞれ郊外住宅地の持続可能性を高めるプロジェクトを立ち上げた。その中核となったのが、URが11年に開始した「ルネッサンス in 洋光台」プロジェクトである。
このプロジェクトは、以前、別の記事で紹介した東京都のひばりが丘団地でのルネッサンス計画(『すかいらーく発祥「ひばりが丘団地」64年経った今』)とは異なり、住棟・部屋単位のリノベーションだけではなく、団地およびまち全体を一体的に捉えるものである。
プロジェクトの推進体制としては、2つの会議体が設けられた。地域住民と行政、URが議論するエリア会議と、建築家の隈研吾氏を座長に佐藤可士和氏ら専門家が参加するアドバイザー会議である。この2つの会議を核として議論を重ね、15年には洋光台にとどまらない「団地の未来プロジェクト」へと発展していった。
持続可能な郊外住宅地のモデルを目指す
議論に基づいた取り組みは、主に洋光台中央団地と洋光台北団地で行われた。ハード面の取り組みに限ってみると、洋光台中央団地では外壁塗装を一新し、室外機置き場に木の葉をモチーフとしたデザインを採用した。広場には庇、デッキ、ベンチを設置して広場の活用を促した。
洋光台北団地ではベランダの手すりに枝をモチーフとしたデザインを採用し、階段室外壁を木目調とすることで温かみのある空間を創出した。また、集会所の改修にあたって、新たにコミュニティカフェや図書室を設置するとともに、サンクンガーデンを拡張した。現在は洋光台北団地の住棟一部建て替え事業も進行している。

洋光台北団地はベランダのほか写真のように階段室側にも木をイメージした装飾がされている(筆者撮影)

改修された洋光台北団地の集会所と建て替え中の高層住棟(筆者撮影)
分譲団地である洋光台南第一住宅では、住民主体の取り組みが展開された。横浜市やURのサポートを受けながら住民自らが団地の将来像を議論する過程で、集会所と管理事務所機能を持つ給水塔を解体し、低層の新施設へと建て替える事業が実現した。この過程でコミュニティ活動も活性化し、新たなコミュニティ拠点が形成されていった。
こうしたハード面の整備に加えて、地域活動拠点の設置や防災力強化など、ソフト面でもまちの魅力を維持・向上させる取り組みも展開されている。洋光台は団地とまちを一体的に捉える先進的な試みを通じて、持続可能な郊外住宅地のモデルを目指している。
リノベーションなど魅力向上の取り組みが進む一方で、構造的な課題も残されている。それは洋光台の立地だ。
時間距離と地形という2つの構造的制約
洋光台は根岸湾に近く、横浜市内で働く人々が暮らすまちと思われそうだが、実際は異なる。20年の国勢調査によれば、洋光台で暮らす就業者の17.8%(約1800人)が他県で従業しており、その大半は東京23区への通勤だ。洋光台から東京都心部へは電車の乗車時間だけで60分を超える。人口減少が加速する中、この時間距離は新たな住民を呼び込む上で不利に働く。
この課題は洋光台だけのものではない。20年の国勢調査によれば、横浜市全体から東京23区へは毎日39万人弱が通勤(他県通勤者の9割)し、横浜市の昼夜人口比は91.1%と、ベッドタウンという構造的特性を色濃く残している。特に東京都心に対して時間距離が遠い横浜市南部の住宅地は、洋光台と同様の課題を抱えているところも多い。
加えて横浜市では、市の面積の6割以上を占める丘陵地に住宅が広がっている。坂道の多い地形は、住民の高齢化が進めば日常生活の大きな負担となり、まちの人口減少を加速させる要因ともなりうる。時間距離と地形という2つの構造的制約により、かつてのような人口流入は見込みづらい。

洋光台北団地では高層住棟の建て替えが行われている(筆者撮影)
洋光台の風景が生まれる経緯で示したように、東京のベッドタウンとして急速に発展した横浜市内の住宅地は、その発展期を終え、新たな段階に入っているといえる。
こうした状況の中、洋光台では「よりよい成熟」や「ゆとりのあるまちづくり」という視点に立ち、「発展」や「成長」とは異なるモデルで持続可能性の向上が模索されている。外観改修やコミュニティ拠点の整備を通じて地域の魅力を維持し、既存ストックを活かしながら地域としての持続性を高める。急激な回復ではなく、安定的な維持を前提とした取り組みだ。

洋光台駅前の根岸線を越える橋は旧地名をとって「矢部野橋」と名付けられている。矢部野は全域が洋光台となった(筆者撮影)
洋光台がどのような経緯で生まれ、発展したのかを振り返り、現状の課題やポテンシャルを再確認することは、こうした取り組みを進める上で重要だ。また、市内でも早くから計画的に造成されたまちだからこそ、洋光台における模索は、市内他地域のモデルケースとなりうる。
みなとみらいや中華街など華やかなイメージで知られる横浜だが、住まいという面で見れば、丘陵地に広がる住宅都市であり、370万人の大半は洋光台のような郊外住宅地で暮らしている。
その未来は決して華やかではないが、計画的開発と急速な高齢化という道を辿った洋光台の「いま」は、成長を前提としない時代における大都市郊外住宅地の転換期を、明瞭に映し出している。