「神宮球場に直接電話して、『今、何回ですか』って」ラーメン界のレジェンド「ホープ軒」が明かした「正直、『背脂ブーム』になってほしくない」の真意

 日本に数多くあるラーメン店の中でも、屈指の名店と呼ばれる店がある。そんな名店と、その店主が愛する一杯を紹介する本連載。今回は東京・渋谷の老舗「中華麺店 喜楽」店主・林茂夫さんの愛する名店「ホープ軒」をご紹介する。

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 千駄ケ谷の大通り沿いで、昼夜を問わず湯気を立て続けるラーメン店「ホープ軒」。東京の背脂ラーメンを語るうえで、必ず名前が挙がる店だ。

 ホープ軒が創業したのは1960年。創業者となる牛久保英昭さんが吉祥寺の「ホープ軒本舗」の貸し屋台を引き始めたのがすべての始まりだった。英昭さんの息子で、専務の陽一さんは言う。

「当時はホープ軒本舗の屋台は本当に多くて、100台ぐらいあったって聞いています。うちもその中の一台だったそうです」

 英昭さんが引く屋台は、その後内幸町の旧NHK近くで約15年間営業。多くの常連を抱える存在となった。今でこそ「東京背脂ラーメンの先駆け」として知られるホープ軒だが、当初から背脂を使っていたわけではないという。

「最初は脂を入れていなかったそうです。屋台を手伝っていた人が、『脂を使ってみたらどうですか』と言ったのがきっかけだったと聞いています」(陽一さん)

■「表面に脂」で冷めにくくなる

 屋台ラーメンは屋外で営業していることもあり、スープが冷めやすいのが弱点だった。だが、表面に脂を浮かせることで冷めにくくなる。背脂や腹脂を使うようになったのは、実用的な理由からだったのだ。

「結果的に脂のうまみが出て、クセになる味になった。いろいろと試行錯誤しながら今の味に仕上げていったそうです」(陽一さん)

 当時、白濁した豚骨スープに脂を浮かせるラーメンはほとんど存在せず、その試みは極めて斬新だった。真新しさとおいしさが次第に注目を集めていく。

 1975年、ホープ軒は千駄ケ谷に店舗を構えることになる。当初は賃貸だったが、のちに現在の土地を取得。その経緯も、いかにも昭和らしい。陽一さんは言う。

「初台に支店を出した際に買った土地を千駄ケ谷のオーナーさんに譲り、いわば物々交換みたいな形で今の土地を手に入れたんです」

 千駄ケ谷は、西に明治神宮、北に新宿御苑、東に明治神宮外苑と広大な緑地に囲まれている。2000年に都営大江戸線が開業するまでは、人通りの少ない閑散としたエリアでもあった。その一方で車通りは多く、ホープ軒はタクシー運転手の利用が多かった。そのため、当時店は2階建てだったものの、席は1階の立ち食いのみだったという。

「立ち食いは回転率が分かりやすく良い。どうやっても長居できませんからね。当時、立ち食いのラーメン屋ってほとんどなかったんじゃないですかね」(陽一さん)

 好調な客足を受け、4階建てに改装。2階・3階に客席を設け、4階で製麺を始める。こうしてホープ軒は、現在の形へと発展していく。父・英昭さんはテレビ出演も多く、そのたびに客足も伸びた。

「そもそも、ラーメン専門店自体が少なかったですからね。ラーメンは中華屋さんのメニューの一つ、という時代でした。だから、ホープ軒は本当に珍しいお店だったんだと思います」(陽一さん)

 店のサイズは倍になったが、味については、創業当時から大きくは変えていない。骨の産地が変わると多少ブレることはあるが、作り方自体はほとんど変わっていないという。

 現在も24時間営業を続けるがゆえ、スープを切らすことは許されない。だが、作り置きしすぎると劣化する。寸胴は常に4本を回し、出来たてに近い状態を保つよう細かく調整している。スープは時間が経つと酸化し、脂も分離してしまう。だからこそなるべく出来たてを出すことに、今も神経を使い続けている。

■球場に電話をかけて「今、何回ですか」

 この立地ならではの工夫もある。近くにある神宮球場や国立競技場でイベントがある日は、仕込みを増やすのだ。

「今はスマホで試合経過が見られますけど、昔はラジオでしたね。放送がない試合は、神宮球場に直接電話して、『今、何回ですか』って聞いていました」(陽一さん)

 特に国立競技場でサッカーの試合がある日は別格だ。6万人規模の観客が集まり、ビジターのサポーターは前日から店を訪れる。試合当日も朝から夜遅くまで行列が続く。野球が試合後に集中するのに対し、サッカーは前日から当日まで波が続くのが特徴だという。

 東京オリンピックを目指して国立競技場が建設された期間中も、ホープ軒は支えられた。競技場だけでなく、道路やガス管などの周辺工事が同時進行し、昼夜を問わず職人たちが訪れた。スタッフたちは、毎日厨房から工事の進捗を眺めながらラーメンを作っていたという。東京オリンピックは無観客開催となり、大会期間中は客足も鈍ったが、開会式・閉会式の際はその雰囲気を味わいに来た人々でにぎわった。

 コロナ禍においても、ホープ軒は店を閉めなかった。時短協力金よりも、営業を続けたほうが収益になるという現実的な判断もあったが、それ以上に「店を開け続ける」という創業以来の哲学があった。

 陽一さんの最大のこだわりは「はやりに乗らない」ことだ。

「限定ラーメンはやらないです。はやりに乗ると、いつか終わりが来る。ブームにならずに、淡々と毎日やるのが一番だと思ってます。正直、『背脂ブーム』になってほしくないんですよ。ブームはいつか終わるんで」(陽一さん)

 一方で、接客やサービスは時代に合わせて変える必要があるとも考えている。

「昔ながらの荒っぽさがいいって人もいるし、丁寧な接客を求める人もいる。そのバランスは考えなきゃいけないですね」(陽一さん)

 陽一さんは21歳から店に入り、25年以上ホープ軒を支えてきた。厨房に立ち続ければ、手や腰に負担がかかる。腱鞘炎は職業病だ。それでも30年勤めるスタッフもいる。「従業員には本当に感謝している」と語る言葉は重い。

 最後に、ラーメンの未来をどう見るかを尋ねると、こう語った。

「世界三大〇〇みたいなものに、日本のラーメンが入ったら面白いですよね。人間の味覚って世界共通だと思うんで、うまいものはどこでも通用すると思ってます」

 変わらない味、変わらない姿勢。ホープ軒は今日もまた、寸胴の前でその哲学を静かに伝え続けている。(ラーメンライター・井手隊長)

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