今年で70歳「明石家さんま」トーク番組が中心の訳

(写真:『さんまのお笑い向上委員会』HPより引用)
今年で70歳!一線で活躍する明石家さんま
つねに第一線で活躍し、誰にも真似できない司会ぶりで世間を笑わせてきた明石家さんま。今年7月、そんなレジェンドが70歳を迎える。
【写真を見る】明石家さんまの師匠、笑福亭松之助
『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)、『痛快!明石家電視台』(MBSテレビ)、『さんまのお笑い向上委員会』、『ホンマでっか!?TV』(ともにフジテレビ系)、『MBSヤングタウン土曜日』(MBSラジオ)など、現在も多くのレギュラー番組を担当。
そのほとんどが10年以上続く長寿番組であることからも、時代を問わず高い人気を獲得してきたことがうかがえる。
「ファー」という甲高い引き笑いが聞こえたかと思えば、両手で髪をかき乱してしゃがみ込んだり、指差し棒で司会者台をバンバン叩いたりしながら、スタジオにいる誰よりもゲストのトークを面白がる。続いて、別の出演者に話を振り、驚いたりスカしたり怒ったりして緊張感を生み出し、あれよあれよと次なる笑いへとつなげていく。
これは『さんま御殿!!』のイメージで、番組の色や共演者によってスピード感や声のトーンは変化する。とはいえ、一貫しているのは“面白い雑談”を思わせるトーク番組を長らく続けてきたことだ。
さんま自身、「人が一生分しゃべるのを使い切っているらしい」と語るほどトーク中心の番組が目立つが、そのスタイルをキープし続けてきたのはなぜなのか。これまでのキャリアを振り返りつつ、その理由に迫ってみたい。
さんまは、「17歳が笑いの頂点」だったとよく語っている。高校時代、サッカー部の練習に明け暮れ、部室で野球選手の形態模写をやって仲間たちを笑わせ、文化祭で2時間の独演会を開催するなど、絵に描いたような学校の人気者だった。
そんな中、英語の授業中に先生から「お前、吉本行け」と言われた。これがお笑いの世界に入るきっかけになった。
師匠・笑福亭松之助との出会い
目指すべき道が決まったさんまは、まず好きな落語を観ようと吉本興業の劇場「なんば花月」に足しげく通うようになる。さまざまな落語家を観る中で、生意気ざかりの少年を唯一笑わせたのが後の師匠・笑福亭松之助だ。

笑福亭松之助(写真:NHKアーカイブスより引用)
松之助は、「将来性がない」と判断するとすぐに弟子を辞めさせることで知られる。しかし、さんまだけはかわいがられた。松之助から「なんでわしを選んだんや?」と聞かれたさんまが「センスありますさかい」と答えたエピソードは有名だ。普通なら怒られる場面だが、松之助は高校生のさんまに「センスあるか、わし?」と返したという。最初から共鳴するものがあったのだろう。
1974年、高校を卒業する間際に松之助に弟子入り。実家が水産加工業だったことから、“笑福亭さんま”と命名された。ところが、さんまは半年足らずで修業を放り出し、当時の交際相手と上京。若さゆえの行動だったが、程なく生活は行き詰ってしまう。
半年後、大阪へと戻り松之助のもとを訪ねると、破門させられるどころか明るく励ましてくれた。さらには、さんまがテレビタレント向きであると見込み、上方落語界で肩身の狭い思いをしないようにと自身の名字「明石」からとった“明石家”という亭号を授ける。明石家さんまの誕生だ。
テレビデビューは、1976年1月放送の『11PM』(よみうりテレビ/日本テレビ系)。この年に20歳を迎える上方落語家を集めた企画で、松之助はさんまに着物ではなく真っ赤なスーツを着て行けとアドバイスする。その衣装でしゃべりにしゃべったさんまは、番組で大いに目立った。司会者で作家の藤本義一からは生放送中に説教を受けたが、漫才師の横山やすしには気に入られた。
吉本興業創業100周年事業として制作されたドキュメンタリー『ワレワレハワラワレタイ ウケたら、うれしい。それだけや。』(2017年10月より、芸人数組分のインタビューを1本分の映画として順次公開)の中で、松之助はインタビュアーの木村祐一に「まぁしゃべりよったね。真っ赤で、ほかはちゃんと着込んで皆着物ですわ。(中略)家でこうやって(筆者注:拍手して)『やれ、やれー!やれ、やれーい!もっと行けー!!』言うてテレビにやっとったんですよ」(2014年12月撮影時)と満面の笑みで語っている。
こうした松之助のスタンスは、さんまの芸風にも通じていると思えてならない。
「ピンはいらん」「うちは漫才やから」と所属事務所の吉本興業から諭され、松之助から「シャレで漫才するのもおもろい」との助言もあり、1976年~1977年は兄弟子の明石家小禄(現・五所の家小禄)と漫才コンビでも活動していたさんま。その短い間に、ターニングポイントが訪れる。
1976年10月から始まる新番組『爆笑三段跳び!』(読売テレビ)の前説を任された折、司会を担当する落語家・笑福亭仁鶴がなかなか到着しない。当時人気絶頂の仁鶴は多忙を極め、さんまらが前説を始めて1時間以上経っても姿を見せなかった。いよいよネタが尽きると、さんまは高校時代に部室でやっていた形態模写を披露し始める。
当時の読売巨人軍の1番から打順を追ってものまねし、最後にエースの小林繁をやって見せると思った以上にウケた。これを機にさんまはテレビ出演が増え始め、仁鶴のようにピンで活動する意思をさらに強めた。
「漫才ブームのときはつらかった」
その後、桂三枝(現・桂文枝)が司会を務める人気番組『ヤングおー!おー!』(毎日放送)のメンバーに抜擢され、1979年に『明石家さんまのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)がスタートするなど、徐々に全国区のスターへと階段を上っていく。そんなさんまの前に立ちはだかったのが、『THE MANZAI』(フジテレビ系)に代表される1980年代初頭の漫才ブームだった。
「漫才ブームのときは一番、もうピンは本当につらかったね。ふたりでワーッとやられるのとピンでしゃべるのとでは(筆者注:違う)。そら漫才ブームやったし。(中略)とにかく漫才で売れてるメンバーの背中が見える位置でおろうと。マラソンで例えるとね。『こいつらの背中見えてるな』と思ってると、きっと大丈夫や何年後かは、という気持ちはあった」(前述の『ワレワレハワラワレタイ』2014年10月撮影時の明石家さんまの発言より)
シュッとした容姿でスポーツも得意だったさんまは、アイドルにも引けを取らない人気ぶりを見せていた。その一方、あえて「歌が下手」だという弱みを見せることで、同性からの支持も獲得していく。
『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の「タケちゃんマン」では、病欠の高田純次の代わりに悪役のブラックデビルを好演し、レギュラーの座をつかむ。1984年から『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の金曜レギュラーとなり、1986年にテレビドラマ『男女7人夏物語』(TBS系)で主演を務めるなど、いよいよさんまは時代の顔となっていく。

『男女7人夏物語』(写真:TBS公式サイトより引用)
そんな中、1985年に『さんまのまんま』(関西テレビ/フジテレビ系)、1988年に『あっぱれさんま大先生』(同系)、1992年に『さんまのからくりTV』(TBS系)、1994年に『恋のから騒ぎ』(日本テレビ系)がスタート。現在の「司会者・明石家さんまによるトーク中心の番組」のイメージは、この時期に確立されたと言っていいだろう。

「さんまのまんま」(写真:関西テレビ公式サイトより引用)
今振り返ると、さんまはあらゆるものを“テレビ的な表現”として定着させてきたことに気づく。
例えば、先に触れた野球選手の形態模写。芸能界入りが遅かったタモリは、九州でボウリング場の支配人を務めていた頃に、テレビで若手時代のさんまの芸を見てイグアナの形態模写を始めたという。
「たしか『11PM』やと思う、番組内で僕は兄弟子と二人で形態模写をやらされたんですよ、それをテレビでタモリさんは見てらっしゃったらしいんです。ほいで『イグアナできるな』ってなって、タモリさんはイグアナの真似をしたら九州でウケたという」<『SWITCH Vol.41 No.1』(スイッチ・パブリッシング)明石家さんまの発言より>
そのタモリに「なんだかわからないけど面白い」と言われ、時代の寵児となったのがとんねるずだ。彼らもまた、帝京高校の部室や合宿先で各々がものまねを披露し、仲間たちを笑わせていた。
マニアックなものまねで知られる関根勤などを含め、彼らは漏れなくテレビに魅了された者たちだった。そして、そのスピリットは今も人気を博す『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ』(フジテレビ系)へと受け継がれているのが興味深い。
テレビで「関西標準語」を作ってきた
もうひとつ特筆すべき点が、テレビで“関西標準語”を作ってきたことだ。きっかけとなったのは、さんまが漫才ブームの流れで始まった『笑ってる場合ですよ!』(同系。1980年~1982年終了)の演芸コーナーでネタを披露したときの違和感にあった。
「『それがパッチ(筆者注:股引の関西弁)でしたんや』でシーンっと。大阪ではもう試してウケてるネタやのに、シーンっとして『え?』と思って帰って。ほんならディレクターがきて『パッチって何?』って言われて、『あっ、そうか!これがわかれへんかったんか』って言うて」(前述の『ワレワレハワラワレタイ』本人の発言より)
これを機にさんまは、「ほかす(捨てる)」といった伝わりにくい関西弁を削り、実生活では使わないが語感の面白い「でんがな」「まんがな」を強調して全国ネットのテレビで伝わる関西弁を模索していく。そのことで、後続の関西芸人が東京で活動しやすくなったのは間違いないだろう。
また、共演者のあらゆるリアクションを想定し、体と声色を存分に使って次々と“被せ技”を見せるのもさんまならではだ。「イヤ~ン!」「めっかっちゃった!」「(舌でペン先を舐め、メモを取るマイムで)そのギャグ、いただき」「バッサリいかしていただきます」など、数え上げれば切りがない。
うめだ花月の前の路上で信号待ちをしていた折、中学生3人組のひとりにおしりを蹴られたさんまが「ナイスキック!」と返して閉口させた有名な逸話は、つねにテレビで被せ技を披露していたことによる条件反射だったのかもしれない。
トーク番組を中心に据えた理由
こうした“軽さ”と同時に、1998年放送の『めちゃ×2イケてるッ!』(フジテレビ系。1996年~2018年終了)にゲスト出演して以降、若手に厳しい“お笑い怪獣”というイメージも強くなった。
その一面は、さんま自身が若手時代の自分をしかってくれた先輩への感謝から出たものかもしれない。前述の『SWITCH Vol.41 No.1』の中で、落語家・桂文珍は『ヤングおー!おー!』の「ザ・パンダ」<先代の林家小染、月亭八方、桂きん枝(当代の桂小文枝)、桂文珍からなる番組内のユニット>に加入した当時のさんまをこう振り返っている。
「この子はすごいなぁと思たね。段取りを決めてるでしょ。それを、さんちゃんは忘れるねん。忘れても平気。『カァッー!』て明るい。セットの裏に入った途端に、三枝の兄貴に物凄い怒られるねん。でもさんちゃんは『ハハハッ!』とか言うて。やっぱり普通の人やなかったね」
文珍が話す「三枝の兄貴(桂三枝)」は、『ヤングおー!おー!』の新たなレギュラー出演者にさんまを強く推薦した張本人だった。期待するがゆえの厳しさだったのだろう。
他方、さんまは年齢の離れた若手にもライバル心を持ち続けてきた。前述の『ワレワレハワラワレタイ』の中で、「やっぱ皆、本当に面白いし。お笑いを目指してるやつらってね。だから、勉強にもなるしね。悔しい思いもさしてくれるし、安心もさしてくれるし。そのへんで生きていけてると思う」と本人が語っている通り、若手と張り合うことが大きなモチベーションになっているようだ。
そんな大ベテランが、なぜトーク番組を中心に据えて活躍してきたのか。その答えが、若手時代に師匠・松之助から聞いた言葉にある気がしてならない。
「『さんま、雑談をテレビや舞台でできたら、これが一番やで、凄いことやぞ』と、よく仰ったんです。雑談をテレビで? ほんにそんなバカなっていう時代だった。僕は師匠の言うことを真剣に聞いていた。
ある時『笑っていいとも!』でタモリさんと初めてコーナーをやったんです。で、そのコーナーがあんまりハネなくて、ディレクターからどうしようと言われて。僕は『すまんけど、タモリさんとならいける、雑談でやらしてくれ』と試しにお願いしたんです。“雑談でちょっとワンコーナー”ぐらいに思ったのが、『日本一の最低男』の誕生のきっかけだった」(前述の『SWITCH Vol.41 No.1』より)
さんま自身がテレビっ子であり、豪放磊落な師匠を持ったことで早くから進むべき方向が決まっていたのかもしれない。
還暦での引退を撤回
とはいえ、爆笑問題・太田光から「格好悪いところを見せてくれ」と言われ、還暦での引退を撤回してから10年。
当然ながら、若い頃とは体力や感覚も変化しているはずだ。それでも、“さんまちゃん”として明るい70代を見せてくれることに期待してしまう。そんな稀有な芸人は、ほかにいないのではないか。